第一章37
それから数分ほどの試行錯誤の末、残ったハンターウルフを倒し歩を進める。
五階層に入ってからもう随分と歩いてきた、そろそろ何か見つかる頃合いだろう。
その何かが遠くに薄っすらを見え、近づいてみればそれが何なのかがわかった。
目の前で両開きの巨大な扉がこの先に何かがあると主張している。
ここは五階層の奥深く、その何かとは恐らくゲートキーパーの待つ部屋だろう。
初級ダンジョン最下層のゲートキーパー、クレイジーベア。縄張りに入り込んだものはたとえ竜であろうと襲いかかると言われており、自身が傷を負ったとしても怯むことなく攻撃を続ける凶暴性を持った熊の姿をした魔物だ。
通常の熊よりずっと大柄で膂力が強くタフだということらしいが、話に聞くだけでも完全に化物という認識になる。普通の熊でも恐ろしいのに、そのスペックが全体的にあがったうえで凶暴性が増した生物となれば、その脅威はかなりのものだ。
そんな存在が、この扉を隔てたすぐ先で待ち構えている。
自分の生唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた気がした。
しかし、ここで延々とジッとしているわけにもいかない。
三人で顔を見合わせ頷き合い右には俺が、左にはクロエが張り付くようにして扉へ肩を当てる。中央には剣を構えたままのアリスが陣取った。
深呼吸を一つ。覚悟を決めて、二人に手で合図を送る。
足に力を込め、体全体を使って俺とクロエは扉を押し開いた。
そのまま転がり込むように部屋の中へと入り、各々が武器を構える。扉の先は大きな広間のようになっており、アリスは既に走り出してその部屋の中央へ向かっていた。
それに遅れるなとばかりに俺とクロエも追いかける。
アリスが向かっている中央へと目を向ければ、そこには太く分厚い毛皮に覆われた四肢で悠然と床を踏みしめる巨体があった。向かってくる俺たちに気がついたのか、徐にその巨体を揺らして前足をあげ、後ろ足だけで立ちあがる。
「ブォオオオオオオオオ!」
鼓膜だけではない、腹から震える。
空気が振動しているのが実感できるほどの鳴き声。
思わず俺とクロエが足を止めて警戒する。しかし、アリスは姿勢を乱すこともなく真っ直ぐにクレイジーベアへと駆けていった。
萎縮することなく向かってくるアリスに威嚇は意味がないと覚ったのか、クレイジーベアは前足をおろし、四本の足で自分もまた走りだしていた。
姿勢を低くし、腰のあたりに剣を構えながらアリスはその近くまで到達する。
双方ともに凄まじいスピードで、正面から衝突すれば無事ではすまないだろう。体の小さなアリスは吹き飛ばされてしまうのではないだろうか。
そう思うと足は勝手に走り出していた。クロエも隣で既に動きだしている。
しかし、正面衝突という最悪の想像をアリスが想定していないはずはなく、そしてそれを許すアリスでもない。体を滑らせるようにクレイジーベアの側面へと回り込んだ。
そのまま脇腹へ横薙ぎに剣を振るう。鋭いアリスの太刀筋は、奴の分厚い毛皮すら切り裂いてみせた。鮮血が舞い、アリスの頬へと僅かにかかる。
血化粧が施されたことを気にすることもなく、振り切った剣を返す刀に今度は袈裟斬りに振るった。僅かな間に素早く二振り、クレイジーベアは反応できていない。
「ブホッ、ガアアアアッ!」
しかし、奴は怪我を負ったことを無視して掬い上げるようにアリスへ前足を振るった。
咄嗟に頭を守るように腕をあげたアリスが、飛んでいく。
まるで蹴り上げられたボールのように、放物線を描いて壁へ向かって……。
それを視線で追いかけているクレイジーベアは、怪我を負わされた苛立ちからか数度床を蹴ってから、アリスを追いかけるように走り出した。
「うぉおおおおおおおお!」
あれでアリスがどうにかなったとは思えない。それほどまでに俺の中でアリスというのはこの世界で強さの象徴になっている。だとしても、着地が上手くいく保証はなく、無防備なところへ奴が突っ込んでいくのを無視することはできない。
「リク様!? 私は大丈夫ですから!」
やはりそうだ、アリスは無事。それでも足は止まらない。
こんなときのために、二人が危機に陥ったときのために、俺は用意をしてきたのだ。
この世界にきたときに同じようなことを考えていたのを思い出した。助けたいと思うような相手ができたとき、力を使えるようにしておくべきではないのかと。その考えは間違っていなかった。
「それはわかってる! だけど、俺だってアリスが心配なんだよ!」
叫びながら、アリスとクレイジーベアの間へと立つ。
アリスが吹き飛ばされた場所が、奴より俺の方が近くて助かった。
それでも、普通の熊以上の速さだ。向き直ったときには、すぐ目の前にいた。
咄嗟に踏ん張る。それだけであの巨体の一撃を防げるとは思っていない。多少アリスより体が大きいからといって、普通なら彼女と同じように弾き飛ばされるだろう。
そう……普通なら、だ。
「ぐぅっ!」
頭から突っ込んできたクレイジーベアの突進を、構えた盾で受け止める。床との摩擦で靴底が削れてしまうほど押し込まれるが、受け止めきった。
メイスの重量化。それをメイスではなく俺自身に限定して使い踏ん張ったのだ。そのおかげで吹き飛ばされることはない、が。
「ぐっ、ああぁあぁぁぁ……!」
盾を構えていた腕が死ぬほどに痛い。アリスの指導で痛みに慣れていなかったら盾を落として蹲っていただろうほどの痛み。恐らく骨が折れている。
踏ん張ると同時に魔力障壁と硬質化を使っていたが、防ぎきることはできなかったようだ。
それでも痛みに叫び、のた打ち回っている暇などない。それを敵は許してはくれない。
太く大きい前足が振り上げられ、横腹へ叩きつけられる。牙をむき出しにした凶悪な口が肩へ噛り付き、深々と肉を抉られた。
「ぐぅ、ぅううううう!」
踏ん張り、受け止められるとはいえ、俺に攻撃を全て捌くような技術はない。できるのは攻撃を受け止め、肉が裂かれ、骨が砕けるのを耐えるだけ。
本来であればそんなものは多少の時間稼ぎにしかならず、無駄死にになるだろう。しかし、俺はこれでいい。俺だからこそできる、盾の役割だ。
次の瞬間、俺の体を暖かな光が包み込む。まるで時間を巻き戻しているかのように傷がふさがり、骨が折れていた腕が動くようになった。
そう、触れれば俺は凡そどんな傷や病気でも癒すことができる。瀕死の重病人ですら数秒と経たずに完治させるほどの治癒能力。激しく動く戦闘中に、他者へずっと使い続けるというのは難しいが、自分ならば話は別だ。
傷を負ってもすぐに完治する。メイスの重量化で、押しのけることもできない。盾役としては、恐ろしいほどの存在になることができた。
正直、自分でもおかしい発想だとは思う。しかし、全てをかけて俺のために尽くしてくれる信徒に報いるために、俺も何か返したかったのだ。
それこそ、全てをかけるほどに。
出会ってから、未だに一ヶ月も経っていない。それでも、短くも濃い時間の中でアリスもクロエも、身を裂かれるような痛みに耐えてでも守りたいと思える存在になっていた。
それほど、二人は献身的に尽くして、好意を向けてくれていたのだ。
だから、俺は笑った。ただ守られるだけでなく、これで二人を守ることもできると。
あまりの痛みにおかしくなっているのかもしれないが、気分は悪くなかった。
「二人とも! 俺がひきつけている今のう、ち……」
いつの間にか、クレイジーベアの両脇に、アリスとクロエが立っていた。
何が相手でも怯むことはないと言えるほどに昂っていたはずなのに、一歩後ずさった。
俺の様子に、クレイジーベアが一瞬怪訝な様子を見せ、次の瞬間グラリと体を揺らす。
そのまま床へ向かって倒れこんだ。何が起きたのか理解できていないのか、奴は倒れたまま足をばたつかせる。
そう、三本の足を。
そして、すぐに残り二本になる。クロエが戦斧を振り切っていた。
「ガフッ、ガァアアアベッ!?」
自分の足がなくなったことに気付いたのか、またも腹が震えるほどのクレイジーベアの咆哮が響き、すぐさまそれは中断させられた。
アリスがクレイジーベアの喉を突きさしたからだ。剣を抜かれた穴から呼気がもれる。
「なんてこと……なんてことしてくれるんですか……」
「許さない、許さない許さない……」
ブツブツと何か呟く二人が、とても怖い。
血を失い過ぎたからだろうか、なんだか寒い。いや、傷ができたらすぐに治していたから、あまり血は流していないはずなんだけど。
そんなことを俺が考えている間にも、アリスとクロエは武器を振りかぶり、クレイジーベアへ振り下ろしていく。
「リクさんの手が潰れてしまったら、どうしてくれるつもりだったの!」
激情のままにクロエの戦斧が振るわれ、左の前足が飛ぶ。
「ボクの手を握ってくれる手を! 頭を撫でてくれる手を! 触れてくれる、手を!」
叫びながらまたも戦斧を振る。最後の足が切り落とされた。
「……リクさんの手に、大好きなリクさんにあんなことして、絶対許さない」
その宣言通りに、最早クレイジーベアは動くこともできない姿になっている。
そして、アリスもまた激昂がおさまらないのだろう、剣を振り上げる。
「私の……私の! 最も大切で! 大好きで! 愛するお方に!」
腕を振るう。
「爪を立て!」
視覚が潰される。
「牙を立て!」
腕を振るう。
「傷をつけて殺そうとした!」
喉の奥へ剣が消えた。
「そんな、絶対に許されないことをして……生きていられると思うな」
うん、もう死んでる。クレイジーベアに対して相手よりも狂ったことをしているという自覚があったけれど、俺の大切なこの子たちも、愛情に狂っていた。
息を切らした二人は、クレイジーベアが絶命したことを確認すると、もはやそんなものはどうでもいいとばかりに視線を外して、俺の方へと走ってきた。
「大丈夫ですかリク様! お怪我の加減は……あぁ、こんなに血が」
「もう、もう! 無茶しすぎです! 心配したんですよ……!」
「ははは……ごめんな。それと、ありがとう、二人とも」
無事を示すように、しっかりと二人を抱きしめる。そうすると安心したように二人は体を寄せて俺に抱きつき、安堵の涙を流した。
俺も二人も、やはり少しおかしいのだと思う。
ただ、それでも、こんなにも大切に思われているのは嬉しいと思ってしまうあたり、お似合いなのかもしれない。だからきっと、この先もう離れることもできないのだろう。
それらは全て、人間にとって大切な感情があるからこそだ。
もしもこの先教義を作るとしたら、最初に主張すべきことは決まった。
愛を大切にすること。
注釈でこう入れたほうがいいかもしれない。
ただし、あまり行き過ぎないように。




