第二章17
彼女の自信は俺が肯定したものだ。だからその彼女の物言いにケチをつけることなどできはしない。そもそも彼女が本気で誘ってきたらそれを拒否できるわけもない。なので彼女が言っていることは全面的に正しいのである。
つまるところ彼女の前では、俺は目の前に餌を差し出されたら無条件で食いつきにいってしまうお魚さんになるしかないのである。馬鹿みたいに口をぱくぱくすればいいのだろうか。
深い紫の瞳で見上げられながらそんなことを考えていると、徐に頭の後ろに腕を回され抱きつかれる。下がっていた頭がさらに下がり、エメリーヌが首筋に顔を埋めた。
その首筋に湿った感触。その感触を知っている。彼女の舌だ。
「待て待て待て」
「あっ、すみません。何故だかあなた様を見ていたら急に……」
俺が声をあげるとサッと体を離して口元に手をあてる。その頬は夜の暗闇の中でもわかるくらいには朱色に染まっていて、本気で恥ずかしがっているのだとわかった。
相変わらず娼婦も舌を巻くような男を誘う手管を自然に使いながら、彼女自身は恥ずかしがり屋で初心というギャップに頭がくらくらする。まだ暑い時期ではないはずなのに体温があがったように感じてついシャツのボタンを一つ外してしまった。
「……ごくっ」
見られている。ボタンを外したことで露出した肌部分をもの凄く見られている。本人はチラチラと見ているつもりなのだろうが、前髪に隠れていてもわかるくらいにはガン見だ。
恥ずかしがりで先程も咄嗟に顔を背けたような彼女が、どうしてあれほどの手管を使いながら頭がくらりときてしまうような誘い文句を言えるのだろうかと思っていたが、なるほど簡単だった。彼女はむっつりだったのだ。
一見地味で初心なのに、むちむちでむっつりな可愛い貴族の少女なのだ。
静かに力強く拳を握る。俺の中に芽生えた感動が雄たけびとなって世界を震わせぬように拳のみを震わせる。月夜に吼える狼は今夜はいらないのだ。男は狼だけれども。
ぐっと拳を握り胸を張ったことで、ボタンを外したシャツから更に胸板が覗く。元々老後を気にして多少はしぼっていた体だが、こちらにきてからダンジョン探索での戦闘や荷物の運搬もあり以前よりもかなりがっしりとしてきた。
そんな胸元にエメリーヌの視線が釘付けになっている。心なしか息が荒いというか、髪の隙間から見える目が血走っていないだろうか。あ、よだれ、よだれが……。
本人は胸板を凝視することで忙しいらしくまったく気付いていない。仕方がないのでハンカチを取り出して顎に手をそえてこちらを向かせ口元を拭ってやる。
「はっ、すみません、全ての思考が少々頭の悪い暴走を……」
「何を考えていたのかは聞かないでおくよ。俺も似たようなものだし」
そう、俺も大概頭の悪い暴走をしていたからな。どうやらお仲間だったらしい。ある意味素晴らしい仲間意識だ。ある意味では素晴らしく酷いけれど。
大人しく口元を拭われてから、彼女は胸元に手を置いて数度深呼吸して気持ちを落ち着かせようとしている。呼吸するたびに上下する胸元と連動したように俺の視線が動いているのはきっと恐らくその二つが見えないワイヤーで繋がってしまっているからに他ならない。
ワイヤーの名前は劣情とかいう名前をしているに違いなかった。
「……おほんっ、お話の続きをしたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「あぁ、ごめん、頼む」
両手で押さえてから体を捩るようにして胸元を隠すエメリーヌ。アリスであれば如何に俺の目が喜ぶか計算したかのように強調してくる場面でこれだ。恥じらいと挑発。どちらの腕をあげるか俺の中のレフェリーが悩んだ末に両方の腕をあげた。万歳三唱。
どうにかレフェリーを退場させて思考を真面目な方向に戻す。
「それでは、改めて私が考えている手についてお話しします。とはいえあくまでも可能性でしかなく成功する保証もありませんので、話を聞いていただいたうえで判断はあなた様にお任せいたしますわ。駄目だというのなら当初の予定通り飼っていただくだけですし」
凄い前置きもあったものである。駄目だったら予定通り飼っていただく。ちょっと一回聞いただけでは上手く意味が飲み込めない。数度頭の中で反芻して理解する。
先程も飼ってくださいと言っていたが、誘い文句というだけではなかったらしい。
「わかった。じゃあまずは聞かせてくれ」
「はい、まず――」
彼女は訥々と、その思いついた手というものを語ってくれた。
その全てを聞き終わったときには、この世界、というよりもこの国でこんなことを思いつけるエメリーヌに畏敬の念を抱いた。確かに彼女が気付いた事実や状況について考え続ければ思いつけるかもしれない。
しかし、それはこの国に住んでいるものが持つ固定観念を無視した場合だ。そして何より僅かな情報と先程までの短時間でそこまで気付き、思いついたというのが恐ろしい。
「どうでしょうか?」
「そうだな、まだ色々と確認が足らない部分もあるから実際に動くには早いと思うというのが一つ。そしてもう一つは……貴族としての重責や兄と敵対すること、かなりのプレッシャーがかかることになると思うが、エメリーヌはそれでいいのか? いや、大丈夫なのか?」
祝福によって彼女は急激に成長している。しかしその人間性までが変わるわけではない。だからこそ彼女は俺を誘う手管があれほど洗練されていても、羞恥に頬を染めていたのだ。
恥ずかしがり屋で、今までの境遇から自信をなくしていた彼女に、急に大きな重責がかかって耐えられるのか。俺はそれを危惧していた。
「大丈夫です」
彼女はそう言うが、想像してしまったのだろう、声が少しだけ震えていた。
ぎゅっと握った拳も震えている。やはり絶対に成功するとも言えずそもそも可能性があるというだけの話なのだし、無理をする必要はない。
そう言おうとしたが、そっとエメリーヌに手を握られる。
その瞬間、彼女の震えが止まる。そして静かに近づき寄り添いながらこちらを見上げ、はらりと前髪が顔の横へと流れると隠れていた目元が現れる。
彼女は笑っていた。楽しそうに、幸せそうに……まるで子供のように、無邪気に。
「確かに、大勢の人の前に出ることになるでしょうし、様々な重責を背負うことになるだろうこともわかっています。恥ずかしいし、怖いとも思います……けれど」
しっかりと両手で俺の手を祈るような形で握りながら、微笑み告げる。
「あなた様がいれば、平気です。あなた様の愛があれば、立ち続けられます」
そう言って、ゆっくりと目を閉じる。
それを見て、彼女が何を求めているかわからないとは絶対に言えない。握られたのとは逆の手を彼女の頬に添えて、優しく触れるように唇を落とす。
本当にただ触れるだけのキス。けれど時間だけは長く、月明かりによって浮かんだ二人分の影をただ重ね続けた。
そして数分後、二つの影が離れる。本当は数秒だったのかもしれないが、少なくとも俺はそれくらい長い時間、熱い体温で繋がっているように感じた。
離れたエメリーヌが先ほどまで俺のものと触れ合っていた自身の唇を指でなぞる。
「それに、試してみたいのですわ……」
そうして、なぞった唇が弧を描く。先程のような無邪気な微笑みとは違う。そんな生易しく可愛いものではない、挑戦的な笑みを浮かべた。
俺は彼女が自信を持てるように手伝うと言った。そして彼女はこう言った。俺がいれば、俺の愛があれば立ち続けられると。……なるほど。
「あなた様の祝福を受けたこの身が、どこまでいけるのか……そう、つまりは」
俺がいる限りエメリーヌは挫けない。
つまりは離れる気がないのだから、彼女は絶対にこの先挫けることはない。
「あなた様への愛の強さを、どこまで証明できるのか……!」
活き活きと髪の隙間から壮絶な笑みを覗かせて、彼女は妖しく笑い声を部屋の中に小さく響かせる。決して大きな声ではないけれど、それは腹の底に響くようなものだった。
その声に背筋をゾクゾクとさせながら、俺はどこまでいくのだろうかと考える。いや、どこまで連れていっていただくのだろうかと。彼女たちに。
因みにその後、あの笑い声はテンションがあがっていたせいだったらしく、恥ずかしげに小さく忘れてくださいましと涙目で言われた。




