連理の道
微睡みの中、違和感を覚える。
視界に黒い三つ編みを認めたとき、俺は飛び起きた。
「わーっ!?」
「くふふ、おはようれーいちくん」
なぜなら布団の中にしっかりと出かける準備をした神内がいたからだ。
鳥肌がびっしりと覆う腕をさすりながら睨みつける。こっそりと自分の寝間着も確認したがなにもない…… なにもないよな?
「さあて、れーいちくん。わかめにする? 昆布にする? それとも、も・ず・く? …… ああ、勿論味噌汁のこ」
「死ね」
食い気味に言い放ち立ち上がる。
普段は俺が用意している朝食だが、察するにこれをやりたいがためにこいつが用意したんだろう。食材が勿体無いからちゃんと食うけどな。
そうして部屋に向かえば、ほかほかと用意された白米が自己主張しているのが見えた。
「……本当に用意してある」
「口先だけではないんだよ。ほらお食べ。せっかくお前のためを思って誠心誠意作ったんだから」
「嘘つけ」
「ああ酷い。私の真心を疑うんだね?」
「信用できる部分が微塵も見当たりませんねぇ?」
「そのとってつけたような敬語、結構好きだよ」
「さいですか」
仕方なく食卓につく。うわっ、本当に味噌汁が三種類ある。
「食材の無駄遣いはやめてくださいよ」
「味噌汁なんだから何日かに分けて食べればいいんだよ。作ったからには全部食べるって」
「言いましたね? これから毎日あんたに出すんで全部食べきるまで汁物は他に作りませんよ」
「うんうん、たとえ腐っていても食べてあげるよ。無理矢理そんなものを食べさせられるのもまた一興」
そうだった。こいつ超のつくドMだったんだ。いや、普通のドMに失礼かもしれない。腐ったもん食わされるの想像して喜ぶとか頭がどうかしてる。
「そうだ、あんた今回のことにも関与してただろ」
目を細めて睨みつける。分かっているんだぞ、詩子ちゃんの記憶だとはっきり視ることができなかったが、〝おしら様〟の伝承に書かれていた〝村に訪れた黒い法師〟は絶対にこいつだと確信できる。
「くふふ、でも今回は直接出向かなかったでしょ? 私はお前が調子に乗るのを見ていてとっても愉しいよ」
妖しい笑みを浮かべる神内に鳥肌がポツポツと立っていくのを感じる。
絶対こいつ、いつ絶望のどん底に落としてやろうかとか考えてるだろ。勘弁してくれ。俺はもう昔とは違うんだ。こいつにだって、噛みついてみせる。
ただ、今は様子を伺っているだけだ。互いに手を出してやろうと睨み合いながら、詰めの一手のために俺は今もこうして我慢しているのだから。
「きゅう」
「うん? なにかな、アルフォード」
「んんん……きゅうい」
テーブルの上で器用に和食を食べていたリンが不満の声をあげる。
「こいつはリンだって言ってるだろ」
「ああ、そうだったね。うん、そうだった」
神内は、睨むリンに視線を合わせてなにやら目だけで意思のやり取りをしていたようだが、ふと嘲るように笑ってリンの頭に手を伸ばし――。
「ぎゃうっ!」
「いてっ」
噛まれた。
ざまあみろ。
「リン、変なものを食べちゃダメだ。口をゆすごう」
「きゅっ!」
「くふ、くふふふふ……最近私の扱いが雑じゃないかな?」
「安心してください、元からです」
不気味に笑い続ける神内を置いて食事を終え、食器を片付ける。
それから俺は出かけるために準備を始めた。
◆
本日――5月2日の早朝、俺はリンを肩に乗せた状態で屋敷を出る。
雀がチュンチュンと元気に鳴いていて、ほんの少し涼しい空気に身を竦ませる。春とはいえ、まだまだ夜間から早朝にかけては寒いのである。
「きゅうい?」
「ん? どうしたリン……ああ、もう大丈夫だよ。心配してくれてありがとな」
「んきゅっきゅ」
リンが肩から俺の顔を覗き込んで見てきたので、そう答える。
さっきは神内に気を取られて気がつかなかったが、ずっとリンは気遣わしげな目を向けていてくれていたようだ。
俺の怪我は、宇受迦君のところから宅配されるあの仙果を使用したデザートと、河童の扱う軟膏、それとペティさんの魔法薬など色々と手を尽くされて早々に回復させてもらっていた。
あの仙果も丸ごと食べれば反動が凄まじいが、加工して少しずつ使う分には回復力を促進する食物となるらしい。おかげさまで二週間程で折れていた骨まで綺麗に治ってしまったので、あちらの技術はすごいなと感心する。
まあ、紅子さんは早くに完治した俺に嬉しいような、ちょっと寂しいような、そんな矛盾した気持ちを向けて来ていたのだが。
俺も世話されているうちに距離が縮まったので、もう少しあのままでも良かったかななんて思ったりもして……。
――そう、『神中村』の事件から二週間あまり経ち、俺は順調に紅子さんとの仲を進めていっていた……と言っても、告白はまだなんだけど。
告白をして付き合っていないだけで、もうほとんど蜜月といっていいほどに俺達は交流している。
紅子さん自体がそこまで電話やメールを好むほうじゃないので、待ち合わせの約束だけしてあそこに行ってみようだとか、俺の料理が食べたいだとか、仕事に行こうだとか、そういうのだけだけれど。
好き合っている男女にしてはそこまで濃い時間を過ごしていないんだと思う。俺の中だと、女性側は結構連絡をしてきて、電話が好きってイメージがあったから新鮮だ。俺もそこまで頻繁に電話したりするのは得意じゃないので、そのほうが気が楽でいいのだが。
本日、俺はリンと共に鏡を通して「連理の道」へと足を踏み入れた。
「きゅうっ」
「この感覚にも慣れてきたな」
鏡を通り抜ける際に、たぷんとまるで薄い水の膜を通り抜けるような感覚になる。
この鏡の世界は「この世」の鏡写しの世界。裏側、そして隣り合った世界。重なり合っていて見えないだけで、本当はすぐそばにある世界である。
この世界を支配しているのが、一年ほど前に出会った境界を守る「夜刀神」であり、境界から転じて鏡界にまで手を伸ばし、怪異達が住む場所を創り上げた「同盟」の創設者のヒトリだ。
連理という言葉は、普通は仲の良い夫婦とかの例えに使うらしい。
連理とは、一本の枝に別の枝が重なり、それが一つの枝に見えることを指すんだとか。そしてその枝があちらと、こちら。触れ合った部分がこの道。「連理の道」というわけだ。
一本の枝にしか見えていなければ、触れ合った部分も見えないからな。
「にしてもここは本当に綺麗だ……」
「きゅ?」
「ああ、なんだかこういうの、慣れてもワクワクするよ」
「きゅいん」
心なしかリンが嬉しそうに鳴き声をあげる。
この子もアルフォードさんだからか、自分の造り上げた世界を褒められて嬉しいのかもな。
まあ、造ったといっても、この鏡界は元々あったものを改造しているらしいから、飾り立てのセンスが褒められて嬉しい……ってことになるのか。
薄らぼんやりと照らされた赤煉瓦の道を歩きながら俺は辺りを見渡す。
この連理の道は和洋折衷様々な怪異や幻獣などが集うせいか、その景色も和洋折衷だ。
油で灯る街灯が立ち並んでいるかと思えば、所々に舌をペロリと出した提灯が灯りを提供しながら隣同士で雑談していたり、ロウソク立てに乗せられたロウソクががゆらゆらと炎を妖しく揺らしていたり、青い炎を閉じ込めたランプが暗闇の中吊るされていたり、かと思えば煌びやかな電光掲示板に「そこうよ」と逆さ文字で書かれていたり……古今東西の灯りという灯りがそこかしこに存在している。
赤煉瓦の道も後ろを振り返れば曲がりくねって一回転していたりと、一体俺はどうやって歩いて来たんだと不安になるような道がそこにある。
しかしこんな道もリンがいれば安心だ。
案内人……案内竜? たるリンさえいれば迷うことなく、俺は萬屋へ、ひいてはその奥にあるアパートへと赴くことができた。
そうして紅子さんの部屋に尋ねに行くことができるのである。
「あちこちに看板があるが……」
「きゅっきゅう」
「そうか」
別にリンとの意思疎通が図れているわけではないのだが、なんとなく視線とか仕草で言いたいことは分かる。
俺が指差したあちこちを指し示す地名が書かれているだろう看板や標識、それらは信用してはいけないということなのだろう。
「あれらは流れ、流れゆくこの連理の道を定義付ける、文字通りの道標なのですわ」
「わっ!?」
ふわりと、背中を包み込むように誰かが〝降りてきた〟のだ。
それに驚いて飛び退くと、そこには豪奢なドレスを着た巻きヅノの貴婦人。いつか出会った「夜刀神」がそこにいた。
「えーっと……」
「縛縁真宵ですわ」
「縛縁さん、いったい俺になんの用です?」
「真宵さんと呼んでくださいまし。わたくし、でないととてもとても寂しいのですわ」
妖しく艶やかな笑みを浮かべる彼女に俺は顔を引攣らせる。
やはりどこか神内と雰囲気が似ていて、このヒトは苦手だ。これ以上ないほどの美貌だが、もう俺が問答無用で惹かれることもない。なんせ、好きな人がいるからな。
「……真宵さん、なんの用ですか?」
「ただの暇潰しですわ。それと、疑問があるようでしたのでお答えしてさしあげようかと」
「それはどうも」
「素っ気ないわねぇ」
「俺、好きな子がいるんで」
「うふふ、それは重畳ですわね。人とアヤカシの恋は悲恋が多けれど、結ばれる価値のあるものですわ。わたくしはそれを知っていますの。だから貴方のことも応援しておりますのよ?」
鈴を転がすような美しい声で真宵さんが笑う。
人とそうでないものの恋ってやつは前途多難だと思っていたのに、案外皆歓迎してくれていて毎度驚いてしまう。そんなに他人の恋路が面白いのだろうか。
「さて、この標識について説明いたします。本来こちらの連理の道は閉じられ、流されていく世界なのですわ。本来は常に流れていく濁流のようなものなのです。清流とは似ても似つかない、そんな穢れた場所なのですわ」
常に流れていく……ね。それが標識となにか関係があるのか?
「常に流されていくということは、足跡をつけてもすぐさまかき消えてしまうことを意味しますの。いくらヒトが通る場所が道になると言っても、その跡が跡形もなく消えてしまえばいつまで経っても道にはならないでしょう?」
雪が降っているときの雪道みたいなものを想像すればいいのだろうか。
「そこで、流されていく場所の道標として標識や看板を立てたのです。流されていようとも、その流れの上に常に留まる道標があれば迷うことはないでしょう。ですから、決してこの標識や看板を壊してはいけないのですわ。これもよく覚えていくと良いでしょう」
「リン、本当か?」
思わず肩に乗ったリンに尋ねる。
するとリンは明るい声で「きゅう」と肯定した。
「そうか、本当のことなんだな」
「ひどいじゃないですか。わたくしのお話、信用してくださらないのね」
「いや、だって……」
前に俺を騙して変なものを食わせようとしたこと、忘れてないからな。
それに神内と雰囲気が似てるし、胡散臭すぎるんだよ。そう簡単に信用できるか!
「ひどい、ひどいですわあ」
さめざめと泣きはじめてしまったが、口元が笑っているので絶対にわざとだ。
反応なんてしないぞ。
「まあ、それはそれとして……貴方はまだ鏡界についてはあまり知らないのでしたね」
「ま、まあ……いつも行く場所と言えば」
萬屋と、大図書館と……紅子さんの部屋、くらいだし。
「それなら、わたくしが案内してさしあげましょう。鏡界の隅々までわたくしが支配する領域です。安全性は保証いたしますわ。もちろん、あの子も連れて行きたいのならご自由に。わたくしはツアーガイドさんにでも徹しますもの」
「……」
話を受けるか、受けないか。
夜色の妖艶な笑みを浮かべた夜刀神。彼女が同盟創設メンバーであることは確かなのだ。ならば人間を愛し、傷つけるつもりがないのであろうことも多分保証される。紅子さんを誘う許可も出ている。
リンを横目で見ると、頷く姿が映る。
信用はできる。だから俺の気持ち次第でどちらでもいいよということだろうな……多分。
「紅子さんの部屋に行って、訊いてみます。彼女の許可も欲しいですし」
「ええ、とても懸命ね。分かりました。それまで待ってさしあげましょう。準備ができたらわたくしの名前をお近くの鏡に向かって呼びかけてくださいな。貴方からの呼びかけを、わたくしは待っていますわ」
そう言って真宵さんが闇の中に溶けるように消えていった。
「先延ばしにしちゃったが……今日は特にすることもなくて、紅子さんに逢いに来ただけだしな……案内してもらえるなら嬉しいし」
ちょっと心配なことがあるとするならば、紅子さんがこの話をどう思うかなんだよなあ。
そうして俺は止めていた足を動かし、薄らぼんやりと照らされる煉瓦道を再び歩き出すのだった。




