第二章13
惨めなものだった。受け入れてはいるけれど、それでいいと思ってはいるけれど、客観的な評価を下すのであれば、それはそれは惨めな人生だった。
貴族とは貴いものであるからこそ、そう呼ばれるのではないのだろうか。それならば、私はきっと本当の意味では貴族というものではないのだろう。
私は、エメリーヌ・ド・アルターニュは、貴族の血が入っただけの娼婦の娘なのだから。
幼い頃から気付いていた。周りの者が私を見る目がおかしなことに。
昔から本を読むのが好きだった。そんな私にお父様は書庫を与えてくださって、そのおかげで私は色々なことを知ることができた。だから、知ってしまった。
使用人たちが時折私に向ける笑みの意味を。お義母様とお兄様が私を見るときに汚いものでも見るようにしている理由を。何故お父様が殊更私に優しくしてくださったのかを。
それは全て、私の母が原因だった。
お父様が晩年になり愛した娼婦。容姿こそ誰もが振り向くような美しさを持っていたわけではないけれど、男を誘う色香というものを自然に醸し出すような人だったと、使用人たちがしていた噂話から知った。
私が産まれたときに死んでしまったらしいけれど、死ぬそのときまで、死んでからすらもお父様は彼女のことを愛し続けていたという。だからこそ、忘れ形見となった私を可愛がってくれるのだと思う。
貴族というのは、家同士の繋がりというものを重要視する。お父様は望んでお義母様と結婚したわけではなかったようで、そんな貴族としての家の都合で迎えた妻を心から愛することができなかったのだ。
晩年になり初めて知った恋に、お父様は入れ込んでしまった。それを周囲はよく思わなかっただろうことは、想像に難くない。それはお父様も自覚していたようで、使用人たちがそのことについて噂話をしていても、聞こえない振りをする程度には自分の非を認めていた。
それでも、知ってしまった甘い情熱の味を忘れることはできず、お母様がこの世を去るときまでお父様は彼女に入れ込み続けていた。
使用人たちはそれほどまでにお父様を入れ込ませた彼女のことを密かに毒婦と呼んだ。勿論お父様の前で堂々とそんなことは言わないけれど、私の耳にはたしかに入ってきたのだ。
幼い私には理解できないだろうと、毒婦の娘はやはり男を惑わすように育つのだろうかと噂話をしている姿を私が見かけるほどには、彼らは油断していた。
ただ、その油断はある意味正しいものだった。その噂の内容を理解してこそいたけれど、私は何もすることはできなかったのだから。
子供らしい我が侭で、貴族としての立場を振りかざせば、多少は噂は減ったかもしれない。けれどそうすることで、私の癇癪で問題を掘り返して、お父様の立場を悪くするなんて選択肢を私は選ぶことができなかった。
そもそも、そんな風に声をあげるなんてことは、とても無理だもの。私と母の恥ずかしい噂話を指摘して、そのことを知っている使用人たちの目を自分に集める。考えるだけでも顔から火が出そうになり、足が震えてしまった。
だから私は、全て受け入れて……諦めて過ごし続けた。義母と兄の言う通りに領地の端まで追いやられても、監視のために置かれた使用人たちが嘲るように私を見てよからぬ噂話をしていようとも……父の優しさと少ない味方で目と耳と、心に蓋をして。
フランソワはその数少ない味方の一人だった。彼の父は昔から私のお父様に仕えていた使用人の一族であり、父の遅れてやってきた恋を諌めるようなことを言いつつ密かに認めてくれていた、数少ない全面的に味方をしてくれた人だった。その子供であるフランソワも幼い頃から私の従者として隔意なく共にいてくれた。
今も線が細いけれど、子供の頃はまだ体をそんなに鍛えておらずもっと男性らしさが薄くて、よく私の服を着せてあげたりして一緒に遊んだりもしていたっけ。そんな風に遊ばなくなったのはいつ頃だったか今はもう思い出せない。
私も彼も、周囲のあれこれを知らないふりをして、聞こえないふりをして……それでもいいと諦めるだけでやり過ごすことは、成長していくにつれできなくなっていった。
お父様が亡くなり、お兄様が当主となって……以前よりも私への扱いは悪くなった。義母と兄の息がかかっていない使用人たちと、幼い頃から仲を深めていなければ今頃どうなっていたのかは、あまり考えたくはない。
ただ、男性の使用人たちが私を見るときの目のことを思えば、碌でもないことになるのは嫌でもわかってしまう。
立派な屋敷ではあるけれど、私にとってそれはどれだけ立派であっても、飼い殺しにするための檻にしか思えない。その閉じられた檻の中で何かが起こったとしても、きっと義母と兄は私が悪いのだと言うのだろう。
妻のいる貴族ですら誑かした女の娘なのだから、どうせそちらから誘ったのだろう。いつかの汚いものを見る目で、そんな言葉を吐き捨てる二人の姿は鮮明に思い描けた。
仕方がない、似たようなことはいくらでも言われてきたのだから。
私は余計に本の世界へ逃げ込むようになった。本の中でだけは私は自由に世界を飛びまわることができたから。そんな恐怖を忘れてしまいたくて、何度も想像の翼をはためかせた。
けれど、そんな慰めすら、もうすぐ消えてしまう。
私という存在が消えてしまう。
当主となり、周囲の領主たちをまとめあげた兄は、野心を抱いた。昔から苛烈な人だったから、温和な今の王とは合わないだろうとは思っていたけれど……まさか王位の簒奪を目論むとまでは思わなかった。
それを知ることができたのは全くの偶然……いえ、必然だったのかもしれない。兄の息がかかった使用人たちから身を守るため、彼らの動向を密かに調べていたおかげなのだから。
そして、そんな大それた計画を実行しようとしている兄は、後顧の憂いを断つことを決めたのだった。つまり……私を殺そうと。
小さいとはいえ、アルターニュの家に私の派閥というものもある。苛烈に過ぎる兄のやり方についていけない者や、フランソワや彼の親のように父の意向を汲んでくれた者。
計画を実行したとき、そんな彼らが邪魔になる可能性を考えてということだろう。万が一にでも私を担ぎ上げるようなことがないよう、私を消そうと兄は決めたのだ。
先ほど、食堂から退室しようとしたとき、倒れそうになっていた。元から体が弱かった私だけれど、急にふらついたりするほどではない……あれは兄が盛るように指示した毒のせいだ。
外に出ておらず体が弱いという噂だけが先行している私を、騒ぎを大きくすることなく消すために、病にかかったように偽装してじわじわと殺すつもりだったのだろう。
気付いたときには既に私の体は手遅れなところまで毒に侵されていた。どのような回復魔法や魔法薬であろうとも治すことはできないほどに。
私に残された時間は少ない。フランソワはどうにか私を助けようと考えてくれているみたいだけれど、過度な期待をしてはいけない。私のためにも、彼のためにも。
だからこそ、その残された少ない時間をただ飼い殺しにされたまま終わりたくない。
……今日は、本当に楽しかった。本で読み、憧れるだけだった冒険者の人から直接話を聞くことができた。語ってくれた話が信じられなくて、けれどフランソワに確認するために視線を送れば小さく頷かれて、真実だとわかると知らず頬が熱くなるほどに興奮してしまっていた。
本で読み、想像するだけだった世界。さすがに神様に救われて、娶ってもらう少女の物語のようにはいかないけれど、たしかに知らない現実の世界が目の前にあった。
これは賭け。残された時間全てを使った大きな賭けだった。
部屋へ呼んだ彼を精一杯、私たちを嘲り嗤っていた使用人たちが面白半分で語っていた母がしていたという所作を思い出しながら誘ってみせる。
そして頼みこんだ。溢れる涙はそのままに、どうにか笑顔を浮かばせて。
エメリーヌ・ド・アルターニュという貴族を殺してほしいと。
 




