第二章3
もとはクロエの寝室だった部屋。今や三人共同の自室となっているそこへ入ると、すかさずアリスが俺の背後へまわる。そのまま外套に手をかけ慣れたように脱がせてくれた。
礼を言うために振り返ろうとすると、ぐっと腰のあたりを捕まえられて部屋の奥へと押される。クロエも一緒になって押しているようで、全く抵抗もできない。
混乱しながらそのままベッドへ強引に座らせられる。すると二人がよじよじとベッドに登って再び俺の背後にまわりそこへ陣取るように座り込んだ。顔を肩のあたりに近づけているのだろう、息が当たってくすぐったい。
「二人とも? どうし……」
「リク様はお静かに」
「あ、はい……」
弱い。とても弱い俺。いや、実際にアリスやクロエとは逆立ちしたって勝てないほどの差があるほどに俺は弱いが、そういう意味だけでなく弱かった。
いやしかし、底冷えのするようなアリスの声に逆らえる奴はそういないと思うのだ。普段は鈴を転がすような明るく可愛らしい声をしているだけに、時折発するドスのきいた声がとてつもなく怖い。まぁ、そんな声もある意味好きだと思うあたり俺も大概だが。
ただ、怖いと思おうが好きだと思おうが、どちらにせよ体はその言葉に従ってしまう。
言われた通りに黙りこみ、言われたわけでもないのに緊張して動きを止める。
そんな俺の腕や肩、脇腹なんかを二人は小さく柔らかい手でぺたぺたと触ってくる。そこに雑さや無遠慮さはなく、壊れやすい陶器の表面を確かめるような手つきだった。
肌の表面を二人の細く綺麗な指が這うたびに悪寒めいたぞくりとする感覚が背中を走る。腕や脇腹を触れると、前のめりになった二人の頭部がちらりと視界に現れた。
綺麗な黒と金の長髪。そのどちらも艶やかで、二人の動きに合わせて揺れるたびに二色の小川がせせらぐように耳に心地好いサラサラとした僅かな音が耳を打つ。
それと同時にふわりと舞い上がった二人の香りが鼻腔を刺激した。ほとんど返り血を浴びることもない二人は、魔物由来の刺激臭はあまりしない。感じた匂いの殆どは二人の汗などによるものなのだろう、どこか甘くさえ感じた。
「そろそろ、何をしてるのか聞いてもいいか?」
ただ動かずに二人から受ける感覚だけに集中しているとまずいと感じた俺は思わず声をあげる。それに二人はぴたりと動きを止めて、横から顔を覗かせるように体を傾けた。
「傷の確認です」
「治って、いても……心配は、心配」
なるほど。ダンジョンでの話はまだ終わっていなかったらしい。
確かに二人が触っていたのは、噛みつかれたり叩きつけられたりしていた部分ばかりだ。
とはいえ、死にかけで皮膚が変色していた重病人さえ綺麗さっぱり治すことができる俺の奇跡である。勿論俺の体にも傷一つ残ってはいない。
「確認したならわかるだろう。傷はもう……」
「治ったとしても、どれほどの傷を負ったかくらいはわかります」
「服、ボロボロ……」
そう、荷物に入れてあった予備の外套で隠していたが、俺が着ていた服は最早布と言っていいほどの襤褸切れになっている。熊に噛まれ、爪でズタズタにされれば然もありなん。
どれだけ深く肌を、肉を抉られたのか、それだけである程度は推し量れるほどだ。
その部分の肌をツゥーっとアリスが指でなぞり、ポツリと呟く。
「簡単に殺すんじゃなかったかな……」
「アリス……?」
「……ふふ、冗談ですよ?」
冗談に聞こえなかった。普段の言動もあるし、本気にしか聞こえない。
小さな唇が笑みの形を作ってはいるが、普段は愛らしい眼差しを向けてくるくりくりとした大きな瞳は笑っていないことからも、怒りが滲み出ているのが見て取れた。
「それは、そうかもだけど……一秒でも長く、あれが、生きてるの……許せた?」
「無理ですね」
クロエまで参加しないでくれ。
しかもいつもの無表情で言っているから本気にしか聞こえないんだ。
アリスもクロエの言葉を聞いて即答しているし。クロエの言葉の最後の部分にかぶっていたくらいだ。
いや、二人とも本気で言っているだろうことはわかるけれど。
「あぁ、うん……二人がどれくらい心配してくれたかはわかった」
「本当ですか?」
「ほんと、に……?」
「勿論だ……けど、それだけ心配してるのにやめろとは言わないんだな」
何を、それは言わなくてもわかるだろう。
俺の無茶苦茶な盾役としての在り方をだ。
「それは……」
「ん……」
二人は頬を染めてモジモジとし始める。
何か恥ずかしい理由でもあるのだろうか。
「あの、ですね……?」
アリスがくいっと襤褸切れになってしまった俺の服の裾を摘んで見上げてくる。
こういう仕草のときは甘えてくれているのだとわかるので、意識を切り替えた。
「リク様を守りたい、守らないといけないって思うと同時に、あの……」
「大丈夫、素直に言ってごらん」
恥ずかしげに、不安げに、俯きそうになるアリスの頬に手を添える。
ゆっくりと撫でながら、できる限り優しい口調と表情を心がけて彼女を待つ。
「……守ってもらえるのが、嬉しかったんです。ただの子供に、戻ったみたいで」
「じゃあ、これからも守るよ。アリスのことが大事だからな」
その言葉を聞くと同時、そう答えながらたまらず彼女を抱きしめた。
普段どれだけ彼女が俺のために頑張ってくれているのかを知っている。
それだけに、こうして必死に甘えてくる彼女の幸福や願望は大事にしたいのだ。
「……えへへ、リク様はなんだか、たまにお父さんみたいに感じますね」
アリスがぎゅっと抱き締め返してくる。背中にまわされたその腕は、普段魔物と渡り合っているのを連想させるような力強いものではなく、歳相応の女の子のものに思えた。
もう一度ぎゅっと力をこめて抱き締めてから、そっと体を離す。
このまま抱きしめ続けてあげたいとも思うが、クロエを待たせるわけにもいかない。
「……」
無言で天を仰ぎながら、ひっそりと息を吐く。
体を離してクロエへと向き直ったのだが、背中に引っ張られる感触がする。
アリスが服の裾を掴んでいるのだろう。今まででもトップクラスの甘えっぷりに心が揺らぐ。
しかし、目の前には普段の無表情など忘れたかのように頬を赤く染めて恥ずかしげな表情をしながら待っているクロエの姿がある。
振り払うことはしない。けれどクロエの近くへ寄った。
紅潮している頬に両手を添えて、正面から見つめあうようにしゃがむ。
「クロエは、どうして俺の無茶を許してくれるんだ。ゆっくりでいい、教えてくれ」
顔をそらすことはできないので、彼女は視線だけをどうにか彷徨わせる。
そろそろと両腕をあげて、俺の両手に自分の両手を重ね口を開いた。
「ボクの、装備を……ボクの腕を、信じてくれてる……それが、嬉しいから」
確かにそうだ。あれだけの無茶も、クロエの装備があってこそできている。
以前彼女の装備に命を預けられると言ったが、今回の件は事実その通りなのだ。
自身の全てをかけて作っているもの。それが命を預けるほどに信頼されている。
俺にとってはもう当たり前のことだったが、彼女からすればそれはとても嬉しい事実なのだろう。
「ボクの全てが……リクさんの命を、繋いでいる……それが、たまらなく、幸せ」
へらりと、だらしなく頬を緩ませてクロエが笑う。
俺の手に添えられた彼女の手に、ぎゅっと力がこめられた。
声で、表情で、仕草で……感じている幸福を伝えようと必死になっている。
「あぁ、クロエの全てのおかげで、俺は生きている。ありがとう」
俺がクロエを肯定するように感謝の言葉を告げると、彼女は嬉しそうに微笑んでから、そっと目を閉じた。添えられていた手は、今は強く俺の手を捕まえている。
それが何を意味しているのか、理解できないわけではない。
体を前に出そうとして、一瞬の逡巡。後ろのアリスを気にして動きが止まる。
そのとき、肩に痛みが走る。ちょっと抓られたくらいの痛みだ。
次いで、軽く背中を押される感触。
それに少し苦笑を漏らして、止まってしまった動きを再開した。
目の前で瞼を閉じて待っているクロエへと顔を近づける。
報いる神でいたい。そんな綺麗な理由が頭を霞めるが、これはもっと人間らしい汚い願望だ。彼女たちが欲しい、これからも共にいたい。そんな欲望をこめ、俺は唇を重ねた。




