八ツ目の視線
茜色の日が差し込む廊下で、俺達は自室に帰るべく並んで歩いていた。
「紅子さん、おしら様ってやつの声はもう聞こえない?」
「うん、今のところは……たまに、そうたまに視線を感じるくらいかな」
「視線?」
それは初耳だぞ。
「だから、なにか変なことがあったら言ってくれって」
「あ、えっと……ごめん。アタシもそんなに気にしてなかったから、言ってなかったんだよ」
バツの悪そうな顔をする紅子さんに、これ以上責めるのもどうかと思ってこっちも同じように「ごめん」と言ってから尋ねる。
「視線を感じるときって、どんなときだ?」
「外にいるとき……かな。特に森の中だね。感じる視線もひとつじゃなくて、複数で、いろんなところから観察されているような……そんな感じ。視線に嫌な感じはしないから、あまり気にしていなかったんだけれど……でも、お兄さんのことを怖い目で見ている気がするから、放ってもおけないし……」
「俺のことを?」
「うん、なんとなくだけれど。あまりあてにしないでよ? アタシ個人の感覚なんだし、そういう感覚はお兄さんのほうが鋭いと思っていたんだけれど……」
俺は特に異変は感じないな。紅子さんにだけ分かるなにかがあるのか?
「まあ、あまり気にするものでも……っ」
彼女の足がピタリと止まり、辺りを見回す。
もしかして、視線を感じたのか?
そう思い至ってすぐに紅子さんの肩を引き、庇うようにしながら俺も周囲を観察する。
しかし、相変わらず廊下には夕暮れの光が差し込むばかりで異変は見られなかった。
普段と違っているとしたら、窓が開いているくらいか。
「窓、開けっ放しか……いたっ」
手を伸ばし、窓を閉める。そのときに、なにかチクリとした痛みが手の甲に走った。
「蜘蛛……?」
「噛まれたの!?」
「え」
なんだ蜘蛛かなんて思っていた俺は、彼女の剣幕に驚いて口を開く。
「もうっ、お兄さんは今日の出来事すら覚えていられない鳥頭なの?」
腕に閉じ込められて、庇われた状態のまま彼女は俺の手を取り、蜘蛛に噛まれたらしい手の甲にそっと顔を近づけて……って!?
「あの、紅子さん?」
「お兄さんは黙ってて!」
そして、彼女は俺の傷口に口をつける。
ここまでくれば、さすがの俺も毒があったら困るから吸い出してくれようとしているのは分かる。分かるのだが、状況が状況だけに頭が混乱してくる。
いつも皮肉気な笑みを浮かべている小さな口。柔らかい感触。なぜか犯罪に手を染めてしまったような感覚になってくる。
数分か、それとも数秒なのか、長くて短い時間が終わると、彼女は開いた窓から吸い出したのであろう毒を吐き捨てる。口を手で拭い、そして視線を彷徨わせると女子トイレに入ってすぐに出てくる。多分、吐き捨てるだけじゃ不安で口をゆすぎに行ったんだろうな。
帰って来た紅子さんは僅かに頬を染めたまま、自分の唇を人差し指で触れ、目を伏せる。どうやら自分のやったことに、今更ながら恥ずかしくなってしまったらしい。
そんないじらしい仕草に、どうしても俺は惹かれる。
けれど、彼女がそれを隠して首を振るのなら俺は特になにも言わず、見ないフリをするしかないんだ。
紅子さんは暫くそうして余韻に浸るように目を伏せていたが、口をキュッと結んでへの字にすると、振り切れたのか俺を真っ直ぐと強い瞳で睨んだ。
「……あのね、ここの神様は蜘蛛のカタチをしているって詩子ちゃんも言っていたよね? 覚えていないのかな? ボケちゃったの?」
「いや、さっき思い出した」
あまりにも衝撃的な体験すぎて知識からすっぽ抜けそうになったが。
「さっきの蜘蛛は?」
「……もういないね。それに視線も感じない。やっぱり視線の主は蜘蛛かもしれない」
「蜘蛛、か」
紅子さんは蝶々だ。こうして考えると、非常にまずい関係だと思う。相性が単純に悪い。なにせ、食うものと食われるものだ。今の状況と少し似ている。
「でも、なんで俺だったんだろうな。それに、監視してるならいつでも襲いに来れるはずなのに」
窓を閉めながら振り返れば、彼女は考え込みながら首を傾げていた。
「期日を守っている……とかかな。それとも、なにか別の原因があるのか。いずれにせよ、蜘蛛には注意だね」
「蜘蛛を追っていけば……」
「お兄さんも変なことは考えないように」
「はい」
すぐにでも決着をつけて安心したいわけだが、まあダメだよな。
「アタシのことを心配して注意するぐらいなんだから、自分も徹底してくれないと困るよ」
「まったくの正論です……」
ぐうの音も出ない。
「ん、通知が」
紅子さんの言葉に反応して俺もスマホを取り出す。
資料室に行っていた二人からの連絡事項だった。
なんでも、重要な文献を見つけたから俺の部屋に集合だとか……って、俺の部屋?
「順番に部屋を変えて会議しているんだからいいんじゃないかな?」
「ま、まあそうか」
ということで、俺達は歩みを再開して部屋へと向かうのだった。