第三章2
準備をすませてダンジョンへ向かうため家を出る際にフランに声をかけられた。
「すみません旦那様、外ではフランと呼ばないようにしてください。今まで通りフェリシーでお願いします」
そう真面目な顔で言ってから、何かに気付いたのかはっとした表情になり、うろたえたように視線を左右に振る。それから申し訳なさそうな顔で見上げてきた。
不安げに自身の両手を握りながら、小さく口から零すように言葉を紡ぐ。
「あ、あの……愛称で呼ばれるのは嬉しいんです。ですが名前から私の正体が露見しないとも限りませんし、その可能性は少なくしたほうがいいと思ったからでして……」
早口でそうまくしたてながら、こちらの顔をちらちらと窺っている。まるで、俺が先ほどの言葉で俺が気分を害して、もうフランと呼んでもらえなくなることを恐れるように。
いや、事実そうなのだろう。俺からすれば、あれほどの想いを向けられたのであれば、本当の名前を呼び彼と向かい合いというくらいの気持ちだった。しかし、彼にとってはもっと大事なものであったのかもしれない。
女としての偽りの自分ではなく、男であるそのままの自分を受け入れてもらえた。彼が名前を呼ばれることでそのような実感を得ていたのなら、フランと俺が呼ぶことは重要だろう。
「わかってる、色々と考えてくれてありがとう。これからも、他に人がいないときはフランの名前で呼ぶから安心してくれ、な」
そんな風に不安に思っているのであれば、安心させてあげたい。
だから、彼に向かって手をのばした。肩を竦ませるように一瞬体を固くするフラン。
「あ……」
けれど、すぐに体から力を抜いた。俺の手が彼の頬を撫でていることに気付いたからだ。弛緩したふやけた表情のまま、その手をとって頬ずりをしてくる。
どうやら不安な気持ちは払拭することができたようだ。そのままくすぐるように指を動かして耳などにも触れると、彼はくすぐったそうに身を捩った。
「旦那様に名前を呼んでもらえる時間が、毎日楽しみになってしまいそうです」
可愛いことを言ってくれる。こちらも何度でも名前を呼びたくなるほどだ
しかし、これから外に向かうのだから、意識を切り替えなければならない。一先ずはフランと呼ぶのはお預けだ。外ではフェリシー、メイドをしてくれている少女だ。
俺が意識を切り替え終えたときには、彼も手を離して居住まいを正していた。
「すぅ、ふぅ……では、いきましょう旦那様。お二人も待っています」
「あぁ、行こうか、フェリシー」
玄関を二人で潜り、外で待っていた二人に追いついて、ダンジョンへ向かった。
初級ダンジョンと違い見張りのいる建物にギルドカードを提示して入り、螺旋階段を下っていく。中級ダンジョン一階層は、最早伐採跡を辿り時折現れる魔物を倒すだけであるが、ダンジョン内であることに変わりはない。気を引き締めて進む。
とはいえ、他の冒険者たちも通っている道であるから、魔物の数も少なく、いつも通り短時間で二階層まで辿り着いた。
相変わらず肌に張り付くような霧状の雨に包まれた沼地は見通しが悪く、泥に足をとられて歩きにくい。
何度も足を運び慣れてきたとはいえ、長居したいとは思えない。次の階層への階段を早いところ見つけたいものだ。
「……前方、ジャイアントクレイフィッシュが一匹、ポイズントードが二匹」
「わかった。アリスとクロエはジャイアントクレイフィッシュを、ポイズントードは俺たちで相手をする」
静かにフェリシーが敵の接近を知らせる。それを聞いて短く指示を出した。
甲殻の多い相手であれば、アリスとクロエに任せたほうがいい。俺のメイスも有効ではあるだろうが、それだとフェリシーが一人になってしまう。それならアリスとクロエの二人で早々に大物を沈めてからすぐに合流できるようにしたほうがいいだろう。
指示を聞いた全員が即座に動く。アリスは軽量化を使い、沼地であるとは思えない軽やかな動きで巨大なザリガニに向かって駆けていく。
それに対してクロエはもっと豪快であった。まだまだ相手への距離がある状態だというのに手に持った戦斧を構えている。以前まで使っていたものとは違う意匠の斧だ。
「はぁあああああああああああ!」
気合をこめた咆哮。手に持った斧から衝撃が発生する。クロエの背中側へ斧から発生した衝撃は、彼女の体をジャイアントクレイフィッシュへ向かって飛ばしていった。
敵の上空まで高速で飛んでいったクロエは、くるりと縦に回るようにして斧を構える。更に先ほどと同じように斧から衝撃が発生し、今度は地面へ向かって加速する。
「でぇえええええええええやっ!」
それはまるで落雷だった。轟音をあげて地面へと落ちる。その一閃は奴の巨大な鋏を根元から両断していた。自慢の鋏を片方失ったことでバランスが崩れる。
その瞬間を、アリスは見逃さない。既に巨体の下にもぐりこむように近寄っていたアリスが倒れこむその質量も利用するように剣を口へ突きこむ。
「はっ!」
その剣は深々と突き刺さり、柄まで入り込む。次いで倒れこんでくる巨体よりも素早く抜き去り、軽量化を使ったのだろう軽やかに横へと跳ぶ。
ジャイアントクレイフィッシュはその巨体を沼地へと半ば沈み込ませて動かなくなった。
彼女たちが動いている間に、俺たちもまた別の敵と対峙していた。
毒々しい紫色の巨大な蛙。人間も丸呑みにできてしまいそうなほどのそれが、凄まじい跳躍力によって上空から迫ってくる。しかし、うちの優秀なメイドはそれを許さない。
銀色の輝きが三つ、視界を横切る。それらは空中で無防備に体を晒している蛙、今まさに俺たちに襲いかかってきたポイズントードの額へ突き刺さった。
ポイズントードが足を広げたまま水音を立てて落ちてきた。そのまま動くことなく泥の中へ体を沈めていく。底が深いわけではないので、体全てが見えなくなることはなかった。
「旦那様!」
フェリシーの鋭い声。ポイズントードは二匹、わかっている。その声に応えるように盾を構えて前へと突き出す。跳びかかろうとしていた蛙の顔面を思いっきり叩いてやった。
重量化により足が泥の中へと沈むが、そのおかげでかなりの質量でぶつかられたというのに俺の体は殆ど揺らがない。警戒したようにポイズントードが後ろに跳ぶ。
「さすが、旦那様。そちらへ誘導していただいて感謝です」
そこでフェリシーの声がかかる。彼の武器の特性を、俺はもう既に知っている。そして昨日のおかげで、彼とのわだかまりは皆無だ。であるならば、これくらいのことはしてみせなければならないだろう。つまりは、彼を信じるということに尽きる。
既に倒していたポイズントード、その近くへと俺は奴を突き飛ばしていた。ナイフの刺さった死体とフェリシーを結ぶ直線上。そこに今、奴はいる。
「そこは既に死地……言葉は理解できないでしょうが、意味は体で理解してください」
そう言う彼は投擲の構えはとっていない。ただ手をポイズントードへ向けているだけ。しかし、フェリシーに向かって跳びつこうと奴が構えた次の瞬間、その体に穴が開いた。
いつの間にかフェリシーの手の中にはナイフがあった。その数三本。それぞれ指の間に挟むようにして握られている。
体に三つの穴を開けられたポイズントードは当然のように亡骸と化し、泥の中へと沈んでいった。その背後の既にナイフが刺さっていたはずの死体からは、そのナイフは消えている。
それらのナイフはもう、フェリシーの手の中に戻ってきているのだから当たり前のことだった。彼はナイフを振るい、ついていた体液を落とすと懐へと仕舞った。
「さすがだフェリシー、助かった。あちらも終わったようだし合流して、これ以上沈んでしまう前に素材と魔石の回収をしてしまおう」
「はい、旦那様」
少し離れてしまっていた二人と合流し、沼地に沈んでいる死体から剥ぎ取りを行う。魔石を魔物たちの体内から取り出しつつ、俺はクロエとフェリシーの新しい装備のことについて思い出していた。




