六十年目の巡り合わせ
「詠子、詠子。起きておくれ、詠子」
皆のいる場所へと戻ると、詩子ちゃんが詠子さんの体を優しく揺すって声をかけているところだった。
片側に鬼のツノが生え、青い隈取りをしたその姿は変わらずに詠子さんは目を震わせる。
「……どうだ?」
「さっきからあの子が呼びかけてはいるんだがねぇ」
刹那さんはそう言うが、別に心配をしているような雰囲気でもない。目を覚ますと確信しているのか、それとも興味がないとか、そういう理由なのかは分からないが……ともかく、彼は事実だけを述べている。
「詠子、私はここだ。お前の心はここにある。どうか、どうか目を開けてくれ」
ピクリと、少女の睫毛が震える。
「ど……こ……に」
「私はここだ。私はここにいる」
詠子さんの手を握って、詩子ちゃんが声をかけ続ける。
そうしている彼女を全員で見守っていると、詠子さんはゆっくりとその瞼を押し上げた。
虚ろな瞳は虚空を映し、しかしその中に真っ白な蝶を捉えると、その瞳を大きくして起き上がった。
「ねえさま」
「ああ、そうだよ詠子。私だ、詩子だ」
「ねえさま、おあいしとう、ございました」
「うん、私もお前と会えて嬉しいよ。何年振りだろうか……もう六十年にもなるのか?」
穏やかに微笑む詩子ちゃんに、詠子さんは瞳を潤ませて声をあげる。
「わすれたく、なかったのに……ねえさまをわすれたくなかったのに、わたくしは」
「いいんだよ、いいんだ。私は、本当はお前が幸せに生きてくれればいいと、そう思っていた。あのとき、お前と別れるとき、〝忘れてくれ〟と言えなかったのは、他ならぬ私の業だ。そしてお前を縛り付けてしまった。お前に呪いをかけてしまった」
贖罪するように、白い神様が言葉を紡いでいく。
言葉。それはそうと思っていなくとも、人を縛り付けることのできる原初の呪いなのだからと、詩子ちゃんは舌で転がすように、詠子さんをあやすように、穏やかな声で想いを伝える。
「あなたがもういないことも、わすれなくてはいけないことも、わかっていました。けれど、それでも、もとめてしまいました。たとえまぼろしでも、あなたと、もういちどあいたくて」
「詠子……」
「あなたにこえがとどけられるなら、あなたをひとめみることができたのならば、このこえも、このひとみもすてたってかまいませんでした」
焦がれて、焦がれて、自分のなにもかもを投げ出しても忘却を遠ざけたくて、そうして詠子さんは苦しんでいた。
そこには、きっと詩子ちゃんを見捨てた自分自身への罪の意識があったに違いない。だからこそ、彼女は異常に忘れることを恐れて、そうして少しずつ、少しずつ心が蝕まれていった。
「あなたのこえが、だれかのこえにまじってきえていくのです。あなたのすがたが、だれかのすがたとかさなって、おもいだせなくなるのです」
必死に言葉を紡ぎながら、詠子さんは詩子ちゃんの胸に抱かれて虚ろな瞳から涙を流す。その瞳の中には、もう詩子ちゃんしか映っていない。
俺達はそんな様子をそれぞれに痛ましく思いながら、霧が晴れていく空を見上げる。まだ僅かに残った霧と、重苦しい空気が村全体にのしかかっているようだった。
「……きぎのざわめきに、かきけされていくのです。おもいでをかさねるごとに、あなたをみつけられなくなる。それが、とても、とてもおそろしかったのです」
「うん、うん、私もね、お前に見つけてもらえないことが、お前に忘れ去られていくことが怖かった。だから呪いをかけてしまっていた。お前の幸せを、一番に願っていたはずなのに。私は、お姉ちゃん失格だ」
「ねえさまは……わたしにとって、さいこうの、おねえさま……ですよ」
泣き笑いのように微笑む詠子さんに、詩子ちゃんは唇をぎゅっと引き結ぶようにする。そして、立ち上がるほどの力はない彼女を抱き上げた。
「ねえ、詠子。もう、怖くはないかい? もう、寂しくはないかい?」
「……ええ、とても、とても、おだやかな、きもちです」
詩子ちゃんに抱かれたまま、詠子さんは目尻に涙を溜めて頷く。
「一人で、眠れるかい?」
「ええ、だって、ねえさまは、かみさまですものね」
「ああ、私にはまだやることがある。きっと、きっとまた会えるからね。またもう一度生まれておいで。そうしたら、きっと私はお前を見つけるよ」
「うれ、しい……です」
「愛している、詠子。我が妹。私は神様だから、いくらでも、そういくらでもお前を待つよ」
「ねえさま、ありがとう。だいすき、です」
「……」
そして詩子ちゃんは、見守っていた俺のほうに視線を向け、真っ直ぐと見上げてきた。
「君、君のその浄化の炎で、この子をどうか天まで見送ってほしい。君の愚直なほどの優しさならば、この子をきっと穏やかに送ってくれるだろうから」
「………………」
ああ、そうか。そうだな。そうだよな。
この二人は、この姉妹は、今生で救うことはできない。
ただ、未来を覗ける詩子ちゃんが言っているのだ。彼女は何年でも、何十年でも、何百年でも妹が再びこの世に生まれ落ちる日を待つ。
それはまた、呪いとなるだろう。
けれど信頼を向けて、妹が無事にあの世へと旅立てるように俺を頼ってくれている。
――俺の、この愚かなほどの優しさを必要としているんだ。
「分かった」
だから、俺は肯定して赤竜刀を抜く。
集中して決意を込めるように、祈る。
この姉妹の〝来世でまた会う〟という無謀なほどの約束を想って、俺は祈る。
俺もまた、そんな二人の願いが叶うことを希う。
希望を持って、未来へと託すために。
じわり、じわりと薔薇色の炎が赤竜刀へと宿る。
しかしそれは、大蜘蛛を斬ったときのような苛烈なものではなかった。
とろ火で包み込むような、そんな優しく温かい、太陽の温かさを込めたような炎。
「いいんだな」
「ねえさま……のろいをかけるわたくしを、おゆるしください」
「いいよ、言いなさい」
「――わすれないで」
「ああ……約束だ。いいね、詠子」
「は、い……かならず、しょくざいをして、もどってまいります。おねがい、します」
抱きかかえられた少女に視線を集中させる。
その胸の中に宿る魂は、蜘蛛。姉の蝶に対して、蜘蛛。
自らの巣に絡まってしまった、哀れな蜘蛛の魂がそこにはあった。
「どうか、安らかに」
言葉にして、赤竜刀を静かに彼女の体へと突きつける。
不思議と赤竜刀は彼女の体を傷つけることなく、撫でるようにその身の内へと沈ませていった。
俺のやることは、なんとなく分かっている。
だから俺は、この目に視えている蜘蛛の巣だけを斬り裂いて、雁字搦めとなった魂を解放した。
「あ、あ……」
薔薇色の炎が燃え上がる。
「たつ、き……さん……まっていて……くださった、のです、か……?」
詠子さんが虚ろな瞳で手を伸ばす。
その先に俺には誰も視えなかったけれど、彼女のその手に一枚の桜の葉が落ちていく。
ゆらゆらと、ふらふらと炎が揺れて、同じく薔薇色の糸を天へと昇らせるように、詠子さんの胸から一直線に天へと伸びていく。それを辿って小さな蜘蛛が天へと自ら昇って行く。
後に残った詠子さんの体は、ゆっくり、ゆっくりと時間を早回しするように端から砂のように崩れ落ちて行くのみだった。
「ゆっくりおやすみ。愛しい妹、詠子」
崩れ去った一握の砂を手に、詩子ちゃんは天へと静かに昇っていく薔薇色の糸を見つめていた。
やがて、浄化の炎が収まると俺は動かさずにいた赤竜刀を納刀する。
「……忘れない、忘れないよ。けれど、今は、無様に泣き崩れる……お姉ちゃんを許しておくれ」
詩子ちゃんはその場でしゃがみこむと、子供のように、歳相応に涙を流し始める。そんな彼女に華野ちゃんが慌てて寄り添い、俺が見送りをしている間にいつの間にか道具を持ってきたのか、刹那さんがガラスの瓶に詠子さんだった砂を集め、蓋をした。
「詩子ちゃん……」
なんとも言えないような痛ましい表情で透さんが呟く。
しかし、それ以上はなにも言えないようだった。
アリシアも、ジェシュも、なにか思うところがあるようにずっと黙ったまま寄り添いあっている。
「お兄さん、大丈夫?」
「うん」
「お兄さん、泣いてるよ」
「……え」
手を伸ばしてみれば、確かに俺の頬は濡れていた。
「はは、情けないな」
「今ので気持ちが動かないほうがおかしいよ……令一さんは、頑張った。ちゃんと、頑張ったから、キミもこのあとはしっかり休んでね」
「そうだった、反動が来るんだっけ。そうしたら紅子さん、本格的に看病、よろしくな」
「アタシがつきっきりでいてあげるから、覚悟しておいたほうがいいよ」
「それは頼もしいな」
笑って、一人また一人と崖から離れていく。
まだこの村の入り口は土砂で封鎖されているだろうが、どうしようか。
あとの日程はここで、湯治に頼るのもいいかもしれない。
まだまだ祟り神が謳歌していた影響で重苦しい雰囲気が漂っているが、それくらいなら滞在していても問題はないはずだし。
そうして村まで戻ると、見知らぬ人物が二人。道端で言い争っているのが見えた。
「……両方、人間じゃない」
紅子さんの言葉にハッとして集中する。
確かにその二つの人影からは人外の雰囲気が漂っていた。
「だーかーらー! 僕はもう帰りたいんですよう! 分かりますか!? いいじゃないですかぁ! 同盟のメンバーがここに来てるんですから! 僕がいなくてもなんとかなりますって!」
「ダメだ、仕事だからな」
「無理ーっ! この雰囲気がもう無理なんですよう! 閑静な村ってだけでもう無理ですし邪気漂いすぎですし蜘蛛の気配濃すぎますしなにもかも無理無理の無理なんですーっ! 僕、虫もダメなんですよ? 無理無理のポンポンペインなので実家に帰らせていただきます!」
「いい加減にしろ、主。家で待っているあに様とついでにお師様も困るぞ」
「僕の父さんをついでにしないでくださいよー! あなたの上司でしょうがー!」
「すまん、口が滑った」
言い争っているのは銀髪和服の男と、白に桃色の混じった独特の髪をした和服美丈夫であった。
一見二人とも女の子のように整った顔をしているが、声で男だと分かる。
「なんだあれ」
「さあ?」
俺と紅子さんは、そうして首を傾げながら言い争う二人の元へと歩み寄って行くのだった。




