第二章37
辺り一面が不透明な水で満ちたそこは、いわゆる沼地と呼ばれる場所だった。進むたびに泥に足がとられそうになり、霧のような雨のせいで視界も悪い。
中級ダンジョンの二階層。ダンジョンそのものが障害となるということを深く実感するのがこの階層だろう。慣れないうちはただ進むだけでも体力を激しく削られる。
そして当然、ダンジョンである以上、それだけで終わるはずもない。
「二時の方向、敵です、水中からしかけてきますよ!」
フェリシーのその言葉と共に、濁った水の中から巨大な鋏が俺たちを狙って現れる。しかし彼が忠告を発すると同時に動いていたおかげで余裕をもって避けることができた。
後方で警戒を続けてくれているフェリシーの傍に寄り盾を構える。俺の動きを理解してくれた彼は巨大な鋏から隠れるように俺の背中側へまわった。
「はぁあああああああ!」
雲により日光が遮られているおかげで、クロエはワンピースを脱ぎタンクトップとズボンという身軽な出で立ちとなっている。その姿を肌に張り付くような雨に濡らしながら、巨大な戦斧を振りかぶり、自分の上半身ほどはあろうかという鋏へ横合いから叩きつける。
衝撃を受けたことで激しい水しぶきをあげながらその鋏を持った巨大な影が姿を現す。それは全長が成人男性の背丈を軽々と超えるほどのザリガニだった。ジャイアントクレイフィッシュ、強固な甲殻により並みの攻撃は通らず、巨大な鋏は鉄鎧さえ砕く危険な魔物だ。
「でぇええええええい!」
そんな存在に対して、クロエは臆することなく再度戦斧を振りかぶる。先ほど弾いたものとは反対の鋏が迫ってくるが、落ち着き払って戦斧でそれも弾いた。
その瞬間、僅かな水音。数度水面を何かが跳ねるように連続したそれ。
見ればアリスが水中にある岩を利用し、水面の上を跳ぶことで移動していた。
辛うじて目で追えるほどの動き。素早く肉薄する。両の腕を振り上げた。鉄の色が雨に濡れ僅かに光る。クロエにより弾かれた鋏は間に合わない。
「シッ!」
一閃。視界を遮っていた霧状の雨すら振り払うような鋭いそれは、見事に伸び切っていた関節部分を寸断した。水柱を立てて断ち切られた鋏が沼へと落ちる。
痛みでもがいているのか残った鋏を振り回している。激しく動いているせいでこちらにも届きそうになる。フェリシーが僅かに右側の服を引っ張った。咄嗟に盾を右側に構える。
「ぐぉ……!」
吹き飛ばされそうなほどの衝撃を踏ん張ることで耐えようとする。しかしぬかるんだ足場では上手く踏み留まれない。それを認識すると同時にメイスに魔力を送る。
重さが増し足が泥に沈んでいくが、今はそれでいい。どうにか吹き飛ばされずにすんだ。
どうやら振り回された尾が当たったらしい。手振りでフェリシーに礼をした。
奴の暴れっぷりに心配になり、二人に視線を移す。
アリスは既に岩場を利用して跳躍し離れていたようだ。クロエも後ずさるようにして攻撃範囲から逃れることはできている。
暴れるジャイアントクレイフィッシュを見ていたアリスがクロエに一瞬の目配せ。二人が頷き合う。次の瞬間クロエが駆けた。残った鋏目掛けて戦斧を下から叩きつける。跳ね上げるように振るわれた戦斧は、鋏をその巨大な体ごと僅かに宙に浮かせた。
意図を理解したのだろう、フェリシーもまた動いた。クロエの攻撃に合わせるよう目に向かってナイフを投げる。それは見事に命中して奴の視界を奪った。
そして、既にその真上に彼女はいる。大きく跳躍し、剣を構えたアリスが落ちていく。
落ちた鋭い鉄は、脳天へと突き刺さった。
ゆっくりとその巨体が倒れていき、激しい水音を立てて沼へと崩れ落ちる。
「ふぅ……新しい魔物相手でまだ慣れてないこともあるけど、やっぱり初級のときと比べると中級は魔物も手強いね」
「そうですね、単純に強いと思いますし、周囲の環境のせいで普段通りに動けないというのも手強く感じる大きい原因かと。ここだと泥のせいで動きが制限されますしね」
「そうだな、慣れていないとすぐに体力も尽きそうだ。いつもより早めに余裕をもって切り上げられるように意識しておこう」
「はい、旦那様。そのために回収も迅速に行いましょう。警戒はお任せください」
話しながら倒れたジャイアントクレイフィッシュに近づき、解体を行う。魔石と甲殻や鋏などを剥ぎ取りバックパックに詰め込んだ。
因みに今回の探索から剥ぎ取りにはアリスとクロエも参加している。周囲の警戒はフェリシーがいれば十分だ。というよりも誰もフェリシーより早く気付くことができないのだ。
魔石と素材の回収を終えて更に先へと進む。
二階層は先ほどの水の中に隠れて奇襲してきたジャイアントクレイフィッシュのような実にいやらしい魔物が揃っている。
強酸を飛ばしてくる人よりも巨大なナメクジ、アシッドスラッグ。吐き気や寒気、体の痺れなどを引き起こす毒を持った大型犬ほどの大きさの蛙、ポイズントード。木や岩場などで獲物を待ち伏せて頭上から奇襲をしかけてくる蛇、ストームスネーク。
そしてこの階層でもっとも強く厄介なのが……。
「この気配、大きさ……ハイディングクロコダイルです!」
ジャイアントクレイフィッシュ以上の巨体でありながら、沼地に上手く溶け込むような体色をしており、気付かぬうちに獲物の傍へと近寄りその巨大な顎で喰らいつく鰐、それが今まさに俺たちの目の前にいるハイディングクロコダイルだ。
フェリシーの声に反応してか、隠れることをやめて体を起こす。その全長は二階建ての家屋ほどあるだろうか、まるで恐竜のようだ。人間一人くらいなら丸呑みにできそうだ。
実際にハイディングクロコダイルに飲み込まれた人間もいるらしい。
そんな魔物が今目の前に現れ、そして人を丸呑みにできるその口を大きく開き突進してきている。全員が視線を合わせ頷くと即座に動く。
俺は正面に立ち、メイスと盾を構える。その後ろに控えているフェリシーは既に投擲の準備を終えていた。俺の体を避けてナイフがハイディングクロコダイルに飛んでいく。
大きく開かれた口を瞬時に閉じられるはずもなく、ナイフが口内に刺さり奴が怯む。それを見逃すことなく俺は走り出し、メイスを振りあげ重量化も使い思いっきり振りおろした。
奴の鱗と分厚い肉により、それだけで大きなダメージを与えることはできない。しかし怯んだ相手の口を閉じさせることくらいはできる。そのまま重量化によって増した体重を使って開くことができないように圧し掛かる。
突然巨大な重りでも乗せられたような感覚に奴が驚いている。だが横に逃げようとすればすんなりと逃げられてしまうだろう。しかしそう動くまでに僅かに隙ができる。
なら、それで十分。奴の両側へ移動していたアリスとクロエが動きが止まったのを確認して自身の得物を構えていた。脳天に巨大な戦斧が叩きつけられ、目から剣が突き刺さる。
どちらも脳にまで到達しているだろう。それで生きていられるはずもなく、体から力が抜けていくとハイディングクロコダイルはぷかりと沼に浮かんだ。
「お疲れ……うぇー、唾液でべとべとだ。まぁ、どうせナイフも回収するんだしいいか」
「あ、すみません。私が……」
「俺がやるよ、今言ったように既に唾液で濡れてるしな……っと、ほれ」
死体となった巨大な鰐の口の中に手を突っ込み、ナイフの柄を掴んで引っこ抜く。
当然ナイフもべとべとになっている。なので自分の体と一緒に奇跡を起こして綺麗にしてからフェリシーへと渡してあげた。
「……ありがとうございます」
恐縮したように肩を竦めながらフェリシーがナイフを受け取った。
それから数度の戦闘を繰り返してから、今日のところは帰ることにした。やはり慣れていないので体力の消耗が激しい。
奇跡で泥がついた服なども全て綺麗にはできるが、あまりに身奇麗だと怪しまれる。雨をシャワー代わりにして階段前である程度汚れを落としてからそのまま地上へ戻る。
いつものようにギルドへ入り、買い取りをしてもらおうと思ったのだが、何だかその日は様子がおかしかった。いつも多くの冒険者により騒がしいのだが、今日はざわざわとしてこそいるが皆ある場所を囲むようにして小声で囁き合っている。
何があったのだろうかと俺たちもそちらを見てみると、受付前で数人ほどの集団がなにやら揉めているようだ。その先頭に立っているのは、修道服のようなものを着ている美しい少女だった。




