浄化の炎で長年の因習を叩き斬れ!
シャラン、シャランと鈴が鳴る。
詩子ちゃんの右手に付けられた組紐と鈴がその動きに合わせて鳴らされている。まるで神に捧ぐ舞のように、彼女は白装束をはためかせた。
冬の早朝のような肌寒い風が彼女に纏わりつき、鈴を鳴らす。
シャラン、シャランと。降り積もる雪のように、俺達の元から淡い光が浮かび上がり、祠の前で舞う彼女の元へ。
「……」
浅い呼吸。
目を瞑ったままに。そうして、千切れた組紐を華野ちゃんの左腕にむすびつけた。
「私は神、報せの神。君達の信仰に応え、私は先見の目を持って、かの偽物の神を討つ手助けすることを誓おう。華野、君は私の巫女として同じ光景を共有することとなる、それでもいいかい?」
「望むところよ」
「そうかい」
詩子ちゃんが微笑む。
光……信仰を受け入れた彼女はこれまでと比べ物にならないほどの存在感をその場に刻みつけたのだ。そうして、ただの白い幽霊から、信仰を持った白き神に。
「私の名前を呼んでくれないか、華野。藤代、華野」
「ええ……私、藤代華野は報せ神、白瀬詩子の巫女として、その予知を他方に伝えることを誓いましょう」
シャランと鈴が鳴って、二人の間を冷たい風が吹き抜けていった。
しばらく見つめあって、二人は頷く。
「行こうか」
ほんの少しだけ眉を寄せて詩子ちゃんが言った。
その様子に、俺は以前紅子さんが言っていたことを思い出して、口に出す。
「幽霊に堕ちて、そこからまた神格を持ってって、きつくないか? 詩子ちゃん」
雨音の怪異のときに、カタツムリの神様に対して紅子さんが言っていた。堕ちて、また神に戻ってを繰り返すと体が耐えきれないと。だからこそ、俺は詩子ちゃんに尋ねたのだ。
「これくらい、耐えてみせるさ。少しの間は上手く視ることができないかもしれないけれど、そのうち馴染む。心配はご無用さ」
彼女がそこまで言うのならいいのだが。
「無理はしないでくれよ」
それだけ言って、誰が言うということもなく走りだす。華野ちゃんの隣に詩子ちゃんが並走し、俺達は先頭を駆け抜ける。
態勢を低く保ち、加速しながら赤竜刀を振るって露払いを成す。ロケットのように突っ込んでいきながら、俺は神社の方向へと向かった。
「無茶をするなというのは、君もだ」
赤竜刀を振るうタイミングが遅れ、蜘蛛に噛みつかれそうになったそのとき、空中で蜘蛛の動きが止まる。
「曲がってしまえ」
そして、見えない手によって腹と頭に当たる部分が捻り切られた。
おしら様の「顔が曲がる」と言われる祟りの力である。
こうして俺達は協力しながらも神社の手前まで辿り着いたのだった。
「でかい……」
思わず呟く。
落ちた吊橋の向こう側に、神社を踏みにじるように巨大な蜘蛛の姿を確認する。
その蜘蛛の体は人間の死体で構成されたかのようにデコボコとしていて、ときおり崩れるように蜘蛛の足に当たる部分からパーツが剥がれ落ちる。
実に醜い有様の、こんなものを神と言うことすら憚られる。そんな巨大なバケモノ蜘蛛だった。
大勢の呻き声を縒り合わせたような、そんな声が大音量で響き渡る。
「けど、これじゃあ……」
詠子さんの姿は見えない。
これでは、彼女を救うことすらできないぞ。
取り込まれた場所が分からなければ、へたをすると詠子さんを傷つけてしまうかもしれない。
崖を挟むようにして俺達と大蜘蛛は対峙している。
――こころを。
無数の恨み言の中に混ざった女の子の声。
いくら集中しても、どこからその声がするのかが分からない。
「向こう側には行けそうにないね」
透さんが困ったように言う。
そうだ、神社から逃げるときに吊橋は落ちてしまった。どうすれば……。
「俺が運んでやろうかい?」
「いや……」
詩子ちゃんが目を瞑り、そして隣の華野ちゃんを見た。
「トオルさん、あなたはここにいて。わたし達では辿り着けないわ」
「え、どうして?」
「詩子からイメージが送られてくるの……あそこに行けるのは一人だけ。そして、それはそこのあんたじゃないといけない」
華野ちゃんが俺を指差した。
もちろん。相手は蜘蛛とはいえ神だ。格上に届かせることのできる、この赤竜刀でなければトドメはきっと刺せないだろう。
「……そう、またお兄さんに任せないといけないんだね」
苦い顔をして紅子さんが言った。
「大丈夫ですよ、声援を送れば実に単純に令一お兄さんは舞い上がりますからね」
「アリシア、言い方」
今度はアリシアちゃんのあんまりにもあんまりな言い分にジェシュがツッコミを入れる。間違ってはいないあたり、よく俺のことを分かっていると言えるだろう。
「そういうわけだ、紅子さん。俺が行ってる間は外の小蜘蛛達をよろしく頼む。邪魔されたらたまらないからな」
毒液もあるわけだし、大蜘蛛と大立ち回りをしている最中に横から攻撃されたんじゃたまらない。だからこその役割だ。
「……透、耳を澄ませていてくれないか」
「詩子ちゃん……うん、ちょっと頑張ってみるよ」
詩子ちゃん、華野ちゃん、そして紅子さんの前に透さんが立ち耳に手を当てる。
そうこうしているうちに大蜘蛛がこちらに気がついたのか、白い蜘蛛糸が吐き出されてこちら側に迫ってきた。
「はっ!」
細いそれを斬り払って、背後を守る。
どうやら狙いは俺のようで、なおも向かってくるそれを受け流してから走り出した。俺を追いかけるように糸が吐き出される。
彼らの側にいるとかえって危険な目に遭わせてしまいかねない。
俺は、俺だけで。詩子ちゃんの予知通りに一人で向かった。
細い糸では斬られるということを学習したらしい大蜘蛛は、今度は波のように大量の蜘蛛糸を吐き出してきた。あまりにも多いそれを焼ききるのは時間の無駄だと断じて回避に専念し、どう攻略しようかと崖上を走り続ける。
「リンッ!」
正直今止まってしまえば、気が抜けて息がきれてしまいそうだ。走り続け、そしてたまに紅と白の蝶へと向かう蜘蛛糸だけを焼き斬っていく。
チラチラと燃え盛る薔薇色の炎が蜘蛛糸を辿っていくものの、途中で糸が切れて大蜘蛛までは届かない。
単純な大きさと、そして場所のアドバンテージ。俺では崖を超えられない。
……どうすればいい。
「令一くん! 蜘蛛の糸は二種類あるんだ。くっつく糸と、くっつかない糸だよ! それをなんとか見極めればきっと……!」
透さんが声を上げる。
俺は未だに霧が視界を覆う中、目を細めて向かってくる糸を見るが……ダメだっ、対処することに精一杯で詳しく見ている暇がない!
「旦那! 灰色の蜘蛛糸だ! 大量の糸の中に一本だけ違うのが入ってやがる! 多分それだぜ!」
「……って言われても、見えないんだよ!」
白い波が迫り来る。
そして、いよいよ大蜘蛛が足を動かした。
長い長いその足が振り上げられ、崖のこちら側に向かって降ろされる。
そのとき、白装束を羽織った少女がこちらにやってきて言った。
「右に回転斬り」
踏み込んで、反射的に動いた。
すると赤竜刀が食い込んだ蜘蛛の巨大な足から、纏わり付いていた肉塊が剥がれ落ちて魂が一つ、二つと解放されて天へと登っていく。
「これは……」
「問題ない、私が見極めよう。この先見の目を持って、君を全力で支援する」
詩子ちゃんがゆっくりと微笑んだ。
「なるほど、それは心強い」
「次、左から討ち漏らされた小蜘蛛」
「ごめん!」
言われた方向に向かって突きを繰り出し、「大丈夫!」と声に出す。
――こころを。
再び詠子さんの声が聞こえたとき、背後から透さんの声が響いた。
「令一くん! 口だ、口の中から声がする!」
「分かった!」
耳を澄ませていた彼のおかげで、詠子さんの居場所が分かった。これで攻勢に出られる!
「上から糸」
ハッとして飛び退る。
俺のいた場所に糸が叩きつけられた。
「その上を走れ」
言われたとおりに前傾姿勢になって、糸に足を延ばす。
「旦那! 右端だ! 右端に灰色の糸があるぜ!」
崖から刹那さんの指示に従って、蜘蛛糸の上に。詩子ちゃんはこちらまでやってこずに崖上で足を止めたままだが、今度は頭の中に直接響くような声がし始めて、俺はつき動かされるように足を運んだ。
「毒液が来る。跳べ」
「っふ……!」
目の前に迫る紫色の毒液を上空に回避し、灰色の糸に着地したまま加速する。
頭の中に響く詩子ちゃんの〝予知〟を頼りに、俺は糸を駆け上がり大蜘蛛の顔の部分へと向かう。
それは信頼。神としての彼女を信仰した、俺なりの信頼だった。
こうしていればなんとかなるという、無条件の、無意識の行動。
皆の言葉に従って、俺は動く。
皆が開けた道を俺は行く。
そして大蜘蛛がその口を開け、俺を取り込もうとする。
そして、その奥に俺は見た。糸に囚われた少女。虚ろな瞳でこちらを睨み、〝心〟を求め続ける少女を。
――どこにいるの。
「詠子、私だ。詠子、私はここにいる。お前の〝心〟はここにあるぞ!」
崖の上で詩子ちゃんが叫ぶ。両腕を広げ、その腕の鈴がシャランと涼やかな音を鳴らした。
それを見て、少女の目が見開く。そして蜘蛛の口の動きが、一時的に止まった。
「そこだぁ!」
開いた口の中に飛び込む。
そして閉じきる前に少女の元へ。
薔薇色の炎を纏い、横薙ぎの一閃。
少女を捕らえた糸を焼き斬り背後の肉の塊ごと抉り取る。
その動きのまま、両手で持ち直し、真上に赤竜刀を突き刺す。
「うっぐっ……!」
両腕は上顎を貫く動作にかかりっきりで詠子さんを逃すことが叶わない。
だから、申し訳ないと思いつつも、彼女を足で払って蜘蛛の口の中から蹴り落とす。
閉じていく口の向こう側で、刹那さんが落ちた詠子さんを抱えて飛んでいくのが見えた。
よかった。しかしそんな安堵が油断となる。
「しまっ」
そうしてバランスを崩した俺は閉じた上顎に飲み込まれた。
手が滑り、赤竜刀を上手く握れない。絶体絶命。普通なら詰みの状況。
だめなのか……そう思考に霧がかかったとき、外から小さく声が聞こえた。
「令一さん!」
悲鳴のような声。
――約束。
その言葉が頭の中を過ぎり、目を見開いた。
「いや、まだだ!」
足元を踏ん張る。押し潰してくる肉塊から滴った液体に触れた箇所が焼け爛れていく。靴が溶けていく。糸が身体中に巻きついてくる。
喉の奥からは大勢の人々の生者を妬む声と、無念の声が反響して俺を取り巻く。まるで諦めさせるかのようなその声に、声を張り上げて腕を無茶苦茶に振るった。
――お前には、この場にいる全員の願いが聞こえるかい?
詩子ちゃんの声が頭の中に響く。
集中すれば、確かにそう遠くから皆の声が聞こえてきた。
「このっ! 口を開けなさい!」
「アリシア、一旦離脱するよ」
「あ、待ちなさいよジェシュ! ちょっと!」
アリシアとジェシュの声。
「ッチ、幻術で糸の狙いを逸らすのはいいが、さすがにこう何度も続くとなると……ちときついな」
刹那さんの声。
「トオルさん、小蜘蛛が来るわ。右側」
「うん、任せて!」
華野ちゃんと透さんの声。
「お願いだから、無事に帰ってきてよ!」
紅子さんの、声。
「……そうだ、俺はここで終われないっ。約束を守るんだ!」
――お前についているのは、聖なる竜の化身。その火焔は浄化の炎。
詩子ちゃんの声が響く。彼女の予知が流れ込んでくる。
頭に浮かび上がったイメージは、赤竜刀から巻き起こる浄化の炎。邪悪なる神を殺すための刃。
死体達に宿った、未練ある魂がこの大蜘蛛の体を結び付けていると言うならば、それをどうにかしないとこいつを殺すことはできない。
ならば――浄化の一太刀を今、この場でっ!
口が閉じていった恐怖を、前を見据える目に。
死ぬかもしれないという恐れを勇気に。
できないかもしれないという不安を決意に。
神を殺すという無謀な挑戦を現実に。
それらが合わさって、紅子さんを守りたいという願いを力に変換する。
神への一手を、格上へ食らいつく刃を。
手が消化液で滑りそうになる中、赤竜刀の柄をしっかりと握り込む。
諦めては、いけない。
思い出すのは、俺が成すすべもなく神内に殺されていった友人達の姿。
俺が救えなかった青凪さんの姿。目的を見失って塵になってしまった黄泉返りの青水さん。失恋の末に散っていった冬の桜の姿。
もう、あのときの俺とは違う。
今の俺ならば、この牙が届く!
ひゅっと息を短く吐き、それら全ての想いを乗せて自ら肉の地面を蹴り、喉奥へと突っ込む。
この大蜘蛛に囚われた全ての魂をここで今、解放する!
「はあっ!」
斬り裂いた軌跡が薔薇色の炎で彩られる。
たとえ再生能力があったとしても、常に燃え盛り続ける神の炎に焼かれて大蜘蛛は抵抗ができないはずだ。そして、大蜘蛛の体の中、その中心に集まった人形達に刃の先を向ける。
――しにたくない。
――しにたくないよ。
「だからといって、人の命を無差別に奪っていい理由にはならない!」
容赦は捨てた。
胃袋の中に飛び降り、空中で回転する。力が足りなければ体重と勢いで斬ってみせる!
「俺は、約束を絶対に、違えない!」
回転に決意と祈りを乗せ、浄化の炎を纏った剣先で人形達の中心を突き刺す。
一瞬の静まり、そしてその場から全ての人形を斬るように振るう。トドメを刺され、一斉に割れる人形達を横目に俺はそっと目を瞑って深く息を吸う。
「次はどうか、報われますように」
祈るように。
神殺しを経て、俺は血振りをして鞘に赤竜刀を納める。
「やっ……た……?」
シャラン。涼やかな鈴の音が耳の奥で聞こえる。
薔薇色の炎が縦横無尽に大蜘蛛の体の中を駆け抜けるたびに、その部分から青白い魂達が立ち登り、解放されていく。
魂達が天へと向かっていくたびに、蜘蛛の体から死体が剥がれ落ち、薄れて消えていく。
そんな光景を見ながら、俺はだんだんと見えてくる夕空を見上げた。
霧が薄れていく。やはりあの真っ白な霧は大蜘蛛の、偽物の神様によるものだったらしい。
目の前で消えていく大蜘蛛には、もはや大勢の魂を結びつけるだけの核もなく、無理矢理集めていた意思もなく、ただただ消えていくだけだった。
「終わった……」
神殺しを。否、祟り神殺しを俺は成したんだ。
呆然とその場で呟いて座り込む。神社の瓦礫が沈む跡地となったその場所で、俺は気が抜けてしまったのか動けなくなってしまった。
「膝が笑ってる……情けないな」
今更ながらに襲ってきた恐怖が体を駆け抜けて、鞘に収まった赤竜刀を手に握ったまま笑う。
本当に、最後まで格好良くできないな、俺は。
「令一さん!」
ふと愛しい声がして顔を上げた。
そこには、崖を超えて俺の元へと飛び込んでくる紅い少女の姿。
鴉天狗の刹那さんが上空にいるので、きっと彼に運んでもらったのだろう。
そんな彼女が俺の元へ蝶々のようにひらひらと紅いマントをはためかせて飛んできた。
受け止めようとした手は空を切り、俺の手前に着地した紅子さんが、優しく懐に飛び込んでくる。怪我を労わるその仕草に、そして俺に抱きついて無事を喜ぶ彼女が、そんな彼女があまりにも綺麗に泣くもんだから、俺はその頬に流れる雫を拭う。
「約束……破ったも同然じゃないかな、こんなの、こんなに怪我して!」
「ごめん、やっぱり俺、最後まで上手くいかないな」
「まったくもう、そんなんだから、いつまで経ってもキミは不合格なんだよ」
涙声の紅子さんと額を合わせて頭を撫でる。
もしかしたらキスをするよりも近いかもしれない距離に、俺達は全てが終わったことを、そして俺が紅子さんを守りきったことを実感する。
「守ったよ、ちゃんと」
「……うん、助けてくれた。キミは初めて、アタシを助けてくれた人かな」
その言葉にどれだけの想いが込められていたのだろうか。
それは、紅子さんにしか分からないことだ。けれどそれでいい。
全てを知らなくたって、紅子さんはこの腕の中にいる。それだけで十分だった。
「お二人さーん! こっちに渡って来れますかー?」
アリシアの声が対岸の崖から聴こえて、二人で顔を逸らす。
……みんなが見ているのを忘れていた。
「ごめん! ちょっとこの距離はジャンプできない!」
声を張り上げて伝える。
「ジェシュに乗って戻ってきてください!」
アリシアが言うと、ジェシュがすぐさまこちらへやってくる。
「おめでとー」
適当そうに言うジェシュに苦笑して、二人でその背中に乗る。
対岸には詠子さんを抱きかかえた詩子ちゃんの姿も見えた。
無事に救出することはできたようだった。それを見て、俺も安堵する。
蝶々達と華野ちゃんの周りには無数の骸骨がサラサラと崩れていく光景が広がっている。どうやら透さんが退治した小蜘蛛達も天へと登って行っているみたいだな。
辺りには迫る夕闇と、静けさが取り戻されている。
これが何十年も猛威を振るっていた神様……祟り神の最期だった。