プロローグ
目の前に広がるのは雑踏と喧騒。
しかし不快ではなく活気が感じられる一日の始まりの景色。朝日に照らされた広場にいくつも出された店舗とその中から聞こえる客引きの声。行き交う人々の目には活力が溢れていた。
目だけではない。鍛えられた腕などは惜しげもなく晒されており、自慢げに見せられたとしても賛美しかでないほどの体格の者たちばかりであった。そうでないものも己の某かには自信があるような者で溢れている。
しかし、一歩路地裏に入ればそこは掃き溜めと形容すべきほの暗さにまみれた空間。そして、俺はその掃き溜め側にいた。
昨夜の記憶を辿れば、日本の地方都市にて仕事を終わらせ帰宅し、自分のベッドで眠りについたことを確りと思いだせる。そのはずなのだが、ゴミと浮浪者が一緒に転がっているその中で俺は目が覚めた。
幸いかな比較的ゴミなどが少ない場所だったおかげで寝間着がわりに着ていたジャージは殆ど汚れていない。さりとて汚れが少ないだけでそれで事態が好転するはずもない。
目が覚めれば見知らぬ場所で、しかも凡そ日本とは思えない光景。
いや、現実逃避はやめよう。
どうやら俺は、所謂異世界というところにきてしまったらしい。
巨大な剣やら弓を背負った厳つい男に、目深にローブを羽織り仰々しい杖を携えた魔法使いらしい人物、果ては動物の尻尾やら耳を生やした人。コスプレじゃないのは見ればわかる。
剣や纏った鎧の動きや擦れる音、偽物じゃなく明らかに金属だ。耳や尻尾も動物と同じように動いている。そんな光景が目の前に広がっていれば、最早認める他あるまい。
更に言えば、客引きや通行人たちの会話に、街中に見かける文字。どれも知らない言葉で、だというのに理解できる。異世界にきた影響なのか、とても奇妙な感覚だった。
さてしかし困った。着の身着のまま放り出され、財布も携帯も靴すらなく、あるのは寝るときに着ていたジャージだけ。これといった特別な知識や技術も持ち合わせていない俺はどうやって生きていけばいいのだろうか。
指を額にあてながら役立ちそうな知識は何かないかと記憶を漁ろうと集中したとき、ふと違和感に気付いた。
「……嘘だろ」
思わず呟いた。それほどに気付いた事実は妄想染みていたのだ。知りもしない言語を理解できていることもおかしいが、これが事実ならそれ以上である。
突然の状況でまだ混乱しているのだろうか。その真偽を確かめるのは簡単だ。
周囲を見回し、こちらに注目しているものがいないのを確認し、奥まったところに隠れた。そして恐る恐る手のひらを上に向けて、何かを受け止めるような形に広げる。
(塩おにぎり)
俺にとっては馴染み深いその言葉。炊いた米を握って塩で味をつけただけの素朴な食べ物。異世界にきてしまい、もう米が食べられないかもしれないという嘆きから思い浮かべた。というわけでは当然ない。
構えていた俺の手のうえで光が瞬く。次の瞬間、ほかほかの塩おにぎりがその手に落ちてきた。思わず熱さに取り落としそうになったが何とか掴みなおす。
どこからどう見ても塩おにぎりである。だが無から生まれた。いや、自分が生み出したもの。
食べても大丈夫なのかと思ったが、何のあてもないこの世界で生きていくための武器になるかもしれないものだ。確かめなければならないし……何より起きたばかりで空腹だった。
もっともらしいことを考えつつ、正直に言えば空腹に負けた部分が一番大きいだろう。
口の中に無意識に溢れていた唾液を飲み込んでから、意を決して頬張った。
「……めちゃくちゃ美味い」
思わず感嘆の言葉が漏れるくらいには美味かった。絶妙な塩加減と炊き方で、恐らく米もかなり良いものなのだろう。安物の米とお高い米の細かい味の違いなんてわからないが、とにかく美味かった。
温かい米の仄かな甘みと、程好い塩気。ご丁寧に海苔までついており、味わいつつしかし結構な早さでペロリと完食してしまう。
食べ終わり、気付いた違和感の正体が妄想などでなく事実であることがわかった。
まるで忘れていた記憶を唐突に思い出したように、知らないはずの知識が頭に浮かんできたのだ。いや、知識というよりは感覚と言ったほうがいいのかもしれない。
例えるならば長い間自転車に乗っておらず、その存在すら忘れていたのに乗り方は体が覚えている。練習した記憶もないのに手や足の動かし方を知っている。言葉にすれば、そんな感覚だろうか。
それが使えるのが当然。凡その使い方も、詳しくはわからないがなんとなく理解できている状態だ。
どうやらこの世界には魔法のような力があるらしい。それを俺は持っているようだった。若しかしたら異世界からやってきた自分だけのものなのかもしれないが、楽観はしないほうが良いだろう。
この世界の人々や若しかしたらいるかもしれない同郷の者。こういった力は自分だけの物ではない可能性を考え、行動しなければ。
気がつけば知らないはずの力や知識を持っていて、見知らぬ土地にいる。恐怖こそ感じるものの、現状を考えればありがたく利用するしかないだろう。とりあえずは大々的に使うようなことはせず、周囲にバレないよう気をつけたほうがいいな。
特に……宗教家とかにばれたらとてもまずい気がする。
どうやら俺は、奇跡を起こせるようになったらしい。