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深夜の密会、夜這いと温泉

 コンコン、とノックの音が響いた。


「あー……?」


 枕元のスマホを手に取って見れば深夜2時。丑三つ時というやつだ。


「こんな時間に……?」


 コンコン。さらにノックが重ねられる。

 一体誰が? そう思って、身を起こす。

 そもそも、俺達は誰かを訪ねるときにはチャットのほうで連絡を入れると決めたはずだ。つまり、その扉の向こう側には得体の知れない誰かがいるということになる。

 狙われたのが俺で幸いだったな。俺なら対抗手段はいくらでもある。ただし……油断しなければ、と付くが。

 リンと赤竜刀があれば大抵のことはなんとかなるはずだ。

 赤竜刀を鞘ごと持って、摺り足で扉に近づく。それから、扉に手をかけて……


「え……」


 するりと、扉をすり抜けて赤い、紅い蝶々が部屋に入ってきた。

 その蝶々には見覚えがある。これは彼女の、紅子さんの魂の形そのもののはずだが。


「紅子さん?」


 俺が声をかけると、紅い蝶々は宙で紅子さんの姿へと変化する。

 ふわり、と俯いたままの彼女が落ちてくる。髪の隙間から覗く表情は、なんだか不安に揺れているようだった。そんな不安そうに濡れた赤い瞳は見たことがなかった。

 そんな彼女に、同じく不安になった俺は、思わず腕を広げて彼女を抱きとめた。どうしたんだ? 着地ミスなんて彼女らしくもない。


「あ、あの、紅子さん?」


 それから彼女は困惑する俺の懐へと顔を埋め、ぐりぐりと猫のように額を押しつけてきた。


「紅子さん。どうしたんだ?」

「お兄さん、女が夜中に訪ねてくる理由なんて……野暮なことは言わないでよ」


 ほんの少し、いつもよりも細い声に心臓が跳ね上がるような心持ちになる。

 いや、からかってるんだろ? 分かってるんだからな。いつもみたいにエロネタを仕掛けてきて面白がってるんだ。そうじゃないと説明がつかないぞ。


「せっかくアタシが夜這いに来たっていうのに、お兄さんは喜んでくれないのかな」


 嬉しくないわけがない。

 が、それが真実だとも思っていない。少しは普段の行いを考えてくれよ。


「ふふふ、喜んでないわけがなかったね。ドキドキしてるでしょう。聞こえるもの」

「そ、そりゃあ……仕方ないだろ」


 なおも彼女は俺の懐で猫のように甘えているので、恐らく心臓の音も聞こえているんだろう。なんでこんなことをしているのかが分からないが、とにかく役得ではあるので、素直に騙されておこうかなと流されてしまいそうになる。


「紅子さん、なにも本当に夜這いしに来たわけじゃないだろ?」

「据え膳だというのになにもしないの? お兄さんってば本当に意気地なしだよねぇ」

「ぐっ、な、なじられるいわれはないぞ。紅子さんだって、俺が本気にしたら逃げるんだろ? 夢のゲームではいつもそうしてるって言ってたし」

「まあね。そんなことになる前に逃げるよ。今日はアタシはちょっとおかしい……ただそれだけ。急に寂しくなっちゃった猫ちゃんなのかも」


 体調を崩していたから、精神的に少し弱っている……とか? 

 あの紅子さんが? 冗談だろ。

 びっくりした態勢のまま彷徨わせていた手を、そっと彼女の頭に乗せた。頭一つ分ほど低い位置にある彼女のポニーテールがほんの少しだけサラリと動く。


「ふふふ、大サービスでしょう」

「いつもはこういうの、逃げるからな」


 クスクスと笑う彼女に困惑しながら、間近にいるその姿を堪能する。

 風呂上がりというわけでもないのに、やはり女の子だからかシャンプーのいい香りが漂っていた。


「ねえ、お兄さん」

「なんだ?」

「このまま、二人で深夜のお散歩でも行こうよ」

「今からか」

「うん、だって……令一さん、露天風呂が怖いんでしょ? 安全確認、しに行こうよ」


 その言葉にハッとする。

 彼女は、俺が華野ちゃんに詰問した理由を聞いてくることがなかった。

 けれど、なにかあるということはきちんと理解していたのだろう。あのとき俺に理由を問わなかったのは、多分俺の精神的なところを気遣ってのことなんじゃないか? 

 だからわざわざ、他の二人に聞かれない深夜に尋ねてきたんだ。


「分かった」

「ついでに一緒に入っちゃう?」


 悪戯気に笑う彼女に苦笑する。

 混浴できるものならしたいが、生憎と水着なんて持ってないし、タオルだけじゃいくらなんでもダメだろうと思ってだ。

 それと、多分俺が乗り気になっても紅子さんは一緒に入るなんてことしてくれないだろうし。


「アタシは入りたいから荷物を持っていくけどね。お兄さんは見張り番よろしく」

「って、え? 本当に入るつもりなのか?」

「うん。安全確認をするなら、入って確かめるのが一番だよ。覗きが出ないかって問題もあるけれど。その点、お兄さんなら大丈夫かなって」


 信頼されているようでなによりだ。


「だってお兄さんヘタレだし、覗きなんて大胆なことできないでしょ?」


 悲しい信頼だった。


「俺にとって残酷だとは思わないのか? 紅子さん」

「え……ほら、お兄さんって無理強いしないでしょう? そういうところだけは嫌いじゃないよ。だから甘えちゃうのかな」

「……そうか」


 嫌いじゃないよの言葉ひとつで懐柔される俺ってものすごくチョロいんじゃないかと思うが、まあそれなら信頼に応えるべきだろうと納得してしまうんだよな。紅子さんの言うことには弱いんだ。仕方ない。


「それじゃあ、行こうか」

「ああ」


 突然繋がれた手に驚きつつも、引っ張られるままに部屋を出る。

 手を繋ぐのは有料コンテンツだとかなんとか言ってた癖に調子のいいことだ。

 手を繋ぐと言っても、彼女が俺の腕を掴んでいるだけだが。それでも嬉しいものだ。


「ついでに祠の幽霊ってやつは見に行くのか?」

「ううん、だって真夜中のお散歩〝デート〟なんだよ? 二人っきりじゃないと意味ないんだよ。分かってないなあ、お兄さんは」

「それ、本気で言ってるのか?」

「さあてね。お兄さんが解釈したいほうに解釈すればいいんじゃない?」


 そんなことを言われると夢を見たくなってしまう。

 まったく、紅子さんはズルいなあ。


「アタシはある程度夜目が効くけれど、お兄さんは足元気をつけてね」


 ああ、なるほど。だから手を繋いでくれているのか。

 まったく、素直じゃないよな。そんな些細な気遣いがあるから、俺は彼女のことが好きなんだろう。ましてや、嫌いになることなんてできるはずがない。

 初めて会ったときなんかは面倒臭い子だなあなんて思っていたのが、遥か昔のように感じさえする。


「ありがとう、紅子さん」

「早く行って、早く温泉に入って寝たいだけだよ。お兄さんが転んだりしたら時間が勿体無いからね」


 そんな、ツンデレのテンプレートのような言葉を言い放って紅子さんは先を行く。俺は繋がれた手の温度と、その後ろ姿を見ることしかできないが、髪の隙間から覗く耳がほんのりと赤く染まっていることに気がつくことはできる。

 決して指摘をすることはないが、無視することも俺はできない。

 彼女の手で掴まれた腕を緩くほどき、行き場を失ったように彷徨った彼女の手をしっかりと握り直す。

 今度は彼女が俺の腕を掴むのではなく、ちゃんとした手の握りかただ。恋人繋ぎとも言う。

 紅子さんの手はほんの少しだけ逃げる素振りを見せたが、自分が言い出した手前か、結局諦めてされるがままだった。


「照れてる?」

「照れてない」


 ついこの前もしたやり取り。

 変わらず、彼女は前を進んで顔を見せてくれないが、あのときと同じように顔を赤くしているだろうことが手に取るように分かる。

 さっきよりもずっと耳に差した赤みが強い気がするからだ。


「お兄さんは卑怯だよねぇ」

「なんの話だ?」

「そういうところだよ」


 すっとぼければ呆れたように彼女が続ける。

 紅子さんだって俺をからかってばかりなのだから、俺がそれをしたっていいだろう。その指摘はお互い様だ。


「見えたよ。あれが露天風呂ってやつかな?」


 紅子さんの指差す方向を見てみると、霧とはまた違う湯気のようなものが見えた。

 確かに、あれは温泉だろうな。それにしても、こんなところに天然温泉か。改めて考えるとすごいことだよな。普通なら、企業とかが管理してそうなものだが。


「近くにある小屋が脱衣所……ってことになるねぇ。一応看板がある。温泉周りは低いけれど衝立もあるし、覗き対策の努力をした後なのかな」

「だろうな。紅子さん、入るんだろ? 俺は外で待ってるよ。なにかあったらかけつけるから、ちゃんとタオルを巻いておいてくれ」

「それはあわよくば覗いてやろうってことなのかな?」

「そういうことじゃない。心配して言ってるんだよ」

「分かってるよ。じゃあ、見張りよろしくねぇ」


 繋いでいた手を離し、彼女は脱衣所へと向かう。


「俺はここにいるからな」

「はいはい」


 衝立になっている木の板を背にして、座り込む。

 スマホで時間を確認すれば深夜3時だ。少しだけ眠い。

 数分ほどだろうか、小屋の扉が軋んで開く音がすると、衝立の向こう側でバシャリとお湯を打ちかける音が聞こえてくる。


「……」


 なんか、覗いているわけでもないのに顔が熱くなってくるな。

 音だけが聞こえるというのも、なんというか、その……いろいろと想像してしまって心臓に悪い。

 目を瞑って衝立に寄りかかるとなお、変な想像が膨らみそうになる。


「ぬるいのかと思っていたけれど、結構丁度いい温度だよお兄さん」


 頭を振って、妄想を追い出す。

 わりと間近で声をかけてきた彼女に返事をするべく、声をあげる。


「寒くないか?」

「うん、これなら上がっても湯冷めする前に帰れそうかな。もしかしたら、源泉はかなり熱いのかも」


 外にあって、しかも管理がされていないのに丁度いい温度になっているということは、そういうことだろうな。ますます企業が嗅ぎつけないのが不思議になる場所だ。霧はあるが景観もいいし、天然温泉まで湧き出ている。土地は広いし、旅館のひとつでもあっておかしくないと思うのだが……やはり観光地にできない特別な理由でもあるのだろうか。


「ねえ、お兄さん」

「わっ、紅子さん?」


 寄りかかっている衝立の、すぐ向こう側から声がした。

 どうやら、今俺達は衝立を境に背中合わせのような状態になっているらしい。


「露天風呂でなにか嫌な思い出でもあるのかな」


 その言葉で、俺は目を見開いた。

 いや、あんなあからさまな反応をしてしまったら分かるか。

 紅子さんは聡い人だ。あのとき、強迫観念のようなものに襲われていた俺を窘めて、内湯に入るように誘導してくれた。

 俺がおかしくなっているのが分かっていたからだ。そして、その理由を問わずにあのときは収めてくれた。


「前にさ、神内に連れられて脳吸い鳥が出るっていう旅館に行ったことがあるんだ」

「うん」


 彼女は軽い相槌を打って促してくれる。

 これはいい機会なのかもしれない。俺の中にはあの出来事がしこりとなって残り続けている。なんとかできたんじゃないかとか、助けられたんじゃないかとか。所謂、トラウマというやつなんだろう。


「そのときに、会ったグループがいてさ。紅子さんなら知ってるか? 確か七彩のオカルトサークルだって話だったし」

「うん、知ってるよ。どうなったのかも、一応ね」


 そうか、知ってるのか。なら話は早い。


「本当に脳吸い鳥が出たんだ。それで全員、殺された」

「うん」

「最初に犠牲になった子は、脳を取られた状態で操られて……俺達を罠に嵌めていった。彼女は、青凪さんは……露天風呂に入ったときに襲われて、操られてしまったんだよ」

「青凪……確か、怪異調査部の部長だったかな。そっか」


 初日の夜、俺達が買い出しに行ったときだ。

 紫堂君が見たと言っていた脳吸い鳥はクチバシが真っ赤に染まっていたらしい。元の脳吸い鳥はクチバシが黄色い。そのとき既に、露天風呂にいた青凪さんが襲われた後だったんだ。


「全部の鳥を殺して、青凪さんの脳も取り戻すことができたけど、彼女は俺に殺してくれって言ったんだよ」

「うん」

「俺、できなかった。あのときは、そんなことできないって言ったけど、紅子さんに言わせると俺はただ、人殺しになるっていう責任から逃げたかっただけだったんだ。彼女は、脳吸い鳥の鳴き真似をして、警戒して刀を構えた俺に当たってきて自殺した。あのときの感触はまだ覚えてるんだ。あんなことがまた起きたら嫌だって、怖くて、それで恐慌状態になっちまった。アリシアちゃんたちには悪いことをしたよ、本当に。楽しい気分を潰しちゃって」

「人の言葉を代弁するつもりはないよ。でも、アタシだったら、お兄さんに重いものを背負わせることになるからちょっと申し訳なく思うかも。普通の自殺じゃないし」


 言葉を選ぶように俺の話に相槌を打つ彼女の表情は分からない。

 衝立の向こう側でどんな顔をしているのかとか、不安になってもうかがい知ることはできないのだ。


「青凪先輩は最期になにか言ってた?」

「……お兄さんは、悪くないって」

「そう」


 紅子さんはそこで一旦話を切ると、また言葉を選ぶように言った。


「本人に許されてるから、余計やりきれないんでしょ? 責められたほうが自分の気持ちが楽だからってさ」

「それは……」


 事実だ。俺は、許されたくなんてなかった。

 俺自身が俺を許せていないのに、被害者の彼女が許してしまったら、俺はなにも言えなくなってしまうからだ。


「お兄さんはズルイよ。でも、それでいいと思うよ。お兄さんが責任感強くて自分を責め続けるのは別にいいと思う。救えたかどうかのIFの話をするのはナンセンスだけれど」


 彼女はそれに「でもね」と続ける。


「お兄さんはね、ちゃんと成長してるよ。その出来事があって、青水さんのことも、青葉ちゃんのこともあってさ、お兄さんはどんなときも……最善を取ろうと頑張ってた。だからこそ、今アリシアちゃんとレイシーが離れ離れにならずに済んでるんじゃないかな。きっと昔のままのキミなら、あり得なかったことなんだと思うよ。お兄さんのそういう未熟だけれど、努力して変わろうとしてるところは嫌いじゃないかな」


 胸にストンと落ちるような心地というのは、こういうことを言うのかな。

 そうだ。アリシアとレイシーは離れ離れにならずに済んだ。チェシャ猫のジェシュはいなくなってしまったが、それは紛れもなく一歩前進していることの証だった。

 俺は、成長できてるのかな。


「ありがとう、紅子さん」

「どういたしまして。アタシだって、そういうところは認めてるんだよ? お兄さんは、初めて会ったときとはもう違う。今、アタシが首のガラス片を取ってって言ったら、お兄さんはどうする?」


 もし、今またあの夢のときのようにガラス片に手を伸ばせた言われたら……? そんなの、決まってる。


「……手に取れるよ、今は」

「そうでしょう? なら、そのまま成長していけばいい。人間っていうのは失敗しながら進んでいくものだからね。それは人間の美徳だと思うよ」


 パシャリ、とお湯の跳ねる音がする。


「スッキリした?」

「ああ、ありがとう」

「うん、それにアタシ達は黙ってやられるほど弱くもないよ……そうだ、アタシもお兄さんにちょっと相談したいことが……わっ!?」

「紅子さん!? 今行く!」


 バシャンと、なにかがお湯の中に倒れた音がして俺はすぐさま助走をつけて跳躍し、衝立を掴んで向こう側へと降りる。刀を構えたまま周囲を見回してみても、なにも見えないが油断はできない。


「紅子さん、大丈夫か? 紅子さん?」

「……わっわっ、こっち見ないでよ! それに靴のまま入ってくるなんて非常識……し、心配してくれて嬉しいけれどね? アタシは大丈夫だよ」

「ご、ごめん! すぐ上がる!」


 見てしまった……振り返ったときに、タオル姿の紅子さん。

 いつもはポニーテールにしている長い黒髪がお湯に浮いて、顔を真っ赤にしながらタオルを押さえる紅子さん。しっかり、見てしまった。

 すぐさま隠れるように後ろを向いた彼女の姿。その背中に赤い痣のようなものが見えてしまい、俺は首を振る。

 ……痣なんてあったんだな。

 いやいやいや! 考えるな……考えるな……彼女の魂のように鮮やかな赤い蝶々のような形の痣。気にはなるが、それの追求なんてしたら不機嫌になるどころの話じゃない! 

 それに今は彼女になにがあったのかを訊かないと。


「もう、いきなり黒猫が降ってきてビックリしただけだよ」

「そ、そうか。黒猫? どこに行ったんだ?」

「上から降って来たんだよね。ほら、木の上から落ちてきたんじゃないかな。お湯に濡れて飛び上がって、温泉の淵を走ってあっちのほうに行ったよ」


 そのまま温泉から上がり、探してみるが黒猫の姿は見えない。

 後ろから同じく温泉を上がってきて隣に並んだ紅子さんも探しているようだが、もう見つけられなくなってしまったみたいだ。夜目の効く彼女が見つけられないのなら、もう近くにはいないんだろうな。


「ねえ、お兄さん」

「な、なんだよ?」

「すけべ」

「わざとじゃないから!」


 慌てて弁解すれば、紅子さんはクスクスと笑って「心配してくれて嬉しかったよ」と言う。

 だから落としてから上げるのは卑怯だって! 


「あ」


 紅子さんが言葉を漏らして、手を前に出す。


「雨、降ってきちゃった」

「紅子さん、早く着替えてきたほうがいい。湯冷めしちゃうぞ」

「うん。あ、でもお兄さんも濡れちゃうし、ここの軒下で待ってて。すぐ着替えるから」

「わ、分かった」


 軒下って……すぐ真後ろで紅子さんが着替えるってことじゃないか。

 拷問かなにかか? 好きな子が真後ろで着替えているのを音だけ聞くなんて生殺しもいいところなんだが。

 精神統一、精神統一……


「お兄さん、終わったよ。早く行こう」

「ああ、分かっ……!?」


 紅子さんは、浴衣姿になっていた。

 桜色の浴衣に金色の刺繍で桜の柄が入った可愛らしい浴衣だ。多分、あの資料館で貸し出してくれたやつなのだろう。

 髪は当然乾いていないから下ろしたままだし、直前まで温泉に入っていたからなんだか色っぽいというかなんというか……とにかく、彼女に恋をしている俺の心が重傷になるような姿だった。


「この旅の目的は達成した? おにーさん」

「今達成した。でもまた別の目的ができたよ」

「ふうん、それは?」

「紅子さんともっと仲良くなりたいってことだよ」

「そ、そっか。えっと……雨が強くなる前に早く帰ろう、お兄さん」

「そうだな」


 どちらともなく手を繋いで資料館へと帰る。

 無事に部屋に着く頃には、外は大雨になっていた。


「うわあ、これは明日大変かもねぇ。いや、今日か」

「古い建物だから音が凄いな。眠れるかな」

「寝るしかないよ。それとも、徹夜でお話でもする?」

「いや、俺はともかく紅子さんは髪を乾かして早く寝たほうがいいよ。徹夜は美の大敵って話だし」

「よく分かってるねぇ。じゃ、おやすみ。令一さん」

「おやすみ、紅子さん」


 紅子さんと別れて部屋に戻る。

 雨は、ますます強くなっているようだった。


「この村、大丈夫かな」


 俺は着替えてすぐにベッドに入る。


「そういえば……紅子さんの相談ってなんだったんだろう」


 考えながら、目を瞑る。

 微睡みの中で、どこかで鈍い音が響いていた気がした。


 ◆


 なんだか、騒がしい。

 外が、騒がしい。うるさい。

 ……いや、悲鳴か? 


「悲鳴!?」


 布団から飛び出して急いで準備し、駆け出す。

 尚も資料館の外からは悲鳴と怒号が響き渡っていた。

 紅子さんやアリシア、ましてや透さんの声ではない。それに一旦は安心して、しかし朝から悲鳴が上がる状況は異常だとリンを伴いながら思考する。


 外に出てみれば、果たして〝現場〟が広がっていた。


 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。


 そして、村人達の悲鳴。

 なすすべもなく、その状況を見守るしかない者達は視線を逸らすことすらもできず立ち尽くす。

 助けようなんて行動は無意味に終わると脳に直接叩き込むような、そんな光景。


「べ、紅子さん……この状況はいったい」

「お兄さん、起きたんだね」

「よかった! しも……令一さんは無事ですね!」

「起こしに行かなくてごめんね。悲鳴が聴こえて焦っちゃって」


 紅子さん、アリシア、透さんに近づいて状況を確認すればそんな言葉が返ってくる。


「あれは……?」

「運転手さんだよ」

「え……」


 紅子さんの言葉に声を漏らす。


「アリシアちゃん、見ちゃだめだよ」

「は、はい……すみません透さん」


 透さんが背後からアリシアの目と耳を塞ぐ。

 そうだな、俺だって気分が悪いんだ。子供が見ていいものではない。


 そこでは――運転手の青雉さんの首が捻れていく光景がただただ展開されていた。


 無理矢理なにか力の強いものに首を捻じ曲げられているように、体を動かせずに彼は〝曲がって〟いく。

 首が後ろに向かって捻れ曲がっていく。

 180°の回転をしてもなお、首は捻れていき、白い泡を吹いた彼は事切れる。

 そして、頭が一回転、二回転、三回転とオーバーキル気味にしたあと、その体が崩れ落ちていく。

 まるでなにかの力から解放されたように。


「……」

「お兄さん、あれはどうしようもないよ」

「ああ」


 そうだ、俺がなんとかしようとしても、きっと青雉さんの回転を止めることはできなかった。分かっている。けれど、だからこそ無力感に苛まれた。


「祟りじゃ!」

「おしら様の祟りだー! 彼はおしら様の怒りに触れたんだ!」


 村人達が水を打ったように静まり返ったと思ったら、次々と声が上がっていく。


「おしら様?」

「うーん、知らない名前だな。あとで調べておくよ」

「アタシもその名前は知らないねぇ」

「神様でしょうか」


 俺が呟いてから透さんが提案する。

 あんな光景を見てすぐにその発想が出てくるあたりがすごいな。

 俺なら混乱してなにも言えなくなるからな。辛うじてみんながいるから、今は冷静でいられるのだが。


「あんた達、悪いお知らせがあるわ」


 そのとき、村の入り口の方から華野ちゃんが歩いてきた。

 彼女も冷静な表情で、青雉さんの遺体を横目に俺達のほうへとまっすぐとやってくる。


「どうしたんだ?」


 代表して俺が問うと、華野ちゃんは困ったような顔で言った。


「昨日の大雨で、入り口の洞窟が土砂で埋まってるわ。残念だけれど、閉じ込められちゃったみたい」


 その言葉に頭が真っ白になる。

 外に出られない……? いや、俺達は怪異事件が起きると踏んでここに来ていたのだから、構わないはずなんだが。


「……あの幽霊の子に、〝また会える〟ね」


 ハッとする。


 ――またね。


 透さんによれば、白い幽霊はそう言ったのだという。

 つまり、最初からこの状況になるのが分かっていた? 


 おしら様とやらの祟り、白い幽霊の言葉、この状況。

 どうやらこの村……一筋縄ではいかなそうだ。






『一柱の神様』――開幕。




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