第二章25
床へ倒れ込みそうになる彼女に驚き、咄嗟に抱きとめる。意識はしっかりとあるようで俺の体にしがみつくようにしてなんとか踏み留まった。
しかしその足はガクガクと震え顔は赤くなり汗をかいている。先程まで泰然として笑みを浮かべていたのと同じ人物なのか少し疑いたくなってしまいそうな変わりようだった。
ただ俺はこれが彼女の素であることを知っているので、今まで気を張っていたのだなと納得することができた。だからこそ彼女をしっかりと支えてやりながらベッドまで運ぶ。
「大丈夫か、エメリーヌ? ほらベッドだ」
「は、はい……寝なければいけないほどではないので、このままで」
未だに震えて息が荒くなっているエメリーヌは自身の胸を押さえながら、どうにか落ち着こうとしているようだった。恥ずかしがり屋の彼女が今までの自分を知っている使用人たちの前であれだけのことをしたのだから仕方のないことだろう。
震える手がぎゅっと強く俺の腕を握っている。隣に座った俺に縋り付くようにしているのは倒れそうになる体を支えているのか、精神の安定を求めて人肌を欲してるのか。どちらにせよ彼女がそれを求めているのなら、俺は彼女を支えるだけである。
その様子を見たアリスとクロエは納得したように頷き合って、部屋の入り口まで歩いていき外を警戒するように扉の前に陣取った。二人に感謝の意を手をあげて示すと、笑顔を浮かべてそちらは任せましたとでも言うように頭を下げられる。
幾許かの時間、震える彼女をただ抱きしめるだけの時間が続く。どうにか落ち着こうとしている彼女に対して下手に何かを言うのも躊躇われた。
理由はそれだけではない。先ほどから少しずつ大きくなっていった感覚はそれが己の勘違いではないことを今は克明に教えてくれていた。エメリーヌが、救いを求めている。
この震えはもしかしたら、使用人に対して演説を繰り広げたことへの羞恥や今後彼女が背負うことになるだろう責務に対するものだけではないのかもしれない。
「わ、私……」
そう考えていると、エメリーヌが俺の胸元を掴むようにして縋り付き、目尻に涙を溜めて彼女がこちらを見上げる。唇と喉を震わせながら、彼女が絞り出すように言葉を漏らす。
「私、怖いのですわ……怖く、なってきてしまったのです……すみません」
「それは、今後背負うことになるだろう責任や命のせいで?」
「いえ、いいえ……それは確かに怖いですけれど……それよりも、なによりも……」
溜まっていた涙が溢れだし、彼女の頬を流れていく。
それを気にした様子もなく、エメリーヌは嗚咽の混じる声で告げる。
「私は、あなた様を裏切ってしまうかもしれない、自分が怖いのですわ……!」
吐き出すように言い切った彼女は俺の胸元に顔を埋めて遂に声をあげて泣き出す。
そういえば昨日も彼女には泣かれてしまった。彼女のことは泣かせてばかりだなとずれた感想が頭を過ぎる。思考がつい逸れてしまったが、エメリーヌの言葉の意味がよくわからないのだから仕方がないと思う。俺を裏切ってしまうかもとはどういうことだろう。
「何故、俺を裏切るかもしれないと?」
抱きしめ頭を撫でながら彼女に問いかける。
そう、彼女が俺を裏切る理由が見当たらないのだ。
ベルナールやダフニーに対して祝福を与えても影響がなかったことから、俺の祝福には思考に制限を与えたり何かを強制するようなものではないことはわかっている。だからこそ彼女が裏切ろうとすれば確かにそうすることもできるだろう。
ただ、その場合俺に敵意を抱くことになるだろうから、祝福の効果は殆ど失われることになるだろう。そういった意味でなくとも、協力関係にある彼女が俺を裏切ったところで何か利益があるとも思えない。
「……すんっ、私は、兄と同じ血を半分引いていますわ」
「腹違いとはいえ兄妹だから、そうだな」
「ならっ! ……私が兄と同じような野心を抱かないと、どうして言えますか?」
あぁ、なるほど。貴族としての確かな地位を手に入れれば、彼女はできることが格段に増えるだろう。そうなったとき、その上にいる俺を邪魔に思うかもしれない、と。
そうして兄と同じように、叛乱を起こし俺という邪魔者を除こうと自身が動くかもしれないことを彼女は恐れているらしい。愛を語った相手すら手にかけてしまうかもしれないと。
「頭が……頭の中の盤上が、その上で動き続ける駒が止まってくれないのです。いくつもいくつもいくつも、様々な盤面が頭の中に浮かんでは、よくない想像すら浮かんでしまう。あなた様の汚点と呼べるようなものすら思いついてはどうにか否定して、今この瞬間だってこの会話の中ですら、あなた様を今後のために欺こうとする自分がいて、こんな、こんな……!」
遂には自分の肩を抱くようにして俯き、エメリーヌは体を大きく震わせる。
その声は体と同じく震えながら、次第に大きくなっていく。彼女の中で広がり続ける恐怖や動揺に比例するかのように。
恐らく俺はその彼女の考え全てを否定する術を持っていない。その考え全てを理解できるとも思えない。けれど、すべきことだけはわかった。
「大丈夫だ」
彼女を安心させてやらなければいけない。彼女に力を与えたのは俺なのだから。
それに何よりも、愛すると誓った女が震えているのに、何もしないなんて男としてありえないだろう。目の前で不安に震えているのだから、抱きしめてやるのが男というものだ。
だから俯く彼女の背中に腕をまわして、強く抱き寄せる。先程エメリーヌの方から縋り付いてきたときよりも二人の体を密着させるように、強く。
「だい、じょうぶ、って……な、なんで、なんでそんなことが言えるのですか!」
抱きしめられながら、僅かに腕の中で暴れて叫ぶエメリーヌ。けれどその力は弱弱しいもので、俺を跳ね除ける気はないようだった。
ただ癇癪を起こした子供のように小さく腕を振り回して俺の胸を軽く叩く。
「この祝福の力が、あなた様を害することができないと思っているのですか、認識が甘いと言うほかありませんわ! なくなってしまうことを考慮に入れてあなた様に害を為さない計画を立てそれを後に利用する、思考を誘導してあなた様のためであると思い込みながらあなた様を結果的に害する……いくらでも方法はあるんです! そして私はそんなことをこうして思いついてしまえているのですよ! 私、私は……兄のように、あの人みたいになんてなりたくない……! あなた様を愛せなく、あなた様に愛されなくなるなんて、耐えられ……んっ⁉」
俺を、そして彼女自身すら傷つけようとする唇を塞ぐ。
彼女は驚愕に目を見開き、力なく俺の後頭部や背中をぽこぽこと叩く。けれどその力はどんどんと弱弱しくなっていき、すぐに止まってしまった。
そして俺の頭を抱くように掴まれ、ぐっと引き寄せられる。彼女のほうからも強く顔を押し付けられ、我武者羅に唇を甘く噛まれた。舌を口内に差し込まれ文字通り貪られる。捕食される獲物とはこのような気分なのだろうか。だとしたらこれほど求められるのは悪くない。
その口付けは、彼女の涙の味がした。
「ぷはっ、はぁー……はぁー……憎らしい、ですわ」
「何が?」
唇を離しても顔を近づけたまま恨みがましくこちらを見つめるエメリーヌと額を合わせながら言葉を交わす。言葉と共にかかる息が少しくすぐったかった。
「キス一つで私が納得すると考えているあなた様が、そして実際にあれだけ色々考えていたはずなのにキス一つで思考が全部塗り上げられるような私の御しやすさが、です」
「可愛いぞ?」
「か、からかわないでくださいまし」
「いや、約束したからな……からかってるんじゃなくて本気だ」
「約束、って……」
「何度でも言うがお前が求めてくれる限り、救って、褒めて、肯定して、愛するよ」
その答えにエメリーヌは顔を赤く染めて、先程とは違う意味で顔を俯かせる。
そんなエメリーヌの頭を撫でながら言葉を続ける。
「だから、お前が悩んだり助けてほしいと思ったときは、こうしていつでも話を聞いて俺なりに受け止める。それに裏切るならそれでもいい。お前がするべきだと思ったなら、そのときは俺が馬鹿をやってしまったのかもしれないからな。そんなことになってしまったときは、裏切ってでも俺を止めてくれるような奴がいれば心強い」
俺の言葉を聞き終えたエメリーヌが呆けたように俺を見上げてくる。
そして堪らずといった様子で噴出した。
「ふっ、くすくす……裏切るかもしれない相手を、頼もしい、なんて……」
「俺は俺自身をそこまで信じてないからな、結構な俗物だし」
「……そうですわね、こんなときでも胸の感触を堪能してらっしゃるようですし」
ばれてた。しかしこれは仕方ないと思うのだ。肉付きの良いエメリーヌが密着していれば自然と色々なところが引っ付いて意識もしてしまうというものだし。
更に言えば褒めるとか肯定するとか愛するとか、彼女のことを意識しているからこその言葉であるからして、彼女の魅力の一つにその肢体があるのは確かな真実であり、それを考慮に入れることはむしろ誠実であると言えるのではないだろうか。
「まったく、もう……」
少しだけいじけたように、彼女が頬を膨らませる。けれどそれはどこかわざとらしく、俺の気を引くためのポーズであることがわかるものだった。
縋り付くようにしていた手が指を一本のばして、胸を這ってくる。くすぐったい。
「あれだけ悩んでいたのが、本当に馬鹿らしくなってしまいそうですわ」
「しまいそう、なんだな」
「そうですね……気が楽になったのは確かですわ、ありがとうございます」
言いながら彼女は微笑むが、しかしそこに不安を少しだけ覗かせる。
「ですが、やはりこの力を私は持て余してしまうかもしれません」
「そうか……」
俺が与えてしまった力だ。それは彼女の道を開いたのだろうが、同時に悩ませてもいる。
だからこそ、その悩みを俺もどうにかしてやりたい。そう考えたのだが。
「そうです。だから……」
「ん?」
「だから……また私が悩んでしまったときは、あなた様が全て忘れさせてくださいまし」
言いながら彼女は胸を這わせていた指で、ちょんっと俺の唇を突いた。
さらにその指を自分の唇に持っていき、そっとなぞってみせる。挑発するように。
そうだった……彼女のこういう手管に、俺は勝てない。
「任せろ」
だから俺は、そう答えることしかできない。そう答えたい。
「ふふ……期待していますわね」
妖しく微笑んだ彼女は、再度俺に縋り付くように抱きついてくる。体はまだ、ほんの少しだけ震えていた。だから俺はそっとその肩を抱く。
その間、アリスとクロエは観察するようにジッとこちらを見ていた。特にエメリーヌの手管が存分に発揮されていたところを。
神様、今日も信徒たちが強いです。神は俺だった。




