プロローグ
私の世界は狭く、そして広がっていた。
屋敷の外へ出たことは殆どない。本邸から遠く離れたこの別邸までの旅路が最も長く外へ出ていた期間だと思う。
どちらに居てもすることは変わらない。ただ大人しくしているだけ。
それだけが私に求められていることで、それ以外をしてはいけない。
悲しいと思ったことはなかった。私自身それが性に合っていると思うもの。
兄のような才気と自信に溢れている人と私は違う。他家のキラキラと輝くような美貌を誇る令嬢たちとも違う。私は地味で、平凡で、出しゃばっていいような人間ではないから。
才能や容姿だけの話だけではない。私の母が貴族ではないことも理由の一つだった。
兄にとって私はきっと汚点なのだろう。だからこれほど離れた地に置いたのだと思う。
それでも私は良かったの。私を産んだときに母は死んでしまったらしいけれど、それを埋めるほどに父は私に優しくして、可愛がってくれていたから。
私には殊更甘く、我が侭をたくさん聞いてくれるから、小さい頃の私はよくはしたなくもおねだりなんてしてしまっていたっけ。
優しい父のおかげで、閉じられた世界の中でも、私は自由を知ることができた。たくさんの本を読み、想像の翼をはためかせ、広い世界を飛びまわる一羽の鳥のように。
そんな生活に不満はなかった。そんな生活がずっと続くのだと思っていた。
その生活のために、私は望まれた通りに生きてきたのだから。
なのに、なのにこれはあんまりではないの?
私は何か悪いことをしてしまったの?
ひどい罪を犯してしまったというの?
どうして、どうしてこんなことに……。
「……はぁ、駄目ね。最近、嫌な考えばかり頭を過ぎってしまうわ」
窓辺に置かれた椅子に深く座りながら溜息を吐く。悪い考えごと出してしまおうとするようにはいた息が窓を曇らせ、眺めていた外が私の胸中に巣食う霧で隠される。
そちらから視線をそらし、ただ部屋の中を彷徨わせる。迷子のように私の瞳は部屋の中をあてどなく歩き回り、私が如何に現状に戸惑っているのか表しているかのようだった。
不意に扉を叩く音が聞こえて、意識が現実に引き戻される。認識したくない現実に。
「入りなさい……フランソワだったのね、お帰りなさい」
「はい、ただいま戻りました、お嬢様」
私の数少ない味方である従者の姿が、開いた扉の向こうにあった。
恭しく頭を下げてからこちらへ歩いてくるその動きはよく訓練されたのだろう綺麗なもので、少しだけ頼もしさを感じることができた。
ただ、線の細い体と幼さの残る顔立ちを見ると心配する気持ちも浮かんでくる。
「それで……どうだったの?」
近くに立ったフランソワへ向かって、冷静に……冷静を装って訊ねる。
間違いであってほしい、ただの思い過ごしであってほしい。心の中ではそう叫びながら。
「……残念ながら」
「そう」
そうやって目をそらそうといくら心の中で努力しても、現実は変わってくれない。
本当は、わかっていた。部屋に入ってきたフランソワの表情を見た瞬間から。
私を案じてだろう、苦渋に満ちた表情を見てしまったときから。
「ですが、ただ座して待つこともありません。お嬢様もそのために考えていたのでしょう」
「そう、そうね……ではこんなときのために用意していた通り、頼むわね、フランソワ」
「はっ、必ずやお嬢様をお守りいたします」
その宣言に嬉しさと頼もしさ……そして不安を感じた。
フランソワが悪いわけではない。確かに線の細い容姿だけれど、どれだけ努力しているのかはよく知っている。見た目は関係なく、護衛として申し分ない実力だとはわかっている。
それでも……。
私に味方は少なく、圧倒的に立場が弱い。
対して向こうは地位も権力もあり、味方の数でも勝っている。
そんな状況で不安を覚えないでいることは、平凡で小心者の私には不可能だわ。
曇ってしまった窓ガラスを指で拭う。外気で冷えたそれが指を冷やして、私の心まで凍らせてしまうような錯覚を感じながら、ずっと遠くにある本邸の方角へ目を向ける。
そこにいるだろう私を狙っている人のことを思い出しながら、恐怖に体を震わせた。
「……お兄様、本当に私を殺す気なのね」
あぁ、神様、もしも本当にいるのならお願いします。
できることは何でもします、捧げられるもの全てを捧げます。
だからどうか……どうか私を、助けてください。




