鴉の監視役
「俺ァ、荒事は苦手なんだよなぁ」
上空で鴉が呟いた。
そうして懐から取り出した光の球を放り投げる。
〝雷獣の足音〟を込められたその道具は、彼――刹那が萬屋店主から直々に渡されていたものだ。
刹那は鴉天狗ではあるものの、彼の出身の里は草食主義で里全体が戦闘能力皆無であった。幻術やら上手く飛ぶための風向き操作などはお手の物だが、それはとても殺傷力があるとは言えない。
彼自身は里の中でも幻術が得意なほうだった。
そのために令一の心臓を狙う爪を逸らしたのも、彼の咄嗟に行った幻術が巨大な蜘蛛に作用したからであった。
逸らすと言っても、咄嗟の出来事だったためにそこまで強く作用したわけではなかった。故に令一は左肩を刺し貫かれて大怪我を負っている。
早めに救助にいかなければならなかった。
バサリ、バサリと羽ばたいて一直線に彼らの元へ。
「奴らの目は潰したぜ! 旦那方、今のうちに資料館のほうへ逃げるんだ! いいかい!」
もって数分。
焦りを感じながらも刹那は、彼らの場所から少しズレた上空から声を上げた。
目は潰していても声で居場所がバレてしまったら意味がないのである。
しかし、見るからに令一は気絶しているし、紅子はそんな彼から離れはしない。事前に透やアリシアを資料館に誘導していたのが仇となり、救援に来るのが遅れた結果であった。
「あるじちゃんはオレがはこぶ。いくよ、せっちゃん」
焦れったい状況に刹那が悩んでいると、人型に変化したリンから声がかかる。
令一が気絶して見ていない状況だからこそできることだった。
リンの黄色い向日葵のような瞳は、静かな怒りを載せるように細められている。今すぐにでも蜘蛛共をめちゃくちゃに屠りに行きたい。
……そんな瞳をしながら、感情を抑えて令一をその小さな体で軽々と抱えた。
「ああ、小さいアル殿……じゃなくってリン殿。頼むぜ。あんたもこっち来な! あとの二人が資料館でお前さんらが無事に帰ってくんのを待ってるぜ!」
こうして令一と紅子は、霧に沈む森の中から一時退却するのであった。
◆
「鴉のお兄さん、いつから見ていたの?」
資料館に辿り着き、ひと息ついたところで紅子が呟いた。
「俺かい? 最初っからだよ。アル殿に頼まれたんでね。なにかあったら手助けに行けってさ。俺ァ、荒事に向かねぇのに、まったく無茶言ってくれるぜ」
やれやれと首を振る彼に「そっか」と紅子が俯く。
令一は気絶したまま、未だに目を覚まさない。そんな彼を涙を乗せた瞳で見ながら、紅子は悔しげに唇を噛んだ。
「アタシのせい。アタシが外に出るなんて〝余計なこと〟をしたから……っ」
「それは違うぜ、昨日も似たようなことがあった以上、ここにいる全員が同じ行動をしただろうよ。だからな、迂闊だとは思っちゃいねぇさ」
「令一ちゃんもね、てひどくやられちゃったけどさ、いままでいじょうにがんばってたよ」
令一の負担にならないように姫抱きにしたリンが朗らかに笑う。
まるで紅子を責める様子のない彼に、紅子は眉間に皺を寄せる。
「せめてほしいの?」
「……いや、それはアタシの自己満足にしかならない」
「わかってるなら、だいじょうぶだね」
いつも紅子が令一に言っていることである。
今ここで責任を問われたとしても、令一が許している以上、彼女にとって〝責めてもらう〟ことは自己満足の逃げにしかならないのだ。
「令一くん!」
「紅子お姉さん!」
廊下の奥から透と、黒猫を抱いたアリシアが姿を見せる。
二人はそれぞれの無事を確認すると、ひとまず安堵したように息をついた。
「酷い怪我だね……」
「悪ぃな。幻術で狙いを逸らしたはいいが、回避させられるほど上手くはいかなかったんだ」
「いえ、十分ですよ。左肩……ということは狙われたのは心臓、ですよね?」
「ああ、どうやら奴さん、旦那のことが目障りだったみたいでな」
「なら、命があるだけ儲けもの……だね」
透が眉を下げて言った。
そうして、一同は令一の泊まっていた部屋を目指す。
「それと、奴さんの落としたこれも回収しといたぜ」
刹那が懐を探り、令一が最後の一撃を放った際に落ちた組紐と鈴を見せる。
それは詩子のつけているものと似ているが、異なるものであった。
「そうだ、詩子ちゃんはこんな状況で無事なの?」
「ああ、あの白い子は、奴さんが大手を振って歩き回っているときにゃ祠の外に出てこれなくなるみてぇだなぁ」
上空から観察していた鴉の見立てである。
気配を消してさまざまなところへ情報を集めに行く彼には、観察癖がついていた。故に、推測は可能である。
「今日は霧が晴れそうにもねぇな。というより、奴らがまだあんたを探している」
刹那の視線の先には、紅子。
姿を見られた以上、蜘蛛の標的となった彼女は期日関係なしに狙われる立場となったのだ。
彼女はそんな視線を受けて俯く。
「この、資料館は安全なのかな?」
「うん、窓さえ空いていなければ蜘蛛がここに入ってくることはないって華野ちゃんも保証してくれたよ。他の家屋もそう。〝注連縄〟があるからだって」
代わりに答えたのは透だ。
侵入を阻む注連縄がある場所には、おしら神は入ってこれない。
先日の夕方、令一が蜘蛛に噛まれたのは窓が開いていたからであった。
「そっか……」
「お姉さん……」
明らかに落ち込んでいる紅子を、アリシアが心配そうに見上げる。
彼女の瞳には重傷を負った令一のみが映されていた。
「ところで、アルフォードさんみたいなその子ってもしかしてリンちゃん?」
「あ、あたしがなにも言わなかったことを……」
透が我慢できずにリンを見遣る。すると彼は令一を抱えたまま笑顔で返事をする。
「そう、オレだよぉ。あるじちゃんが、いつもおせわになってるね。でも、れーちゃんにはないしょ。ないしょなんだからね? わかった?」
「なにか事情があるんだね……そっか。今度令一くんがいないときにお話するのは可能かな?」
どうしても好奇心を抑えきれない彼に、リンは苦笑いをしながら快く返事をする。アリシアはそんな二人のやり取りを見ながら、小さく「重たい空気が変わりました」と呟いていた。
令一が泊まっている部屋に辿り着くと、リンがベッドに彼を横たえる。
隣で透が救急セットで応急処置をしながら令一の容態を見るが、彼は起きる様子がない。
「ちょっと熱も出ているね。蜘蛛の毒でも回っているのかも……? 爪で刺されたんだよね? そっちにも毒があったのかも。俺ができるのは応急処置だけだから……腕を固定して薬を塗るくらいしかできないんだけど……」
「きれいにかんつうしてるね。ほねはさいわい、ぶじみたいだけど」
リンが眉を顰める。
これでは両手で赤竜刀を握って戦うことができない。
「せっちゃん、ちょっとひとっとびして、オレのところから、ちりょうようのどうぐを持ってきてくれない?」
「ったく、無茶言いやがる。だが、リン殿の頼みなら仕方あるめぇな。分かったよ。ちょっくらひとっ飛びしてくるぜ」
「ボクが一時的に憑依するっていうのは?」
「ジェシュはだめ。れーちゃんをこれいじょう、にんげんからはずさせるわけにはいかない」
黒猫が含み笑いと共に提案した策はリンによって一蹴される。
それに素直に引き下がり、ジェシュは「ちょっとした親切心だから怒らないでよ」と不貞腐れた。
「ナチュラルにじゃしんっぽいことを、いわないでよ」
怒ったように睨むリンに、ジェシュはふいっとそっぽを向いて黙りこむ。
アリシアはそんな彼を困ったように見ながら「ごめんなさい」と謝った。ペットの不始末は彼女の責任になるのである。
「あの、さ」
ベッドに横たわった彼の手を握りながら、紅子が声を出した。
「しばらく、二人にしてもらっても、いいかな?」
つっかえるように言う彼女にリンは刹那と目を合わせる。
「俺はどっちにしろ今から出かけるからなぁ」
「じゃ、オレは赤竜刀のじょうたいでいようかな。まんがいちがあるから、よこにたてかけておいてよ」
リンにとっては、そこが妥協点だった。
「俺達は隣の部屋にいるよ。華野ちゃんに言って、あったかいココアを作って待ってるよ」
「あたしもですね。刹那さんが拾ってきた組紐と鈴について、なにか分からないか調べてみます」
快く紅子の願い事を受け入れ、透とアリシアが部屋を出る。
「なにかあったら教えてね?」
「お姉さんも、あんまり思い詰めちゃだめですよ。そんなことしてたら令一お兄さんに心配されちゃいますから」
部屋の扉が閉まる。
「それじゃあ、オレはねてるからね。なにかあったらよんで」
ベッドの横に赤竜刀が立てかけられる。
「そばにいてやんな。そのほうが早く目を覚ますだろうからな。あと、俺が出たら窓を閉めてくれよ」
そして鴉が一羽、窓から霧の空へと飛び立っていった。
「分かってるよ、アタシのせいだって。分かってるよ、令一さんならそうするって。でも、アタシはなんにもできなかった。体が動かないことに、恐怖で押し潰されそうになって……思い浮かんだのは令一さんの顔だった」
窓を閉めて、一人涙を落としながら紅子が言う。
ベッドに眠る令一の腕を握り、額に押し当てながら彼女は懇願するように、祈るように、次から次へと溢れ出る玉のような涙をそのままに泣く。
「ごめん、昨日は、アタシもどうかしてた。キミにだけは見られたくなかった。キミにだけは知られたくなかったことを見られて、感情的になってた」
静かな部屋で、彼女の贖罪だけが響き渡る。
「……謝らせてよ。起きて、謝らせてよ。お願いだから。ねえ、令一さん……っ、お願い、生きて。アタシを独りにしないでよ……我儘だなんてっ分かってる。都合がいいことなんて、分かってる。でも、キミには、キミにだけは生きていてほしいんだよ!」
嫌われたくない。
令一にだけは、嫌われたくない。
そんな想いがぐるぐると巡りながら紅子は泣きじゃくる。
「どうして、アタシはこんなに弱いの。キミのことになると、まるでダメなんだ。アタシ、こんなに泣くような人間じゃなかったのに……っ!」
そこに佇むのは、一人の泣き虫。
長年抑え込んできた感情を発露した、ただの一人の少女であった。
彼はまだ、目を覚まさない。