正しいことの絶対的根拠
私たちは、普通、自分の意見や考えが正しいと思って発言や書き込みをしています。常に「自分の意見は正しい」という思いがあるからこそ発言するのです。それでは自分が正しいと思うその根拠は何でしょうか。いくら考えてみても根拠なんて何もないんです。自分が考えたことが正しいと無意識に皆そう思っているだけなのです。
しかし、それはおかしくありませんか。自分が考えたことが常に正しいと思うなら「あなたは神なんですか?」そうではないですよね。神でないなら、自分の考えがいつも正しいなんて考えるのは、あまりにも傲慢です。でも私たちはこの傲慢なことを普段から無意識的に行っているのです。
古来、聖人たちは「無知であることを知れ」と説いてきましたが、人間というものは何千年経とうとも知性的にはあまり進歩しないのだと言うことです。いや逆に後退しているのではないかとさえ思えるのです。「自分の考えは正しいのだろうか?」とまず疑い考える謙虚さこそ「無知の知」なのです。
そういう私も昔は「自分が正しい」と思い発言をしていました。サヨクらと討論するときも「自分の方が正しいのだ」と何も疑わずに発言をしていたのです。しかし討論に熱を帯びてくると「命を賭けてもそう言えるのか!」となるわけです。でもまあ、ネットですから実際には命を賭けることなどないのですが、やはり、その言葉には自信が揺らぎます。ネットでは実際には命や全財産は賭けなくてもいいのですが、やはり議論に負ければプライドは大きく傷つきます。
そういうこともあって正しいとは何か、しかも絶対的に正しいとは何かを考え始めたのです。そしてやっと絶対的に正しい事、つまり絶対的善が分かったのです。しかも論理的な方法で善の定義を導いたのです。
その絶対的善とは「種族(民族)保存であり、公の為」なのです。そして種族を保存するために絶対に必要なのが、社会の秩序であり、人としての進歩(人格、体力、知力)なのです。これらの絶対的善に合致していれば、それは絶対的に正しいといえるのです。
ですから私は常にこれらの絶対的善に合致するように考えます。ですから私の考えには一応根拠があるのです。ですから私は自分の意見には多少自信があるのです。勿論、知識のないことについては発言は控えますし、発言するときにはいつも「~と思います」などと書きます、断言はしないのです。
皆さんが「絶対的善はある」と理解するようになれば、いろんな難しい問題も大方解決するのではないかと思うのです。逆に善は相対的であると信じている人たちは永遠に問題を解決することはできないでしょう。