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呪い

 一年生の頃である。その高校にはいじめが存在していた。

 と言っても、いじめられている生徒は見も知らぬ人間で、一人読書をして有意義な時間を送る紅子には対岸の火事。関係のないことだった。


 二年生の折、未だ続くいじめに暇な奴らだななどと感想を抱くくらいで、やはり紅子の日常には関係がなかった。

 彼女自身が一人を好むこともあり、ほどほどの付き合い程度しかなくとも、クラスでは成績優秀の生徒だ。挨拶をされれば微笑みを返し、話しかけられれば会話する。普段は読書趣味で一人を好む地味な優等生。


 ――それが紅子の称号だった。


 その日常が変化したのは、高校二年生の生活も半ばになった頃。

 彼女は始めて、いじめの現場に遭遇したのである。


「少しはやめたらどうかな? まったく、その暇を分け与えてほしいくらいだよ」


 ほんの少しだけの正義感。

 ほんの少しだけの出来心。

 ほんの少しだけの優しさ。


「……余計なこと、しないでよ」


 ただそれだけだったのに。


 いじめられっ子は助けられたのにもかかわらず、彼女を酷く拒絶した。


「……そう」


 慰めに伸ばしかけた彼女の腕は降ろされ、ぎゅっと握られる。


「それは、悪かったね」


 表情を削ぎ落として、紅子は素っ気なく言い。そこを去る。


「紅子……さん」


 その背中をただ一人、透明な青年が見つめている。

 この記憶の中の世界で、彼――令一は眉を顰めてその姿を見守っていた。


 ――親切心なんて、出すんじゃなかった。悲しかった。でも、それを隠した。


 紅子の声が響き渡る。

 悲痛なその声に、令一はなにもできずに唇を噛んだ。


 場面が切り替わる。


 次の日から、いじめのターゲットが紅子に移っていた。

 助けられた少女からは礼もなく、むしろ煙たげにされる始末。


 しかし、もしや件のいじめられっ子はマゾヒズムを楽しむ人種だったのかと考察する余裕があるくらいには、彼女はいじめのターゲットにされていても余裕綽々でいた。


 一人でいることはむしろ歓迎し、陰口には堂々と皮肉り、荷物は常に持ち歩き、替えを毎日準備し、まるで意にも介さぬという態度を貫いた。

 多少傷ついたとしても、彼女はあまり顔に出す方ではないために気づかれない。

 なにより、元から精神面が強かったのだ。


 ――でも、傷つかないわけじゃない。


「うん、そうだな。紅子さんは意外と泣き虫だからさ」


 ――全部、全部、隠して強がった。そうしたら、状況は余計に悪化していた。


 そう、その強さこそが加害者達を煽り、本格的な火をつける原因となってしまったのは必然だっただろう。


 場面が切り替わる。


「っく、やめっ、やめて!」


 珍しく声を荒げる紅子は髪の毛を掴まれ、引き倒され、そうして複数の人間に鋏を向けられている。

 普段は隠された、その怒気を含んだ声に面白がった生徒達が笑う。


 そうして、とうとう、彼女を押さえつけて無理矢理髪を切るだなんて事件まで起こった。


「……あ」


 片方の前髪が切られる。無理矢理に。

 落ちていく黒髪を見つめながら彼女は呆然と呟いた。

 しかし、それも一瞬の出来事である。次の瞬間には表情を消してなにも言わずに走り去る。


 そんな事件があった翌日も、そして翌々日も彼女は気丈に振る舞い、まるで気にしていないかのように振る舞った。


 ――本当は、泣き出したかった。誰かに、助けてほしかった。でも、そんな〝余計なこと〟をしてくれる人なんて、いなかった。


「……」


 歯を食いしばり、令一は拳を握りしめてその光景を見守り続ける。

 これは記憶の光景にしか過ぎない。彼女を助けることなど、できるはずがなかった。


 助けようと手を伸ばしても、その手はすり抜けてしまって助けを求める彼女に届かない。


 誰もいないところで泣きじゃくる彼女を、触れられないと分かっていながら彼はただ空気を抱きしめるように、抱いた。

 彼のことを紅子が知覚することなどないと、分かっていながら。


 ――分かっている。分かっているんだよ。


 声を上げて泣く彼女に、令一は血が出るほどに手を握りこみながらなにもできぬ己を悔いた。


 ――優しさは、罪なんだって。


「違う、違うよ紅子さん。優しさは罪なんかじゃない」


 ――優しくしても、それは利用されるだけなんだって。


「そんなことはない。優しいことに罪はない。紅子さんはなにも悪くなんてないのに!」


 ――だから、〝優しい〟なんて大っ嫌い。


「紅子、さん……」


 ――〝優しい〟は嫌い。縋りたくなってしまうから。利用したくなってしまうから。泣きつきたくなってしまうから。だから、だから嫌いなんだ。


「誰かに縋ることは悪いことじゃない。泣くことは悪いことなんかじゃない。お願いだから……そんな悲しいこと言わないでくれよ……」


 悲痛な彼の想いは、目の前の少女には届かない。


 場面が切り替わる。


「あ、あのね。赤座さんすごいね。全然めげないんだもん。だからね、謝ろうと思って……その、他の子に見られると私まで、その、またいじめられちゃうし……私弱いから。赤座さんみたいに受け流すのなんて無理だからさ……」

「で、選んだのがトイレねぇ。それこそ人が来るかもしれないけれどいいのかな?」


 不敵な笑みを顔に貼り付けた彼女の、その目の前に立っているのはかつて彼女が〝助けた〟いじめられっ子であった。


「だ、大丈夫……大丈夫、大丈夫」

「なにか文句でも言われるのかと思ったけれど……謝罪、ねぇ」

「そ、そう! ごめんなさい。助けてくれたのに、無視なんかしたりして」

「それで? アタシがキミを許せばはい終わり。ハッピーエンドってなる魂胆かな。その謝罪ってさ、〝謝りたい〟んじゃなくて〝許してほしい〟んだろう」

「え、一緒でしょ……」

「ううん、違うねぇ。結局アタシの意思は関係ないんだよ。キミが、キミの自己満足で謝りたいだけ。アタシを言い訳に使わないでくれるかな? そういうのは嫌いなんだよ」


 いつもの持論。彼女なりの譲れない一線。

 皮肉を交えて強がる紅子が背を向けた。その顔を、悲しげな顔を見せないようにと。誰にも知られぬようにと。


 そうして背を向けたのが間違いだったのだろうか。

 鬼のような形相をしたそのいじめられっ子は、反射的に彼女の背を突き飛ばした。


 強く、強く、強く。


 ――殺意すら込めて。


「なっ」


 ぐんっ、と勢いのままに紅子は窓を割りながら落ちていく。


 そんな様子を見ていたらしい他の女子生徒がいじめられっ子に駆け寄り、よくやったと励まそうとしていた。


 ――ああ、そっか。そんなに嫌われていたんだ。アタシは、いらないんだ。


 落ちていきながら、少女は目を瞑る。


 ――アタシはあの子が踏ん張る機会を〝奪ってしまった〟から、よくなかったんだ。なら、もう一つくらい奪ってもいいかな? 


 奪われるのが嫌いだと。普段から言っている彼女が、死の間際だというのにうっすらと笑う。今際の時にまで強がってみせる紅子に、令一は自分のことも構わずに窓から飛び降りて追いすがった。


 たとえ記憶でも、たとえ幻でも。彼女を一人にしたくないからと、その手を伸ばす。


 それに気づくことのない紅子は、頭上の割れた窓を見つめながら自嘲した。そう、〝生〟ですらも、他人に奪われたくない。自分の手で。だからこそ、彼女はガラス片を手に取る。


 同時に──


「キミの罪もアタシが奪ってあげよう。精々後悔して泣けばいいんだ」


 〝赤座紅子を殺した〟という、その罪を奪い去った。


 ――自殺という形で。


 永遠に本当のことも言えず、贖罪することもできず。そうして生きていくようにと呪いをかけた。


 故に紅子は他人に選択肢を与える。

 その選択肢を奪って〝余計なこと〟をしないために。


 ――余計なこと、しないでよ。


 それこそが彼女を縛る鎖。彼女を蝕み続ける呪い。

 優しさを罪だと断ずる彼女の……心に刻み付けられた傷痕なのであった。

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