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此岸と彼岸の境で

 さざ波の音が響いている。

 気持ちの良い風が俺を撫ぜていく。


 ゆるりと目を開くと、そこは暗い、暗い場所だった。


「ここ……どこだ?」


 さわりと耳元をクローバーが擽ぐる。

 体を起こせば、俺が横たわっていた場所にはクローバーが群生していた。

 俺の周囲だけにあるクローバーに優しく触れて、周囲を見回す。


「川……」


 眠っていたときに感じたものとは違い、今度は生温い風が頬を撫でる。

 近くの川からはなにかが泳ぐようなさざ波が立っており、遥か天から落ちてくる雫によって小さな波紋が広がっていた。


 遠くを見れば、一本だけ灰色の枝垂れ桜が揺れている。


「まさかとは思うが、三途の河……か?」


 薄暗い世界。しかし不思議と視界は開けていて、暗闇の中で目が見えない不自由を感じるわけでもない。

 こんな不思議な場所で川といえば、思い当たるのは三途の河くらいだ。

 そう、前に紅子さんと話していた三途の河である。


 もしかしたらジョーズとかやばい魚がうようよいるかもしれない、あの三途の河だ。


「……俺、死んだのか?」


 呆然として結論を呟いた。

 三途の河にいる理由と言えばそれくらいしか思いつかない。

 せめて瀕死の重傷程度であってほしいが……いや、それもそれでどうなんだという話だが。


「左肩……痛くない」


 それはそうだ。ここは現実ではない。

 左肩を思い切り刺し貫かれた傷痕も、苦しみも、なにもかも失われている。



 ――嫌だ……やだよ、やめてよ令一さん……! アタシが、アタシのせいで……! 



 いや……失われてなんか、いない。

 泣きじゃくる彼女の姿が目に焼き付いている。

 悲しんで、心配して、どうしてそんなことをしたのかと怒りを乗せた声が、表情が、その全てが心に情景として刻み付けられて忘れられない。


 嫌われたと思っていた。

 もう、嫌われてもいいから守りたいと願った。


「守れたかな」

「守れてなんか、いないさ」

「っ誰だ!?」


 突然聞こえた声に振り返る。

 そして息を飲む。


「あお……なぎさん?」


 信じられないものを見るように、死者になったはずの彼女を――青凪(あおなぎ)(しずめ)の名前を呼ぶ。


 青みがかった黒髪。見覚えのある顔。忘れられるはずもない顔だった。

 あのときと違うことと言えば、彼女が真っ白な着物を着てトレードマークだったキャスケット帽を被っていないことだろうか。


「貴方は守れてなんかいない。そうだろう? お兄さん」


 あのときのままに、青凪さんが笑う。

 しかし彼女が死者であることはその着物の合わせが逆であることで示されていた。


「そうだな……俺は紅子さんの心までは守れてなんていない」


 頷いて、自嘲する。

 まさか、ここで彼女が出てくるとは思っていなかった。

 もしかしたら俺の都合の良い妄想かもしれないが、向き合うべくして向き合うものなのだろうと、正面から真っ直ぐと彼女を見つめる。


「君がいるってことは、やっぱりここは三途の河なんだね。でも、どうして君はあっち側に行っていないんだ? もう……随分と前のことなのに」


 そう、青凪さんが死んだのは、一年近くも前なのだから。


「誰かさんがいつまで経っても悔やみ続けているから、私も安心して遊覧船に乗ることができなかったのだよ」


 皮肉。いや、事実か。

 やはり彼女は紅子さんと似ている。おかしいな……前は青凪さんに紅子さんが似ていると感じていたはずなのに。こうして向き合うと、印象が逆転している。それだけ紅子さんのことを俺は……。


「さっさと(がい)達の元へ行こうと思っていたのだけれど、私だけはどうやら行き先が違うらしいからね。少しだけ死神に待たせてもらっていたんだ。河を渡り始めなければ、後戻りさえしなければここに佇んでいても罪には問われないという話だったから」


 穏やかに凪いだ瞳。

 彼女が他のメンバーとは行き先が違うとするのならば、それは彼女が自殺だったからか。俺が潔く介錯していれば、彼女も天へと昇れたはずなのに。

 俺の覚悟不足でこうして彼女は地に落ちている。仲間と共に行けずに。


「悔やんでくれるのは嬉しいがね、そればっかりで貴方が前を向けないとなると私も心苦しいんだ」


 ああ、どこまでも彼女は優しい。

 あのときからずっと、彼女は俺の情けない行動を見ていたわけか。


「心配させて、ごめん」


 俺がそう言うと、青凪さんはゆっくりと灰色の枝垂れ桜の元へ歩き出す。

 俺もそれに着いて歩いて、彼女の言葉に耳を傾ける。


「ああそうだ、いつまで経っても私のことを引きずってウジウジしているから気になって落ち落ち眠れやしない。さっさと安心させておくれよ、お兄さん。このままじゃあ、私はいつになったらあの世に行けるかも分からないじゃないか」

「ごめん。そうだな、もう心配かけないようにするよ。見ず知らずの……あの日会っただけの俺なんかに、こんなに心配してくれるなんて青凪さんは優しいな」


 2日も一緒にいたわけではない。

 なのに、こんなにも彼女は俺を心配して、あの世に行くこともせずに待っていてくれた。そして、俺の背を押すためだけに、こうして話している。


 ――そんなの分かっていた。


「もちろんだよ。はあ、まさか我が高校に本物が混ざっているとは……できることならば生きている間に出会いたかったな。あの出来事さえなければ、私もそこにいたのかもしれないのに……」

「ごめん」

「謝ってばかりだね。すっきりしたかい?」

「ああ」


 泣きそうだった。

 トラウマと化していた出来事が、彼女の言葉ひとつひとつで解かされて行く気がしたんだ。


「貴方達の旅路はずっとずっと見ていた。ここで。だから、私ができるのは貴方の背中を押すことだけだ」


 灰色の枝垂れ桜は風もないのに揺れている。

 その下に立って、青凪さんは笑う。


「私はもう退場するべきだ。むしろ、そうしてほしい。さっさと船旅に出たいんだよ。未練を残させるような物語を見せるんじゃない」

「ああ」


 強い瞳で見上げられて頷く。


「ほら、まだ彼女は泣いている。好いている人が泣いているんだ。抱きしめに行かないでどうする? そんなの男じゃないだろう」


 虚空を見つめながら彼女が言う。そこになにが見えているのか、俺には分からない。


「青凪さんって結構言うな」

「何ヶ月この退屈な河原で待たされたと思っているんだ。なんにもないんだぞ? この地獄の退屈さを早く終わらせたいんだ」

「……そっか」


 わざと強く言いながら、彼女は俺の背を少しずつ押していく。


「この枝垂れ桜の下に湖があるだろう。ご覧、さっき言った通りだ」


 灰紫色の水面を覗く。

 そこには、子供のように泣き声をあげる紅子さんの姿があった。


 ――分かってるよ、アタシのせいだって。分かってるよ、令一さんならそうするって。でも、アタシはなんにもできなかった。体が動かないことに、恐怖で押し潰されそうになって……思い浮かんだのは令一さんの顔だった。


 俺の腕を額に押し当てて泣きじゃくる。

 そんな、いつもならありえない光景。しかし、それこそが彼女の真実で。


 ――ごめん、昨日は、アタシもどうかしてた。キミにだけは見られたくなかった。キミにだけは知られたくなかったことを見られて、感情的になってた。


 いろんな感情が複雑に絡み合い、ぽろぽろと涙を零しながら震える声で言っている言葉。


 ――……謝らせてよ。起きて、謝らせてよ。お願いだから。ねえ、令一さん……っ、お願い、生きて。アタシを独りにしないでよ……我儘だなんてっ、分かってる。都合がいいことなんて、分かってる。でも、キミには、キミにだけは生きていてほしいんだよ! 


 俺の無事を祈る紅子さんの姿。

 誰も聞いていないからと、素直に、そして早口に本音をぶちまける彼女に眼を見張る。


 ――どうして、アタシはこんなに弱いの。キミのことになると、まるでダメなんだ。アタシ、こんなに泣くような人間じゃなかったのに……っ! 


 ああ、抱きしめに行かないと。

 泣かないでくれと、言いに行かないと。

 泣くならば、どうか悲しみではなく嬉しさであってほしいと、じわりじわりと彼女への想いが込み上げていく。


 今すぐにでもあの子を、愛しいあの子を安心させてあげたい。

 どうか泣かないでと。俺は大丈夫だからと。


 戻らなくては。

 今すぐに戻らないと。


 そんな気持ちばかりが込み上げて水面に手を伸ばした。


「わっ」

「それじゃあ、さようならお兄さん。貴方はゆっくり、ゆっくりと、そうだな、あと最低でも80年くらいはゆっくりと楽しんで、それから死ねばいいんだ」


 背中を押された。

 水面に顔が近づいていく。


 その背後で、青凪さんの強い声が響いていた。


「むしろ、二度と来ることもないかもしれないね」


 最後に青凪さんがどんな顔をしていたのかは分からない。

 けれど、きっと彼女も無事に船旅に出ることができるだろう。


 そのために、俺は更に強い決意と共に水の中へと手を伸ばした――

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