勿忘草の呪い
昼食後、俺達は食堂に集まったまま人形を取り囲んだ。
「……やろう」
静かに俺は手を伸ばす。そして、人形に触れて目を閉じる。深く、深く、闇よりもなお深く。その深層に沈み込むように。とろりとした感情の中に入り込むように。
そうして、俺は人形の中に二つの感情と記憶が渦巻いていることを知った。
手を伸ばす。触れる、そして受け入れて視線を向けた。
暗い月夜でも全てを見透すように。隠された真実を、そっと見つめた。
沈んでいく、どこまでも。まずは詠子さんの想い、それから詩子ちゃんの想いを視るために。
そして――
◆
「ねえ、ねえさま。いかないで」
「……」
その日、わたくしは一度だけ弱気になってしまいました。
姉様はツンと冷えたような瞳を柔らかくして、わたくしを見つめてくださいます。なにもかもを、未来さえも見透かしたその瞳に、わたくしはどうしようもないほどの畏れを抱いておりました。
わたくしだけに向けるその優しい瞳に、縋り付きたくなってしまったのです。
姉様とわたくしに似せて作ったお人形が、抱いた胸の中で軋みました。
それはまるで、わたくしの心そのものが悲鳴をあげているようでもございました。
「詠子、なにを泣いているんだい?」
「…………だって」
「いいかい、詠子。どこへ行ったって、見えなくたって、私はお前のお姉ちゃんだよ。お姉ちゃんは妹を守るものだ」
優しいお言葉。優しいお声。
その全てがこれから失われていくのです。
神様然とした姉様は、本当の神様に成られるのです。
けれど、わたくしは我儘な女でした。姉様のお着物の裾を掴んで、無遠慮にも程がないほど、みっともなく声をかけました。
「でも、見えなかったら、分かりません」
「そうだね、そうしたら、心に思い浮かべてごらん? 私の顔を、声を、言葉を。お前の心の中を覗いてごらん? そこに、必ずあるはずだよ」
姉様の言うことなら、そうなのでしょうか。
ただ頷いて、わたくしは目を伏せました。
「詠子は心配症だね。ただちょっとお祈りをしてくるだけだよ。今までとほとんど変わらない。そうだろう?」
「……うん」
姉様は未来を見据えることのできる唯一のお人です。人の肉体を得てしまった、神様なのです。窮屈なその立場を続けさせるのはあまりにも酷だとみんなが言いました。だから、わたくしもそれに従うより他はなかったのです。
「ずっと、君を守るよ。私が、ずっと。だから安心おし」
「うん……うん」
「約束だよ。私を、忘れないでくれ」
「うん、約束する。ねえさまを、わたくしは忘れない」
忘れません。決して忘れません。貴女のことを、わたくしは忘れたくありませんでした。だから、祠の前で耳を塞ぎたくても、目を逸らしたくても、ずっとずっと貴女の最期まで見届けたのです。
わたくしは、ねえさまの妹だから。
――もしかしたら、本当に神様になれたら……守りたいものを、全部守れるのかもしれないね
――どうしましたか? ねえさま
――いいや、詠子。君の白無垢姿を見るまで私はいなくなるわけにはいかないな、と思っただけさ
――……そう、ですね。そんなときがくればいいのに
――そんな暗い顔はおやめ。大丈夫だよ、君のことは私が守るから。きっと、きっとね。君の未来は明るい。予知のできる私が言うのだから、本当のことだよ
思い出が、あの人との思い出が頭の中を駆け巡りわたくしを苛んでいても、決して忘れることはないと、そう思っておりました。
ずっとずっと忘れることはないと、そう思っていたのに。
それが、わたくし「詠子」の、願いだったというのに――!
◆
……あの子には、「私」が見えない。
人形があるからだ。村の人に教えられて作った人形が。私はあの子が見えるけれど、本当の意味で干渉することはできない。
「私は、白瀬詩子。あの子の姉。そして、神様だ」
言い聞かせるようにしてその言葉を唱える。
もうほとんど融けて消えてしまった記憶だけれど、大切に思っていたあの子の手を取って助け出したことには、自分自身でも驚いた。
あのとき以来、あの子にもう一度触れることはできなかった。
でも、それでいい。きっと、それが前の私の望みだったはずから。
「ねえ、心って、どこにあるのでしょうか」
あの子は祠に来て、よくそう言っていた。
私が見えないくせに、私に語りかけるように。
「心とは、いったいどこにあるのでしょうか、ねえさま」
泣きそうな顔で、いつも同じことを言うものだ。
私を見ることも、私の声を聞くこともできないくせに。
「心とは、どこにあるのでしょうか」
「なぜ、あなたは心のありかを知りたいのでしょう」
「え……」
思えば、あの子にその理由を尋ねる者などいなかった。
それが新鮮だったのだろう。あの子はとても、とても驚いていた。
「私、わたくし……ねえさまと、約束したんです。忘れないって」
その言葉に、目を見開く。
もう、私は覚えていないことだったから。
「忘れないって、言ったのに。どんどん溢れ落ちていくんです。触れてくれたときの温かさも、ねえさまの声も、わたくしが年を重ねるたびに剥がれ落ちていくんです。それが怖くて、怖くて仕方ないんです。心の中にあるはずなのに、それが分からない。だから、心はどこにあるのでしょうかと、わたくしは人に聞かずにはいられないのです」
男は、それを聞いてあの子を抱きしめた。
「心なら、一緒に探せます。きっと、だから、諦めないでください。だから、おれにもそのお手伝いをさせてほしい。あなたのそばで、ずっと探すお手伝いを」
「なにそれ……告白、ですか?」
「そうかも、しれません」
「ふ、ふふ……あなたが初めて、理由を聞いてくれた人ですよ…………あなたとなら、探せるかもしれない。ええ、ええ、藤代……樹貴さん……でしたよね。その、わたくしのお手伝いを、してくれますか」
「おれがこれを言うんですか? はは、いや……はい、よろこんで」
嬉しかった。
悩むあの子にやっと幸せの時間がやってきたのだと思えたから。
欲を言うのなら、私のことなど忘れてしまえばいいと……思っていたけれど。
「結局、わたくしは忘れてしまった」
「あなたは悪くなんてない」
「あなたと同じ時を過ごして、あなたとの思い出が多すぎた」
それは降り積もる花弁のように。静かに、ゆっくり、ゆっくりと雪を溶かしながら積み重なった愛情。それは確かにあの子にとっては、心に染み渡っていく甘美な毒だったかもしれない。
生前、欲が出て言うことのできなかっただろう「わすれて」を言わずに済んだ安堵と、ほんの少しの寂しさ。
それもやがて消えるだろう。生きている者の記憶は降り積もるもの。
そして、私の記憶はいつか融けてなくなる雪のようなものだ。
だからだろうか、祠の頭上にある桜に憧れていた。
ずっと、ずっと。ひとりで村の顔ぶれが変わっていくのを眺めながら。
「樹貴さん、わたくし、この子には人形を作らないことにしたの」
「そうか」
「村の子がね、まだ人形を納めていない子がねえさまを見たと言っていた。だから、この子にはしがらみなんてなくしたい。そして、わたくしの我儘だとは分かっているけれど、ねえさまをひとりにしたくないから」
「構わないよ。あなたの好きにしておくれ。俺は、そんなあなたを好きになったのだから」
「未だに心がどこにあるのか、分からない。でも、わたくしは後悔だけはしたくないから」
妹の子供が私を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
子が、私と遊ぶところをあの子はずっと見ていた。眩しそうに目を細めながら。
やがて、あの子が果てるときが来た。
すっかりと姿の変わったあの子をそれでも私は愛している。
子の未来も、そしてその子孫も、ずっとずっと私は見守り、そして伝えていく。この予知の力を使って。きっと守ってみせる。
「こわい、です。樹貴さん」
「俺が、ずっと覚えてる」
まるであのときのような約束を交わして果てるあの子を見送る。
その魂は僅かな陰りを見せながら、神社へと向かっていく。
思わず伸ばした手をすり抜けて、あの子はその中へ。
――わすれてしまう
――わすれてしまうのがこわい
――わすれられてしまうのがこわいの
――ねえ、こころって、どこにあるの
迷いを抱えたそれを、あの子自身が作った人形が掴んだ。
「なっ」
神社の中で手を伸ばした私の体が押し戻されていく。弾き出されていく。あの子を置いて、ひとりだけ置いて。
――わすれたくない
「……っ――」
あの子の名前を叫ぼうとして、愕然とする。もはや名前さえ思い出せなくなっていた己に。
――こころを、さがさないと
――さいしょは、こころを、みつけてくれるといったあのひとのからだ
あの子の愛した人が崩れ落ちる。あの子の手によって。
――おもいださなくては
――そのためには、あつめなくては
親しかったものから、順々に。
――ねえさまのこえをきいた、そのみみを
――ねえさまのすがたをみた、そのめを
――ねえさまにふれたことのある、そのてを
やがて村の人々が神社に逆さまの縄を張るまでそれは治ることはなく。
あの子自身が甚大な災害となってしまった。
――おもいだせない
――まだたりない
――こころをあつめないと
――あなたは、こころがいずこにあるのかしりませんか?
そして、あの子自身が私の存在を喰らい始めた。
〝災害の予知をお知らせする神さま〟から〝心を知らぬ神さま〟へと信仰が移り変わっていく。
人々は、より恐怖の強いものを鎮めるために、私の存在に穴を開けた。
もはや私にあの子を止める術はなく、剥がれ落ちる記憶は雪解けよりも早く、焼かれるように消えていく。
神さまであったことすら忘れてしまったとしたら、私はどうなるだろう。
分からないからこそ、怖い。
あの子を守ると約束したのに、私にそれが成せそうにないことが怖い。
いつか同じ感情を抱いた気がする。
その感情。
剥がれていく。燃え尽きていく。
「忘れないでくれ」という私の願い自体が、あの子の鎖となり、楔となり、しがらみとなって絡めとっていく。
……それはまるで呪いのようで。
「やめてくれ――。やめて、お前がお前でなくなってしまう」
名前を呼べたら、違ったのだろうか。
名前を私が思い出せたら、あの子を救えたのだろうか。
忘れたくない。
忘れたくないよ。私だって。
いつか、いつか、あの子を救うことができるのならば、そんなときがくることがあるならば、私は……
そんな願いを抱きながらも、私は己を食い尽くすあの子の力を振り払うことなんてできなかった。
いつか、いつかそのときがきたならば。
どうか私の願い、叶えてください。
どうか、かみさま。




