第一章5
ベッドに座らされて、ジャージの上とシャツを脱ぐ。奇跡によって清めることができるとはいえ、洗ったり拭いたりということをしないのは何だか不潔な気がするので、身体を拭くためのお湯と布を頼んでおいたのだ。
アリスはタライに入ったお湯に布を浸してしっかりと絞ってから、そっと壊れ物に触れるように俺の背中を拭き始めた。強くしすぎないように気をつけているのか、背中に感じる圧力はとても弱い。
「熱くはありませんか?」
「あぁ、それともう少し強くしてくれても大丈夫だぞ?」
「あ、は、はい……」
肩越しに振り返り、ちらと顔を見てみれば、非常に真剣な面持ちで背中を拭いてくれていた。御神体の掃除をする敬虔な信徒みたいなものだろうか。まぁ、他人に体を拭かれるという事態に緊張して固まった身体は確かに銅像のようになっているが。
俺は銅像……なんて言い聞かせるように考えていると、ペタリと布以外の柔らかな感触を背中に感じて僅かに跳ねるように身体が反応した。見ればアリスが直接手のひらで俺の背中に触れている。どうかしたのだろうか。
「アリス?」
「あ、すみません……ただ、リク様の身体も人と同じなんだな、と」
「あぁ、人種の違いくらいはあるだろうけど、殆ど同じはずだ」
異世界人の身体がこの世界の人間とまるっきり同じかどうかはわからないが、外見的には外国人程度の差異しかない。外でみかけた獣人やエルフともなると、色々と違うところもあるだろうが、そこはこの世界の人間も感じている差異だろう。
しかし、ペタペタと触るのはくすぐったいのだが、アリスは何を考えているのか。何かを確かめるためにしているようにも見えるから、やめろとも言いにくい。
「リク様は私が守ります」
「ん? それはありがたいけど、急にどうしたんだ?」
「……神であっても、傷つく身体なのだと思うと、怖くなったんです。リク様が傷ついて、お父さんやお母さんのように、もしも居なくなってしまったらって」
そう言うアリスの顔は憂いを帯びていた。
日本に帰る方法を探すのが一番の目標、だと思っていた。けどこの世界で生きるということは、この世界の人と関わるということなんだと、アリスの顔を見ながら思い知った。
ただ関わり、友人や知人ができたとして、元の世界に戻ることになれば、別れを惜しむことになるだろう。まして俺を慕い、俺のために懸命に生きる者ができたら、惜しむどころの話じゃないのは明白だろうに。
何も持たずに異郷の地に居るという状況に危機感を覚えて、今後どうすればいいのかを真面目に考えていたつもりだったのだが、若しかしたら特別な力を得たことで舞い上がっている部分もあったのかもしれない。信徒を得るということの重さを、もっと真剣に考えるべきだったのかもしれない。
元の世界に帰る方法を探ることはやめない。けれど第一に考えるべきは、アリスと今後増えるだろう信徒のことだ。一緒に日本へ行く、この地に骨を埋める、行き来する方法を探す。そう考えると、色々と選択肢は思い浮かぶ。
ただ今は元の世界に戻るための情報なんて、取っ掛かりすらない。どころか生活基盤を整えようとしている途中だ。考える時間はまだあるだろう。このことについても、ゆっくりと考えていこう。
しかし、ただ一つ、現時点でも確かなことはある。
「アリス」
「はい」
「俺はお前を置いていったりはしない、絶対だ」
「リク様……」
「というよりも、お前が居てくれないと困る。これからも俺を助けてくれるか?」
情けないことを言っている自覚はある。それでも、アリスがまた一人になってしまうことを恐れていて、それをこんな言葉だけで安心させられるかもしれないなら、言わないという選択肢はない。
とん、と俺の背中にアリスの額が当たる。サラサラとした髪の毛の感触がくすぐったくも心地好い。そのまま背中に息が当たるような近さのまま、アリスは嬉しそうにこう言った。
「当たり前です。もう私の全ては、リク様に捧げているのですから」
ぎゅっと背中から抱きついてきたアリスの手に、自分の手を重ねる。
離れるつもりはないのだと証明するように。
触れ合った手と、背中に当たった肌から温もりが伝わってくる。それに安心感を覚える俺もまた、アリスがいてくれることに本当に感謝しているのだと実感した。子供特有の熱の高さが、俺を慕い信じて共にいてくれる存在がいるのだと教えてくれるようで……。
「……ん?」
「どうかされましたか、リク様?」
背中に当たった、肌……。
あれ、おかしいな……。
「アリス……もしかして、脱いでるのか?」
「え、はい。そろそろ自分の身体も清めなければと思っていたので、先程」
そうか、俺が思考に沈んでいる間に、手が止まっていたのはそういうことか。
つまり今背中に感じている柔らかで滑らかな感触は気のせいでも勘違いでもないということらしい。そっと離れようとしたが、前に回されたアリスの腕が、がっしりと捕まえてきているので、離れることができなかった。
「待ってくださいね、前もすぐにお拭きしますので」
「……あぁ、頼んだ」
ここで断って、厚意を無下にするのも憚られる。大人しく捕まった状態で、アリスに拭かれるままに身を任せた。慣れてきたのか、丁度良い力加減で拭いてくれて気持ちも良いからな、うん。
ただせめて前にまわって……それはそれで眼前にアリスの裸体が晒されることになるか。子供とはいえ今のアリスは俺の祝福で魅力に溢れる容姿になり、更には信仰という形ではあるが俺に好意を寄せ、言えば大抵のことはしてくれるという美しい少女。
これっぽっちも意識するなというのは難しい話だ。
つまりは、やっぱり祝福のおかげかアリスには純粋な身体能力じゃもう勝てないな、と思考を別の事柄に飛ばしつつ、大人しくしていることしかできなかった。
そうして俺を拭き終わると、アリスも自分の身体を拭くことになるが、さすがに背中は拭き辛いだろうと、俺が拭くことにした。これもまた報酬を分け合うときのように遠慮するかと思ったが、少しだけ逡巡したあと、お願いしますとむしろ頼まれた。
「少しでも、綺麗な姿でお仕えしたいので……」
恥ずかしげに頬を染めながらそんないじらしいことを言われて、喜ばないはずはない。しっかりと拭いてあげようと気合を入れる。
そう、気合を入れたのだが、だからこそアリスの背中を注視してしまい、改めてアリスがどれほど綺麗になったのか実感することになった。
布越しでも肌の滑らかさは俺と全く違うものだと実感できるし、長い金糸のような髪の毛をかきあげて晒された背中はシミ一つない。元々丁寧に拭くつもりではあったが、それを実感して芸術品にでも触れるかのように、丁寧に拭くことを心掛けた。
「あの、もう少し強くしていただいても構いませんよ?」
「ん、あぁ、そうか、わかった」
力を入れすぎないように気をつけすぎたせいか、そんなことを言われる。
そして、お互いに似たやり取りをしている、と少し経ってから気付き、どちらともなく笑いだしてしまった。背中を拭くだけというのに、少し気負いすぎていたようだ。
拭き終わり、宿屋に向かう途中買った寝巻き代わりのゆったりとした服に着替え、タライと布を宿の主人に返す。そのまま部屋に戻り、二人分の水を頼んだときに渡され飲み終わった後のコップにスープを創り入れる。それからホットサンドも二人分創り、アリスと分け合って食べた。
奇跡を使うときに尊敬の眼差しで見られるのは色々な意味で面映い。唐突に手に入った力で、俺自身のものであるという実感は薄いし、向けられる感情についても慣れていないからだ。とはいえ、美味しそうにご飯を食べるアリスを見れば、この力があって良かったと素直に思うのだから、人間というのは現金なものだ。
それに、俺個人としてもこの力があって感謝している。熱々のハムと卵、触感がしっかりと残っているキャベツをこんがりと焼けたパンと一緒に頬張り、その美味しさを味わえば、難しいことなど考えずに、ただ美味いものを食べられて良かったと思う。
そうして食事を終えた頃、置かれていた蝋燭が大分短くなっていることに気付いた。灯りになるものはこれしかないので、この蝋燭がなくなれば当然真っ暗になってしまう。
「蝋燭以外の灯りはないのか?」
「油を使ったランプもありますよ。そういえば、お金持ちの商人や貴族の中には、魔石を使ったランプを使っている人もいるって話も聞きました」
「なるほど、使い切ったらどうすればいい?」
「灯りが欲しいのであれば、宿の人に頼めば追加でお金を払えば用意してくれると思います。ただ節約するために、普通はそのまま寝ることが多いですね」
夜は寝るもの。ごく当たり前のことだが、夜でも灯りの絶えない二十一世紀の日本に生きていると、忘れてしまっていた。持ち帰った仕事を徹夜でこなすこともあったからな。
夜遅くまで起きて、そういえば他に何をしていたんだったか、と考えているとアリスがくいくいと袖を引っ張ってきた。
「明日も大変でしょうから、そろそろ寝ませんか?」
「あぁ、そうだな……アリス?」
「はい?」
「ベッドは二つあるんだし、一緒に寝なくてもいいんだぞ?」
自然に俺のベッドに入ろうとしてきたアリスを止めつつ言う。
夜は寒いですから、どうぞ私で暖を取ってください、とかそういうことなのだろうか。
しかし、アリスからの返答は、もっとシンプルなものだった。
「……すみません、一人で寝るのは、少し寂しくて」
「わかった」
その言葉で、アリスは家族を失ったばかりの子供であるのだと思いなおした。少しいき過ぎた信仰心を持っているが、むしろ拠り所を失った子供だからこそなのかもしれない。
報いると決めた。それを嘘にしないためにも、不安げにこちらを見上げるアリスを抱き上げて、一緒のベッドに入る。ぎゅっとこちらに抱きついて目を閉じたアリスは、小さな声で自分の思いを告げてくる。
「リク様は優しくて、私のことも気にかけてくれて、報いるとまで言ってくれました。両親を失った私には、それがどうしても嬉しくて、暖かくて……甘えて、しまっていました。申し訳、ありません」
その声は少しだけ震えていて、親に怒られるのを怖がる子供のようだった。そんなことで怒るはずもないのに。だから、俺はそれにこう答えた。
「可愛い女の子に甘えられて喜ばない男はいない。甘えたいときは甘えるといい」
「……はい」
ぎゅっとこちらを抱きしめる手の力を強めて、俺の胸元に顔を寄せる。
少しだけ強張るように入っていた力が抜け、弛緩した身体がもたれかかってきた。
それを抱きなおし、目を閉じる。
「ありがとうございます、リク様」
「あぁ、もうおやすみ。明日も頑張らないといけないしな」
「はい、おやすみなさい」
抱き合ったまま目を閉じ、互いの温もりを感じたまま、俺たちは眠りについた。
異世界でただ一人放り出されたはずだが、それでも――。
心も身体も、温かい夜だった。