夜太刀の蛇と赤い竜
「事情は分かったよ。けれど、一言くらい連絡は入れて欲しかったかな」
俺の必死な弁明でようやく怒りを収めてくれた紅子さんは、ベッドに腰かけたまま俺の背後を見遣る。
そこには藍色のドレスに金色の月を象った模様と飾りをつけた巻きヅノの貴婦人……真宵さんが「うふふ」と蕩けるような笑みを浮かべて軽く手を振っていた。
明らかに俺達をからかっている。
「ごめん、急がなくちゃと思ってさ。それにこのヒト、着いたら呼んでって言ってたから……まさかこうなるとは思ってなくて」
「いい? お兄さん。神様の言葉はね、話半分くらいで理解しておいたほうがいいんだよ。裏になにがあるか分かったものじゃないからねぇ」
「酷いですわぁ……この美しい鏡界を眺めていってほしいと思って、せっかくわたくしが案内を買って出て差し上げていますのに」
「よよよ」とその長い袖でわざとらしく泣く振りをしているが、このヒトはただ遊んでいるだけだ。
「それはありがたいんですけど、紅子さんに前は頼もうと思ってましたし……」
そういえば前も、秘色さん達にリヴァイアサンから助けられたとき、案内をしてくれたのはペティさんだったわけだし、紅子さんと二人きりでこの世界を散歩したことはなかったな。いつも二人きりになれるのは彼女の部屋だけだ。
神中村で療養を終えてからは、彼女の部屋で料理やお菓子作りを教えるようになったからである。私服姿や部屋着姿の彼女と過ごすようになって、まるで本物の恋人のようだが……告白、してないんだよなあ。
でも、まだそのときじゃないから。
予感に従って俺は黙する。確信を持って、言うべきではないと。
それに、神中村から帰る前にこのことをこっそりと詩子ちゃんに相談してみたんだが……そのときも、予感に従ったほうがいいと言われたからな。
――「君のその予感は正しい。予知をする私が過去視をできたように、君もまた一番大切なことを未来視しているんだ。それは失敗しないために。君が大切なものを失わないためにと、自分の力で『予感』として伝えているんだ……そのときは、もうすぐやってくる。だから、それまで君は君のできることをやればいい。そうすれば、きっと失うことはないから」
その言葉を、俺は信じた。
祟り神を殺したときに協力してくれたように、詩子ちゃんは信仰に応えてくれる神様だからと、信じたのである。
でも、そのことは紅子さんには言っていない。
あとは俺が手探りながらも、紅子さんの隣にいつまでも、これからも、ずうっも一緒にいられるようにと、歩く道を選び続けなければならないから。
「まあでも、アタシはそこまでこの世界のことは詳しくないし、こうやって観光に誘ってくれるのはいい機会かもしれないかな。お兄さん?」
「……そうだな。色々と見て回りたいし、真宵さん。よろしくお願いします」
「ええ、お二人のデートを邪魔してしまってすみません。ですけれど、わたくしも少しは貴方達に関わりたかったの。うちの子達のように、人とそうでない者が結ばれるかもしれない……それが楽しみなのです」
「べ、別にまだ決まったわけじゃないかな……」
あまりにも真っ直ぐに指摘されてしまって、紅子さんが頬をその両手で抑える。白い肌に咲いた薄い朱が愛しくて、少しだけ苦笑いをする。
「あんまりからかわないであげてくださいよ」
「ごめんなさいね、お節介なお姉さんで」
「うわきっつー。真宵ちゃんいくつだと思ってるのー?」
「あ?」
途中で部屋の外から聞こえた声に、真宵さんがドスの効いた声をあげる。怖い。俺達まで睨むのをやめてください。蛇に睨まれた蛙のように竦んでしまう。今のは俺達じゃないですから!
「やっほー紅子ちゃんに、令一ちゃん。令一ちゃんが店の前を通ってからタチの悪い邪神の気配を感じたから来てみたんだけど。どうしたのー?」
部屋の扉を開けて顔を覗かせたのはアルフォードさんだった。
満面の笑みで真宵さんを煽る彼に、俺はそっと目を逸らすことしかできない。
彼の言葉を聞いて真宵さんはますます笑顔を深めると口元に手を添えて「うふふ」と笑う。怖い。
「わたくしは邪神ではなく蛇神ですよ、トカゲ。貴方も丸呑みにして差し上げましょうか? それと、さっきのは訂正してくださいな。わたくしはまだ四桁しかいっておりません。それを言うのなら、二世紀から生きている貴方のほうがお爺ちゃんではなくて?」
「キミだって千歳は超えてるんだから十分お婆ちゃんでしょ?」
「祟り殺してほしいのですか?」
「オレに勝てるとでも思ってんの?」
「は?」
「え?」
あの……俺達の前で喧嘩し始めるのはやめていただけませんか……?
待ってくれ、このヒト達って同盟の創設者同士だよな。そのはずだよな? なんでこんなに仲が悪いんだ。
「あの……」
「お兄さん、やぶ蛇になっちゃうよ」
「わたくしが蛇だけに?」
「……」
「ちょっと、紅子さんをいじめないでくださいよ」
「あら、いじめようだなんて思っていませんわ?」
いや、格上の神様からジョークを言われてもどう反応すればいいのかなんて、分からないだろうに。へたに反応して機嫌を損ねたくもないし……紅子さんの困惑は正当なものだ。
「あの……お二人とも創設者……ですよね?」
「ええ、もちろん」
「真宵ちゃんったら仕事をほとんどオレに丸投げしてくるけどね」
「この鏡界を提供して、セキュリティチェックをしているのが誰だと思っておりますの?」
「日がな一日神社で寝てるだけじゃん」
「頭脳労働をしているのです。貴方のような、道楽で店を開いている者とは違うのですわ」
「オレが店をやらなくちゃ野垂れ死んじゃう怪異もたくさんいるっていうのに、道楽だなんてひどいよねぇ?」
こっちに答えを振らないでくれ頼むから。
「まあいいや、とりあえず真宵ちゃんがいるってことは観光にでも行くんだよね? その前にオレの店に寄っていかない? 前はちゃんと説明してなかったもんね」
「呪具や魔法のこもった道具が売られている萬屋。それと、それぞれの怪異や神が人に紛れるための力を抑える装飾品や姿を人に近づけるための装飾品などがある場所ですわ。さ、これで行く必要はなくなりましたね」
「真白ちゃんに言いつけられたいの? 真宵ちゃん」
「……」
だから目の前で喧嘩するのはやめてくれ。
そうして俺と紅子さんは目の前で起こる喧嘩に辟易としつつも、なんとか話をつけていったん萬屋へと向かうことになったのだった。