第三章8
日が完全に落ちるのを見計らって密かに家から抜け出すように外へ出る。そのまま夜の闇に紛れるように屋敷へ。つい先日と同じ行動だけれど、今日はあのときより足取りが軽い。
あの夜、体そのものは既に軽くなっていた。けれど、以前よりもずっと速く走ることができる足を、私は少しだけ重く感じていたのだ。
暗い気持ちばかりが胸の内を占めていた。溢れてしまう自分の思い。それを旦那様へ向けてしまうことへの罪悪感。この先どうすればいいのかという漠然とした不安。それらを抑えつけ心の底に沈めようとあのときの私は足掻いていた。
けれど今の私はもう、そんなものは一切感じていない。旦那様に私の在り方を、愛を受け入れていただけたから。仲間であるお二人も、まるで同性の友人ができたように対応してくれた。
……もしかして、そのように思ってもいいのだろうか。女の子同士のお友達。そう思ってもいいのだろうか。旦那様だけでなく、彼女たちも女性としての私を受け入れてくれたと。
そこまで考えて、今更疑うことは失礼だと気付いた。アリスさんもクロエさんも、あのとき真正面から向き合ってくれていた。なら、それを信じよう。
更に足取りが軽くなる。まるで体が夜闇に吹く風に溶けたようだ。旦那様への思いが強くなったからというのもあるのだろうか。だとしたらとても嬉しい。
祝福を受けたという事実すら愛おしい。大好きな人からもらった大切なものが、その人への気持ちの強さを教えてくれる。それはとても素敵なものに思えた。
気がつけば警備の者たちに私の存在を覚らせず、エメリーヌ様の部屋の窓まで止まることなく辿り着いていた。部屋の中の気配を探ってから決められた回数窓を軽く叩く。
窓を開いたエメリーヌ様が私の顔を見ると、嬉しそうに微笑んだ。
「そう、あの方はやっぱり、受け入れてくださったのね」
その言葉に一瞬、少しだけ鼓動が強くなる。顔を見られただけでもわかってしまうものなのだろうか。だとすれば私はそれほどまでに、旦那様に受け入れてもらえたことを幸福だと感じていることになる。
自分の思いの強さに自分で驚き、それに嬉しくなってしまう。あれからずっとこんな調子だ。
「わかって、しまいますか?」
「当たり前でしょう。そんなに幸せそうな顔をしているのだもの。私も嬉しいわ」
やはり、私はそういう顔をしていたらしい。そしてその幸福を、目の前の大切な友人にも受け入れてもらえたこともまた、嬉しいと感じられた。
普通は同じ人を好きなり、一緒に侍るようなことになれば嫉妬ばかりが先行するのだと思う。けれど彼女と一緒なのであれば幸福だなんて考えてしまう。
勿論、嫉妬だって人並みにはする。けれどただお互いにいがみ合うだけの関係には決してならないと確信を持てた。
そもそもが、私たちと旦那様の関係は単純な男女関係というだけではない。これは以前エメリーヌ様にも言われたことだった。アリスさんたちと同じ輪の中に加わって、それを少し実感できた気がした。
部屋の中へと私を迎えてくれたエメリーヌ様は、いらっしゃいと小さく言って腕を広げる。ほんの少し前まで、不安に押し潰されそうになっていた私を慰めようとするように。
その友人の優しさが嬉しくて、私は躊躇することなく彼女の広げられた腕の中へ飛び込んだ。ただ、私にはもう慰めは必要ないけれど。
「ふふ、本当に良かったわね……」
「えぇ、ありがとうございます……ただ、慰めてくれなくても大丈夫ですよ? 不安も寂しさも暗い気持ちは何もかも……あの方のおかげでもう、私の胸の内には残っていませんから」
そう、もう私のそんな思いたちは完全に溶かされているから。
旦那様の言葉で。旦那様の温かさで。旦那様の熱い口付けで。
「あら、あの方はよっぽど優しくしてくれたのね……けれど、それならばどうして抱き締めさせてくれているのかしら」
「それは勿論、友人と喜びを分かち合いたかったからですよ」
私の言葉にエメリーヌ様が少しだけ目を見張る。それからクスリと微笑んで私を抱き締める力を強くした。ぎゅっと一度強く抱いてから、少しだけ体を離す。
互いの肩に手を添えて、さらりと前髪を流すように額を撫でる。露になった瞳と自身の視線を合わせる。相変わらず綺麗な紫水晶の瞳。けれど今日は、いつもの妖しい魅力の中に、無邪気な楽しさのようなものを感じた。
距離を詰めるようにして、額と額をこつりとぶつける。
「本当に……可愛くなっちゃって。少し羨ましいわ」
「エメリーヌ様に羨ましいと言われるくらい、そうなれたのであれば嬉しいです」
「もう、そういうところよ。可愛くて、生意気」
小さい頃のように、じゃれ合うようにお互いをからかいながらクスクスと笑う。なんだかとても楽しかった。旦那様と触れているときとは違う。
どきどきして、そわそわして、体全体が熱を持つようで、幸せ過ぎて怖くなってしまう旦那様と触れ合うあの感覚が好き。そして、それと同じくらい、エメリーヌ様とのこの子供のときのように落ち着ける時間も好きだった。
その体勢のまま、周りには誰もおらず閉め切った室内なので多少の声なら漏れるはずもないのに、内緒話でもするように小声で話を続けた。
私とエメリーヌ様で少しだけ違った、旦那様を好きになった部分。俗物で助平なところの愚痴。そんな性根をしているのに、必死に神としてあろうとしている可愛いところ。
新しくできた友人のことも、勿論話した。それを聞いて、もとより二人とじっくり話すつもりがあったようだけれど、そのときが楽しみになったと笑顔を浮かべていた。
「ふふ、別の意味でも羨ましいわ……楽しそう」
「えぇ、本当に……以前の私たちでは想像もできなかった日々です。そして、いずれエメリーヌ様も加わることになる場所ですよ」
「そうね……それで、昨日の今日でここにきたということは、その日々を送るために必要な情報を持ってきたということでいいのよね」
「はい、今回得た情報は、エメリーヌ様も交えて話をするべき案件だと判断したので」
私の言葉にエメリーヌ様が頷いたのを確認してから、今回の件について軽くまとめた話を語って聞かせる。それに静かに耳を傾けていた彼女は数度頷いてからこちらに向き直った。
「大体のことはわかったわ、今夜中にも話したほうが良さそうね。あの方たちを連れてきてくれるかしら?」
「今夜……よろしいので?」
ただの連絡要員である私一人ならまだしも、旦那様たちを迎えるとなれば準備もあるはず。話をまとめる時間もほしいところだろう。
今夜中となればそれなりの労力になるだろう。それを押しても、ということだろうか。
「今回の件は、動くのであれば早ければ早いほうがいいわ。話がまとまったあと、あの方たちも色々と準備が必要になるでしょうからね。さ、行って」
彼女が言うのであれば、そうなのだろう。私はそれを信じて動くのみだ。
頷いて窓を開き、窓枠に足をかける。少しだけ、寂しさを感じた。昔のような友人二人だけの時間が過ぎ去っていってしまうことへの寂しさを。
けれど、エメリーヌ様はそんな私の様子に気付き微笑んで、背中を軽く押す。
「私たちはずっと主従で、友達よ。あの方がそうあれる時間を作ってくれた。またこうして昔のように話せる機会は何度だってあるわ。そのために、今だって頑張るのでしょう?」
そうだ。私たちの、エメリーヌ様の時間は、もう僅かなものではない。彼女の命を蝕んでいた、私たちにとっての絶望そのものは、旦那様が消し去ってくれたのだから。
これからも、私の友人の時間は続いていく。また二人の時間は巡ってくる。そこに旦那様が混じることもあるだろう。
それは……それは本当に、なんて幸せなことだろうか。だからこそ、エメリーヌ様が言うように私たちは頑張るのだ。頑張ることができるのだ。
だからこそ、寂しがったままでいるのは違うと思った。振り返り、悪戯っぽくなるように笑顔を浮かべて、言ってみせる。
「えぇ、そうですね……ですが、エメリーヌ様?」
「あら、なにかしら」
何を言ってくれるのだろうか。そんな風に楽しんでいるような笑みを彼女が浮かべた。
楽しげな友人に向かって、こちらも悪戯な笑みを浮かべたまま、生意気な言葉を吐き出す。
「たしかに私たちはずっと主従で友達ですが……旦那様の腕の中にいるときだけは、私は彼のものですので、そこのところお忘れなく」
「ほんと……そういうところだわ」
困ったように、楽しそうに、私の友人が笑う。
その笑顔を背に、私はまた夜の暗闇に身を躍らせた。




