鶴羽織の巫女
「あの、真宵さん。次はどこへ?」
薄暗かった森から水晶を通じて再び場所を移し、今度は山の中である。
せめてどこへ向かっているのかくらいは教えてほしかったが、真宵さんは妖しげな笑みを浮かべて口元をドレスの裾で隠すばかりだ。
さく、さく、と歩きながら黙っている彼女についていく。
先ほどまで喋っていたヒトがこうまで黙るとなると、なんだか不安になってくるぞ。
神内とも悪友のような、そんな関係のようだし……同盟の創設者だからといっても少し警戒してしまうというか。
「紅子さんはこの山、知ってるか?」
「ううん、さすがにアタシも知らないよ。それに、アタシが活動拠点にしているのはあくまであのアパートくらいで、あとはずっと表にいるんだから、探検もしたことなかったし」
「そっか……そういえば大図書館もアリス事件のときに初めて行ったんだっけ?」
「そうだね、あっちのほうも知らなかった」
万能で、なんでも知っていて、格好いい。
紅子さんのことをそう思い込んでいた俺は反省する。
神中村の件でその辺も理解したし彼女の弱い部分も知ることができたが、なかなか最初に抱いた思い込みというものはなくならないものだ。
彼女に夢で出会ったときは、今みたいに照れたりふんわりと笑ったりせず、かなりドライなイメージで、次に会ったときは高校生らしく悪戯好きで、からかい好きで……俺を皮肉りながらも気にかけてくれていて。
初めて振る舞ったシチューを美味しそうに頬張ったり、俺の作るエクレアを初めてプレゼントしたときも素直に喜んでくれたり……。
守られてばっかりいた俺が、ようやく彼女に頼ってもらえるようになって、彼女の過去を全て受け入れて、そして初めて守りたいと思ったものを守ることができて……そして、今こうして穏やかに笑っている彼女が隣にいる。
思えばもう出会ってから9ヶ月も経っているのか。1年近く一緒にいる自覚はあったが、そうか。もうそんなに。
「……かつて、最悪な出会いをした男女がおりましたの」
前を歩く真宵さんが、ぽつりと言葉を漏らした。
俺は、なにか必要な話なのだろうと耳を傾ける。
「曰く――我が子を孕め、と。最悪な告白をした大馬鹿者がいたのです」
率直に、うわっという気持ちが強い。
デリカシーというものがまるでない告白だな。
こういう言い方だけは絶対にしないぞと心に刻み込んでおく。
「その男女は竜と、人でした。人のほうはわたくしの巫女ですの。ですから、わたくしはトカゲが大嫌いなのですけれど」
なんとなく「わたくしの」というところが強調されている気がする。
ということは、真宵さんも人間と一緒に暮らしている神妖のうちのひとりなのか。
それで、とどのつまり、自分を祀る大事な巫女に言い寄った男が竜だったと。だから同じ竜であるアルフォードさんも嫌いなのかな。
少しだけ、あの仲の悪さの深淵を垣間見た気がした。
「さて、もうそろそろ――」
真宵さんが言いかけたときだった。彼女のつば広帽子が風に攫われるように地面へと落ちていく。いや、実際に彼女の頭から離れて地面へ急降下していた。
そして帽子と共に地面になにかが突き刺さり……遅れるようにして、風を切り裂く音がした。
紅子さんを咄嗟に庇った体勢のまま、俺は視線を地面に刺さったなにかへと向ける。
そこにあったのは、真宵さんのつば広帽子を地面に縫い止めるように刺さった、椿の花が象られた簪であった。
「あらあらあら、お怒りね。わたくし、なにかしたかしら」
足を止めた真宵さんが頬に手を触れる。その横顔は笑みを浮かべていたが、よく見ると薄く左頬に血が滲んでいる。帽子を縫い止めている簪で、頬が切れてしまったのだろう。しかし彼女は慌てることもなく頭上を見上げた。
釣られて俺も空を見上げる。
青空に、まだまだ真上に上りきらない太陽。そして……太陽に重なるようにして落ちてくる、誰かがいた。
「な、なんだ!?」
白。ただただ白い。そんな印象を受けた。
ばたばたと風をはらんで舞い上がる、白い着物。それに翼のように風を受ける白黒の鶴のような羽織。まるで本当に鶴が空を舞い、こちらに向かってくるように錯覚する。
「はあ!」
鶴が――いや、鶴のような女性が前方に回転する。
そうして、真宵さんに向かって鋭い蹴りを繰り出した。
「ごめんなさいねぇ、真白ちゃん。わたくし、なにかしたかしら」
さらっと女性の蹴りを扇子で受け流した真宵さんが、こてんと首を傾げる。やたらと幼げな仕草だったが、やっているのが大人っぽい貴婦人だからなあ……。
そんな真宵さんに、鶴のような女性は地面にしっかりと降り立ち、簪を拾ってから怒りの声をあげた。
「なにって……、御神体で寝るって言っておいていなくなっているわ、誰にも行き先は告げないわ、洗濯物もしないわ……私が楽しみにしていた〝かっぷけえき〟がなくなってるわ、なにもかも!」
「あら、なぜバレたのかしら……」
恥ずかしげもなく、他人様のカップケーキを食べた事実を認める神様がいるらしい。
俺と紅子さんは呆れた目を合わせて、そのやりとりを見守る。
「優梅が吐いたの。あんたが犯人だって」
「あの子の嘘かもしれないじゃない」
「あの子は私に嘘をつかないわ。ほらね、信用の差よ」
「ああ、わたくしを母のように慕っていた可愛らしい真白ちゃんはどこへ行ったのかしら」
「数百年も昔のことを言うのはやめて」
その言葉で気がつく。
鶴のような女性の周りには、紅子さんと同じように二つの人魂が浮かんでいた。白く、氷のように冷たい印象を受けるその人魂を目で追っていると、こちらに気がついたらしい女性が「あっ」と声を漏らした。
「なに、お客さんを連れてきたの?」
「ええ、この子達にこの素晴らしい鏡界を案内している最中なのですわ」
「ふうん、それで次は神社……と。……人選間違っているんじゃないかしら。貴方達、本当に真宵に頼って良かったの?」
「あー……っと、案内は真宵さんが買って出てくれたので……」
非常に言いづらいが、別に俺が頼んだわけじゃないからなあ。
「そ、そんな……わたくしはただのお節介オバサンだったということなのね……悲しいわ」
「ねえ、真宵。そうやって否定させようとするのやめなさいよ。困ってるじゃないの」
アルフォードさんに年齢をネタにされたときの怒りっぷりはすごかったのに、自分で言うのはいいのか。そんな疑問を口に出せるはずもなく。
「えっと、俺下土井令一って言います。あー、ニャルラトホテプの所で大変不本意ながら暮らしている……」
「あー、噂の……失礼。小耳に挟んだくらいだけれど、噂は嫌よね」
だからどんな噂が流れているんだよ。
気にはなるが、知るのも怖いので訊くのはやめておく。
「アタシは赤座紅子。赤いちゃんちゃんこの怪異だよ。お兄さんの付き添いで……」
「お付き合い9ヶ月、よね」
真宵さんの言葉に俺達二人は揃って「付き合ってはいない」と声を重ねた。
互いに目が合って、すぐに逸らす。こういうときばかり声がハモったりするんだから……複雑だ。
「なるほど、そういうことね」
女性は訳知り顔で頷く。
「適任でしょう?」
「悔しいけれど、あのヒトと夫婦である以上……そういう相談にはもってこいよね。仕方ない、か」
女性の歳の頃は20代くらい……だろうか。若い。けれど夫がいるという。それも、このやりとりを聞く限り相手は人じゃない。
なるほど、真宵さんが俺達を引き合わせようとしたのは、そういう理由か。
真宵さんも俺達のことについては応援してくれているようだし、踏ん切りがつくようにいろんなケースを見せてくれようとしているのだろう。
「さて、お客様をこんな山中に立たせたままにするのもよくないし、さっさと神社へ向かいましょうか」
彼女は鶴のような模様の羽織を払い、居住まいを正す。
「私の名前は灰鳩真白。この先の、夜刀神社の巫女です……2代前の、だけれどね」
ふわりと笑って彼女――真白さんが言った。
「山越えさせるのも申し訳ないし、ちょっと待っていてね」
そして彼女は、手にした簪を天へと向ける。
シャラリと揺れる椿の花と、雷を象った飾りがその先で揺れていた。
「来て、破月」
霊力の流れが視えた。
彼女の霊力が簪に流れ込み、そして雷の形をした飾りから抜けてどこかへと消えていく。
突如、山の上から咆哮が響いた。
真宵さんがうるさそうに眉をしかめる。
「な、なんだ!?」
「安心して。ただ夫を呼んだだけだから」
「夫って……」
俺の叫びに穏やかに笑って真白さんが言う。
そして紅子さんが呟いたそのとき、比喩ではなく雷が落ちた。
「我を呼ぶのは誰ぞ?」
「知っているくせに」
真白さんの隣に落ちてきた雷から、人が現れる。
その人は、背中に黄金の鱗で覆われた皮膜の翼を持っていた。
「さ、破月に乗っていいから、さっさと神社まで行きましょう」
「わ、我は『たくしい』代わりなのか真白よ!?」
「頼りにしてるのよ」
「なら、良い!」
いいのかよ。
そんなこんなで、俺達は神社へと向かうことになったのだった。