脳吸い鳥のウワサ
* 怪異譚その壱
◇
―― 彼女はそれを望んでいる。
◇
「令一くん、ちょっと遠出しようか」
珍しく怠惰でなくきっちりとスーツとボルサリーノハットをかぶった奴が言った。
「なんの冗談です?」
俺が軽い口調で言うと、珍しく真面目ぶった顔でネクタイを締めた姿見越しの奴と目が合う。奴の格好はあの日と同じ喪服のようなスーツである。
「仕事だよ、表向きの。旅行会社としての下見と個人経営旅館の買収に行かなきゃ行けないんだ」
「…… で、本音は?」
「さとり妖怪がね、言ってたんだ」
さとり妖怪の鈴里さん曰く、 「自身の通っている高校のグループが廃墟探索のために旅行する」 のだという。
なんでもその周辺には 「脳吸い鳥」 とかいう物騒な名前の鳥に関する噂話があり、夏休み中の肝試しに最適なのだとか。
「で、面白そうだから見に行くと?」
「…… まあね。それを聴いた夜刀神にも〝 面白いものを見たら教えて。無かったとしても教えて頂戴ね、面白がってあげるから 〟なんて言われてるし」
彼女なら如何にも言いそうなことだが、奴がそんな簡単な挑発に乗るのだろうか? 疑問に思っていると、 「くふふ」 と笑った奴が簡易的なお泊りセットをキャリーケースに入れて立ち上がる。
「言ったでしょ? 仕事だって。ちょうど重なったからついでに見物でもしようと思ってね」
嘘だろう。奴のことだから仕事の方をわざと合わせて来ている。でないと表向きの職業とはいえ若社長自ら下見と買収の交渉に行くはずがない。
「鈴里さんは行かないんですね」
彼女なら自分で行動しそうなものだが、それとも百鬼夜行の元締めがそう簡単に移動するわけにはいかないのか。
「ああそれね。もうすぐ仕上げの準備をするからグループの行動に合わせて行くことができないんだってさ」
「仕上げ?」
俺が復唱すると奴はつまらなそうに笑って言った。
「被害者ぶってるいじめの首謀者の心の声をだだ漏れにさせて、絶望のどん底に落としてやるんだってさ。そのための前準備。使うのは彼女の能力だね…… まったく悪趣味だ」
お前だけには言われたくないだろう。
しかし彼女にそんな一面があるとは思わなかった。姿見に映った俺の頬は引き攣り、なんとも言えない表情をしている。
祭りでは親切にしてもらったこともあり、人間に友好的な妖怪だと思っていたのだが、実はそうでもなかったのだろうか。
「さとり妖怪としての食事だよ。だから〝 同盟 〟の規約には触れてない。こういう大きいのを一回すれば数年は持つから高校、大学、何十年か経ったらまた戻って中学から高校って繰り返してるらしい。絶望が好物らしいけど…… 私はあのやり方が好きじゃない」
自分で全部お膳立てするなんてツマラナイし、と呟く奴。
一応この邪神にも矜持というものがあったのかとなんとなく感心したが、それもすぐにぶち壊されることになった。
「用意だけして後は流れに任せた方が気持ちいい…… じゃなくて面白いからね」
取り繕ったようだがもう遅い。このド変態が。
「あれですね、地雷だけこっそり用意して誰かが設置したあとにその上でタップダンスをするようなものでしょう? このドM変態ド畜生ご主人野郎……」
「なんかすごい罵倒の仕方をするようになったよね、れーいちくん」
一応ご主人扱いしているからかおしおきは執行されないようだ。
むしろ指を一、二、と四本立てて 「豪華盛りだね」 だなんて頬を染めて言ってやがる。気持ち悪い。
「それじゃあお一人様で楽しんでくればいいじゃないですか」
悪意を込めて言うと奴はチッチッ、と指を振ってそばに置いてあるキャリーケースを指し示した。
「れーいちくんは荷物持ちに決まってるでしょ?」
「…… それは命令ですか?」
「もちろん」
語尾にハートマークでもつきそうなほどむかつく笑顔で奴は肯定した。ゆえに、俺に拒否権などなかった。
◆
駅からタクシーで一時間程の田舎道に、俺の持つキャリーケースのガラガラという濁った砂利音が響いていた。
「例のグループが目的にしてるのは山の奥にある孤児院跡で、旅館はそこからそう離れていない高所にある民宿だよ」
地図を渡されている俺は、その言葉を聴きながら目的地の場所を探す。
奴は場所が分かっているかのように話しているが、案内する気はないらしい。
暢気に欠伸をしながら俺の横に並び、小高い山を見つめている。多分、あそこなんだろう。そう注意深く奴の表情を横目で確認すると、前を向いていたその色素の薄い目がぎょろりと俺を捉えた。
「っ……」
普通はなんでもないはずのその仕草。それに少しだけ気圧された俺はすぐさま目を逸らし、早足になる。
人間に擬態しているはずなのに異形を感じさせるその瞳は空っぽだった。なにも見ていない。なにも興味がない…… そんな目。故に俺は奴の意図を少しも読めずに歩くしかなかった。
「なんか、カエル多くないですか?」
「そう? そうでもないと思うけど」
周囲から響くカエルの大合唱と、時折跳ねるそれらを見て言ったのだが、奴は上を見上げて大きく伸びをしながら否定する。
俺は東京産まれ東京育ちだったから、こういう自然の中にカエルがこんなにいるものなのかは知らない。中学の頃にあったキャンプは骨折していて参加できなかったし林間学校はインフルエンザを患っていた。
今思えば酷い不運だが、高校の修学旅行でこいつに遭いクラスメイトは惨殺され、俺は隷属させられている。その上俺のことは誰も覚えていないから外も出歩きにくい。まともな自然というものを知らないのだから、もしかしたらこのうるささが普通なのかもしれない。
反響する合唱に、カエルとは木の上にもいるものだったか? と、ふと思った。
そして山中に入ってから三十分程し、崖の横をちょうど通り過ぎた時だった。
「き、君たち避けてくれ!」
ガリガリと、十メートルいかないくらいの崖から誰かが滑り落ちて来たのだった。
「あっ、だ、大丈夫ですがぶぇっ!?」
ちゃっかり避けてつまらなそうにしている奴とは違い、咄嗟に受け止めようとした俺は動きやすい服装をしたその女性の下敷きとなる。
「す、すまない!」
背中の上に柔らかいなにかが動く感触。幸いだったのは彼女がスカートでないことか。ひどくボーイッシュな格好をしている。キャスケット帽を被った彼女は慌てて俺の上から退いて、ついでよろけながら近くの木を掴んだ。
彼女と一緒に落ちてきたのであろうバッグからはこの付近のパンフレットと、ネットから拾ったらしい廃墟の情報をプリントアウトした書類がはみ出している。
身長は俺より20センチ以上低く、神内よりも10センチは高い。160後半くらいだろうか。
「いっつつつ…… いやぁ本当にすまない。しかし助かったよ、ありがとう。まさか崖があるとは……」
木に寄りかかったまま左足を休ませているところを見るに捻挫だろうか。俺がクッションになったとはいえ随分と痛々しい。
「鎮ちゃーん、大丈夫ー!?」
「なぁに馬鹿やってんだ、さっさと上がってこいよ!」
「み、緑川さん、あんまり崖下を覗き込んだらあぶないよ……」
崖の上から聞こえてくる賑やかな声。
女子一名、男子二名のその声に反応した彼女はちらりとこちらを見てから崖上に声をかけた。
「私は大丈夫だ! すぐに戻る!」
雄々しく、と言ったら失礼か。
凛々しい表情のまま声をあげた彼女に崖上の三人は安心したように静かになった。
「こほん、失礼。貴方達はこの先の民宿に用ですか?」
スーツの奴がいるからか、それとも混乱が落ち着いたからか、丁寧に崖の上を指差しながら彼女が質問する。
俺がそれに答えようとすると、すぐ横から奴か答えるように口を開いた。
「ええ、そうですよ。少しばかり古いものに興味がありまして、今日はそこを拠点にして泊まろうと思っているのですよ。もしや、貴女もそうですか?」
気持ち悪い。
なにがって、奴が敬語を使っていることだ。
いつもと違い過ぎて鳥肌さえ立ってくる。そんな俺に気づいているのか、さりげなく足を踏まれる。彼女の見ていないところで思い切り踏み返してやったら睨みつけてきた。今度はその目を見ても、得体の知れない恐怖が襲ってくることはなかった。
「ええ、私は青凪鎮という。よろしければ宿までご一緒しませんか?」
「私は神内千夜と申します。勿論、ご一緒させていただいますね」
「俺は下土井令一って言います。よろしく」
「神内さんと下土井さん…… よろしくお願いします」
そう言ってひょこひょこと覚束ない足取りで歩き出す彼女に気づき 「あ、ちょっと待ってください」 と引き止める。
「…… なにか?」
不思議そうな顔をする彼女の足を指して 「挫いてますよね? 青凪さんがよければですけど、背負って行きましょうか?」 と言う。流石に不躾だったかと言ってから後悔したが彼女は可笑しそうに 「ふふ」 とニヒルに笑った。
「女子高生のEにやられたかい? お兄さん」
顔が真っ赤になった。
「い、いやそういう意味ではなくてだな!?」
こういうからかいは神内に腐るほど受けているが女性から受けるのは初めてのことである。正直気恥ずかしい。
「私の下僕がすみません。ですが歩くのもお辛そうですし、せめて肩をお貸しますよ。ああ、男二人ですし、信用がないのでしたら仕方ないですけれど」
「いや、助かりますよ。こちらこそからかったりしてすまないね。いやぁ、どうしても癖でやっちゃうんです」
俺と奴とで彼女の態度が違うのは、スーツを着ているかいないかだろうか。正直身長の関係で奴の方が年下に見えるはずなのだが、不思議と俺への態度の方が気安い。
「じゃ、しっかり背負ってくださいね、おにーさん」
女子高生って怖い。俺はそう認識した。
「あ、やっと来た! おーい鎮ちゃーん! って、あれ?」
「お前なにやってんだよ……」
「え、だ、誰ですかこの人達!」
崖上まで来ると、先程の声の主らしい三人組が近寄ってくる。
最初に、大きく手を振って元気に声をあげる女性が鞄についたゾンビ犬のぬいぐるみを揺らしながらやって来て、俺達に気がつくと疑問符を浮かべた。
次の呆れた声は金髪に染めてピアスまでしている不良っぽい男だ。廃墟探索なんてするようなノリではなさそうだけど、オカルト好きなのだろうか。
最後に臆病そうな男。一番身長が高い割に細くて白い。その割に女性の近くを陣取ろうとしていたり、むっつりなのかもしれない。
「崖から落ちた時に助けてくれたんだ。この通り捻挫してしまったけど、多分湿布を貼って一日もすれば歩けるようになるだろう。この二人は目的も同じみたいだし、寄り道はここまでにして宿へ向かおう」
青凪さんの言い方から察するに、彼女はこのグループのリーダーらしい。オカルト関係のグループか部活だろうか。不良がいるのが謎だけど。
「神内千夜と申します。短い間ですが、よろしくお願いしますね」
「俺は下土井令一です。よろしく」
「私はさっき自己紹介したけれど……青凪鎮と言う。特技は怪異譚を集めることと、動物の鳴き真似、かな。お化け屋敷で好評なんだよ」
ああ、いるよな。クラスに一人は無駄に鳴き真似が得意な奴。
彼女がそうだと言うのは少し意外だったが、オカルトサークルなら怖がらせるための手法として手を出すのも、まあおかしくはないのかな。
「さて、次は涯から行こうか」
「は? 僕から?」
青凪さんに指定され、金髪の不良が嫌そうに言った。
「黄菜崎涯。鎮に無理矢理部活に入れさせられた哀れな不良だぜ」
彼はヤケクソ気味に自嘲してから 「次は孝一な」 と臆病な男の肩に手をポンと置いた。
「あっと、紫堂孝一です……」
「孝ちゃんそんなんじゃあ聞こえないよ! あ、あたしは緑川流。趣味はスプラッター映画とキモカワがいっぱい出るパニックホラー映画を見ることだよ!」
ばばん! とゾンビ犬のぬいぐるみを手に掲げた元気っ子が自己紹介を終える。
それを待ってから青凪さんが 「終わったかい? なら、行こうか」 と先導を始め、俺達は何事もなく旅館に到着した。
草木がぼうぼうと生い茂り、宿の外壁には平気でツタが張り巡らされ、所々へこんでいたり罅が入っていたりと地震でもあれば一発で崩れそうな場所だ。
お世辞にも綺麗な宿とはとても言えそうにない。むしろボロくていくら安くてもあまり泊まりたくない。そんな〝 旅館 〟という言葉を使うのもはばかられる雰囲気だった。
「え、こ、ここに入るんですか……」
臆病そうな男、紫堂が目を泳がせながら言った。
「うん、なかなかいい雰囲気だな。オカルトの匂いがするぞ」
「鎮、まーたそんなこと言ってるのかよ」
「だって涯! オカルトこそロマンだ! そうは思わないか!?」
「へいへい」
「あたしはキモカワが見られればそれでー」
興奮した様子の青凪さんをたしなめるのは黄菜崎君だ。
不良がオカルトの好きな彼女と一緒にいるのが不思議だったが、慣れたその様子にどうやら昔からの仲なのかもしれないと思い至る。
幼馴染とかだろうか。
「いらっしゃい。予約していたグループ様だねぇ…… あれ、二人増えたのかい?」
「いえ、私達は予約していません。このグループとは偶然そこで知り合ったのです」
宿内に入り、四座と名乗る主人に案内されて宿泊する部屋を決めることになったが、ちょうど六人であり、部屋は五つ。
女性陣がペアで泊まろうかと申し出てくれたのだが、すぐさま 「私達は予約客じゃありませんし、皆さんはどうぞシングルでお部屋をとってください」 ともっともらしいことをのたまった奴により、俺は旅行先でもこいつから逃れられないことが決定した。
「さすがホラースポットだね。見たまえよ、これ」
そう言って青凪さんが指差したのは画用紙かなにかに鉛筆でガリガリと書いたのであろう手書きのポスターだ。
【脳吸い鳥に注意!】
おきまりの警戒色で囲まれたその字は清書もされず、頑張って擦れば消えてしまいそうだ。消しゴムを持っていたら尚のこと。
まるで 『スズメバチに注意!』 というようなありふれた注意書きだというのにその内容とポスターの外装のせいで異様さが際立っているようだ。
「おお! これが噂のなんだね!」
「へ、へぇー…… これが緑川さんが楽しみにしてたやつなんだね?」
緑川さんはその異様な文字群だけが踊るポスターを見つめて興奮し、それに続いた紫堂君は無理をするように引きつった笑みを浮かべ、彼女に質問する。
臆病なわりにオカルトグループにいるのは、もしかしたら彼女が目的なのかもしれない。だが、グロテスクな物が平気な彼女相手に、彼は果たして耐えられるのだろうか。付き合ったりなんてしたら毎日スプラッター映画をリレーすることになりそうだ。
だけど、今の所気弱過ぎる彼のことは全く眼中にないようだし余計な心配かもしれないな。
「そう! 首はネギみたいに細くひょろひょろで禿げた頭は玉ねぎ大くらい。嘴は鋭利で細長い。胴体だけがずんぐりむっくりで毛むくじゃら。足は短くって羽音はあんまりしない。細口の花瓶みたいなシルエット! 極め付けに醜いカエルみたいな鳴き声! っくー! 想像するだけで可愛いよね! ね!」
緑川さんは楽しみにしていたためか、引くくらいにテンションが高い。
「そんなに具体的な情報があるんですね。目撃者でもいるんですか?」
俺がそう言うと話が長くなるとでも判断したのか、さっさと奴は二人部屋へと引っ込んで行った。荷物は俺が持ったままだが。
「うんにゃ、あくまで噂話の範疇でしかないんだよ下土井さん。まあ、オカルト大好きな私が言うのもなんだけれど大体は尾ひれ胸ビレ…… いや、尾羽鳩胸? がついて独り飛びしてるようなものだろう。創作されたものにせよ、具体的な姿が決まっているとなると楽しみも倍増さ」
意外だった。
彼女はオカルト好きな怪しい女子高生だと判断していたけど、どうやら思ったよりも現実主義だったようだ。
こういう話を聴くと絹狸に説明してもらった、現代における人外のあり方を思い出す。確か昔は信仰心か畏れで、今は認知度の多さで生まれたり強くなったりするのだったか。
その脳吸い鳥とやらが昔から存在する噂話…… つまり都市伝説のような物なのなら一匹や二匹いても別に可笑しくないわけか。
そう考えるとこのカエルだらけの山林は一気に不気味なイメージになる。なにせ、噂の脳吸い鳥の声はカエルに似ているみたいだし。
「あー、それよりもよ…… なんか人数が増えて食材が足りないから夕食が作れないらしいぜ。買い出しに行くことになるけどどーする?」
不良君は 「客にんなことさせんじゃねぇよ」 と文句を言いつつ青凪さんとこちらを見る。決定権はどうやら彼女と俺にあるらしい。
「俺が行きましょうか?」
「ああ、いや…… そうだな、コンビニまでは三十分はかかるし私は行けない…… となると貴方に任せるしかなくなりそうだね。でも、神内って人のお付きなんじゃないのかい?」
「あー……」
奴はどうせ買い物になんて行かない。
「いや、宿内にいてくれたほうが楽ができるので」
「そうかい? しかし、明日の朝の足りない分まで買わないといけないから荷物が多くなってしまう」
「あー、じゃあこうすりゃあいいだろ? 僕と紫堂がついて行く。そーすれば男手三人。仲良く買い物してくりゃあいいし、女子は先に風呂にでも入ってればいいだろ。一応露天風呂あるらしいぞ、ここ」
その言葉が決め手だった。
「頼んだよ、涯」
「おんせーん!」
「温泉……」
「おいおい、即答かよ…… あと、一応言っとくけど露天なだけで温泉じゃないし、紫堂は買い物だぞ」
仲が良くて宜しいことで。
ああ、帰ってこい俺の青春時代…… あいつが背後で嘲笑っている気がしてならない。考えるのはやめよう。
「風呂は西側に面してるってさ。さっさと堪能して来いよ」
「わーい!」
「ふふふ、楽しみだね」
女性陣は勢いよくその場から飛び出して行った。
俺達は男三人寂しく歩きにくい山道を行き来し、重たい荷物を持って地面を踏みしめる。コンビニからの帰りで、少しだけ打ち解けて来た頃だった。
ゲッ、ゲッ、と相変わらず鳴くカエルに居心地の悪さを感じながら早歩きになっていく。
そして、最後尾で俺達よりも軽い荷物を持っていた紫堂君が悲鳴をあげた。
「ッヒィ!」
パキッと、朝ご飯になるはずだった卵の割れる不吉な音がする。
「おまっ、なにやってんだよ!」
尻もちをついて上を見上げる彼は震えながら指を指し示す。
しかし、いくらその方向を見ても木々と暗くなってきた空があるだけで異常は感じられない。
「の、のの脳吸い鳥だよ! 本当だって! いたんだよ! く、嘴が真っ赤で、首だけひょろ長くて胴が丸々太ってる!」
「それ、お前のことじゃねーの?」
「ふざけてるわけじゃないよ!」
相当に憤慨し、尚且つ怯えている。
このままでは埒があかないので早めに帰ることになった。卵は予備の分も買っておいて本当によかった。買いに戻らなくて済む。
彼は宿に帰ってからもしきりに脳吸い鳥の存在を訴えていたが、それを切って捨てた青凪さんによって一旦落ち着かせるために部屋へ戻された。緑川さんは残念そうにしていたが、廃墟探索は明日の昼と夜、二回決行するらしい。
宿の主人が自分のついでに作ったような、ひどく家庭的なカレーを食べてそれぞれが部屋に戻る。
「脳吸い鳥は見れた?」
「いいや? 俺は見てないです」
「そう、相変わらず運がいいね」
「は、はあ? でも見たらしい紫堂君はなんともなかったみたいですけど」
「ふーん、どの辺で見たの?」
なんで奴はこんなにも質問を重ねてくるんだろう。
「ちょうど西側の、廃墟周辺…… か?」
確か紫堂君が悲鳴をあげる前はどこに廃墟があるとかをあの不良君に教えて貰ったんだ。
「そう」
それきり、奴はごろんときっちり窓側のベッドを取って寝る態勢に入っている。
物騒な名前なのだからきっと本物も物騒なのだろう。奴も心配、しているのだろうか。こんな奴が。
なんとなく奴に見捨てられることはないんだろう、と信用してしまっている自分に舌打ちを一つ打って不貞寝することにした。気持ち悪い。俺も、奴も。
本当、気持ち悪い。
◆
朝は激しいノックの音で目が覚めた。
「朝からごめんなさい! 緊急事態なんです! 助けてください!」
そこにいたのは緑川さんだった。
説明を求めても早く来てくれと腕を掴まれ、引っ張られていくだけでなにも話してはくれない。
「だって唐突にあんなこと言ったって信じてくれないもん!」
「い、いやなにがあったか分からないと心の準備が」
「紫堂孝一の部屋、ですか」
いつの間にか目の前には紫堂君の部屋。
無遠慮にも扉を開ける神内の後に、押し込まれるように部屋の中へ入ると俯いた黄菜崎君と、耳から血を流している紫堂君を抱え、歯を食い縛る青凪さんの姿があった。しかしその表情の細かいところまでは見えない。
「なにが、あった、んですか……」
俺は掠れた声しか出せなかった。
「私は応急処置の心得を持っているが、なにをやっても、どんなに声をかけても反応はないし、瞳孔が開いているように思える…… 耳から血を流しているから不注意の事故かとも思ったがその痕跡はない。つまり……」
瞳孔が開いている? それってつまり、死んでいるってことか?
嘘だろう? そんな、また旅館で事件に巻き込まれるだなんて。
「脳吸い鳥、だよ! 脳吸い鳥がいるんだ! だって鎮ちゃん軽すぎるって言ってたもん! 脳って重いんでしょ!? だからだからだから!?」
「ひとまず、宿のご主人を呼びましょう」
奴が行動指針を与えて来なかったら俺達は永遠にこの場で硬直していたかもしれない。それくらい、ショックだったのだ。
ゲッゲッゲッ
ギッギッギッ
ゲッゲッゲッ
ギャッギッギッ
早朝、外では嘲笑うようにカエルの大合唱が響き渡っていた。
【メインキャラ】
・下土井 令一
主人公。メンタルは弱め。
・神内 千夜
ニャル様の化身の一つ。大会社の若社長をやっているとは本人談である。自称かもしれない。こいつにとって、「気持ち悪い」は褒め言葉。
【ゲストキャラ】死亡の可能性あり
・青凪 鎮
学者風な喋り方。大人っぽいが大のオカルト好き。
・黄菜崎 涯
青凪の幼馴染で振り回され気味な不良。わりと善人。
・紫堂 孝一
臆病。緑川が好きだけど告白する勇気はない。一泊目の犠牲者。
・緑川 流
キモカワ好きな女子。ハイテンションだけど異常事態に弱い。