霧中の蜘蛛糸
朝、俺はまた叫び声で目を覚ました。
素早く身を起こし、リンを肩に乗せて扉を開く。
すると、近くの部屋から同じく飛び出してきた紅子さんと視線がかち合う。
紅く、鋭い。温度のない瞳が俺を一瞥してから、すぐさまふいっと逸らされる。
そして彼女は無言のまま、ポニーテールを揺らしながら駆け出して行った。
なにも、言葉が出なかった。
なにも言えなかった。
いつもと違って、温度のない瞳。
興味のないものを見たような、そんな冷たい視線。
視界の端で、紅子さんの菫色のリボンが角を回ってひらりと翻るのが見えて、口を閉じる。そして、俺も無言のまま走り出した。
恋煩い。
俺と彼女の関係も大切で間違いない。
しかし、人の悲鳴が聞こえたのだ。優先順位を違えてはいけない。
恋煩いは所詮、俺達個人の問題。今、どこかで誰かが犠牲になっているのかもしれないのだ。それを助けようともしないで悩むだけだなんて、同盟の……人間と寄り添い守る組織に属する人間として、あってはならないことだ!
リンを肩に乗せたまま、外へ。
――霧だ。
視界が白い。
狭い範囲しか周囲を伺い見ることはできないが、声の聞こえた方向へと走って近づいていく。
「ぶわっ、なんだこれ」
なにか顔にかかった気がして手を振って拭う。
おかしいな、確かになにかふわりとした感触がしたはずなんだが……なにもない。
「……いや、これ蜘蛛の巣か」
どうりで見えないはずだ。霧が深くて、余計見えにくくなっているのかもしれない。
しかし、周囲には特に樹木もなく、村の中心に向かって開けた場所にいるというのに普通、蜘蛛の巣なんかに引っかかるか?
なにかがおかしい。
なにかが。
足を止め、走るのではなくゆっくりと中心地へと向かう。
よくよく目を凝らして集中すれば、極細の糸がいくつも張り巡らされているのが分かった。それに、この糸にはどこか禍々しいドス黒い雰囲気が漂っている。
集中さえしていれば避けて通ることもできそうだった。
「紅子さんはどこに……?」
蜘蛛。
この際、候補はひとつしかない。
そうだ、これはこの村のおしら神によるもので間違いないだろう。
それならば、紅子さんの身が危ない。まだ2日も期日は残っているはずなのに、なぜ今日になってこうなっているのかはさっぱり分からないが、村の人間が誰一人として外に出ていない様子から見るに、村の人間はこうなることを知っていたのかもしれない。
しまった、その辺華野ちゃんに訊いていれば分かったかもしれないのに。
シュルルル、と細いものが空を切る音が響く。
悲鳴はすっかりと止んでいて、居場所が掴みづらくなってしまった。
こうなると、声を上げていた誰かがどうなったかなんて想像に難くない。
「……なんだあれっ」
ある家屋。
その屋根に無数の丸い影があった。
霧の中近づいていき、右手を掲げてリンを呼ぶ。
すぐさま俺の手の中で変化した赤竜刀を握り込み、浅く、そしてゆっくりと呼吸する。
動揺するな。ちゃんと真っ直ぐと見据えろ。正体を見極めろ。アレはなんだ?
――キチチチチ
屋根の上から、一体の〝それ〟が落ちてくる。
「……こいつらっ、人間の…………!」
肉の塊のようなシルエットの前方に、上向きの花のように開かれた人間の手がある。
正確には、両手のひらを合わせた状態で手首から上が開いているため、花のように見えるのだ。しかし、その手の大きさは異様に大きく、まるで水ぶくれしたように分厚い。全体のシルエットがバスケットボール大になるほどに、その手は張り詰めているのだ。
そしてその中心には頭頂部のみが砕かれた頭蓋骨が収まっており、無数の蜘蛛達はその中に心臓や脳みそを収納していた。
それから、頭蓋骨から下向きに肩口からの腕が8本、まるで蜘蛛の脚のように伸びている。地面についた指先の鋭い爪は泥が詰まり、痛々しく割れていた。
手の中に収まった頭蓋骨のその眼窩には、ぼうっと人魂のように揺れる妖しい無数の光。
……瞳、だろうか。
ちょうど8つ分のそれに想起するのは――化け蜘蛛。
しかし、こいつについた名前は『おしら神』である。
肉塊の腹に、花のように重なった手首と頭蓋骨。人間の肩口からの腕が8本蜘蛛足の代わりに生えているその姿。
おいおい、こんな化け物のどこが神様だよ。冗談じゃない。
――キチチチチ
笑うように八つの光が歪む。
やはりあれが目玉なのだろうか。
ちいさな蜘蛛を一匹残して、一斉に化け物蜘蛛が屋根から降ってくる。
「嘘だろ……」
そして屋根に取り残されたのは、無残にも内腑が取り出され、律儀に並べられた見知らぬ男性と、他よりも一回り小さな一匹の蜘蛛。
蜘蛛は男性の体にその前腕を遠慮なく突っ込み、かき回すと心臓を取り出す。
それから頭蓋骨の空いた頭頂部にすっかりと心臓を収める。
途端に蜘蛛は他の蜘蛛達と同等の大きさにまで成長し、屋根から降りて俺の前に立ち塞がった。
「残念ながら、逃すわけにはいかない」
赤竜刀を構えて呟く。
そうだ、こいつらがおしら様だと言うなら、紅子さんはどこにいるんだ?
そんな漠然とした不安が付き纏ってくる。
万が一がある前に俺がこの場で仕留める! そうすれば紅子さんも安全だし、この村の脅威は去るだろう。そう、この蜘蛛の群れさえ倒せば……!
そうして俺は、脅威はこれだけと断じて斬りかかる。
……これ以上の親玉がいることなんて、俺は知りもしなかったのだから。