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蹉跌の国の女王


 妖紙魚(しみ)達を片付けるのは、案外楽なことだった。

 そりゃそうだ。体力は他の奴の3倍はあったのだろうが、所詮紙でできた魚。刃と炎には殊更に弱く攻撃が通りやすい…… まあ、当たればだけれど。


 ひとつだけ厄介だった点はその素早さだけか。当てれば確実に大ダメージを与えることができるが、まず魚に当てることが難しかったのだ。

 あちらからの攻撃は不可視になったとしても、直前で風切り音がするため避けることはできる。リンが視えているようなので、警告してくれるのも理由の一つだ。だが、まずこちらの攻撃が当たらない。


 そこで俺達がとった行動はレイシーとチェシャ猫の目の前に陣取るというものだった。

 アリスの攻撃も、魚の攻撃も俺達ではなく後ろにいるレイシー達を狙ってくる。アリスの攻撃はナイフで行われるが、こっちも狙いはチェシャ猫だから紅子さんがわざわざ接近して一人でいなしてくれていた。だからアリスの動きを加味する必要はない。


 魚が体を透けさせようと、いくら回避能力が高かろうと、狙っている場所が一点しかないならばそこで待ち伏せすればいい。追いかけようとするから当てられないわけだしな。

 だからか、決着は思っていたよりもずうっと早いものとなった。


 風切り音が前方からした。

 その瞬間、静かに構えていた赤竜刀を下から上に向かって振り上げる。


「っらぁぁぁぁぁぁ!」


 ビリビリと紙を裂くような音がして、ふっとその感触が軽くなる。

 頭上を鑑みると刀から抜け出たリンが赤くチラチラとした炎で魚を炙っているところだった。


「ってリン! それお前も燃えないか!?」

「きゅっ!?」


 リンは 「しまった!」 とでも言いそうな顔で驚いたあと、ぐいぐいと魚を咥えて飛び立とうとする。

 体の大きさ的に相手が紙でも難しいみたいで、まるでできてないが。

 かと言ってごうごうと燃え盛っているので俺は手を出せない。一体どうすれば…… このままではリンが燃えて溶けてしまうんじゃ…… !? 


「レーイチ、そいつ自体炎を操るドラゴンなんだから平気だって。本体は刀かもしれねーけどドラゴンの分霊だぞ? 炎に強くないわけないだろ。なんでリンまで驚いてんだよ……」

「え、そうなのか?」

「きゅあー……」


 ペティさんの説明に困惑しながらリンを見ると、 「あっ」 って顔をしながらそっぽを向いた。俺にあてられて慌てたものの、そういえばそうだったねなんて思っていそうな顔だ。思い当たらなかった俺も俺だが、こいつめ…… 許すけどさ。


「リン、そうなら先に言ってくれよ」

「んきゅい」


 そうだな、話せないもんな。ごめん。

 ぷんすこ怒ったように俺の額にグリグリと鱗の張った額を押し付けてくるリンを、そっと手のひらで覆って引き剥がす。

 手のひらの上が少し重いが、それでも翼で少しばかり浮遊して重さを軽減してくれていることを知っているのでなにも言わずに頭を指先で撫でる。


「ごめんって」

「きゅー」


 仕方ないなあとばかりに首を回したリンが俺の肩に乗り…… そしてすぐさま紅子さんの肩に渡っていった。傷ついた。傷ついたぞリンなんて思いながら振り返るとレイシーを羽交い締めにして押さえているペティさんの姿が……


「私様も撫でるのじゃ! ええい離せ!」

「ダメだって言ってんだろ。空気読めよ女王サマ」

「ちょっと! レイシーになにするんだよ!」

「引っ掻くなこの馬鹿猫!」

「侮辱するな! このっ」


 カオスだった。

 多分リンは安全と思われる紅子さんのところに行ったんだろうな…… 俺の肩じゃ気付かれないうちに攫われそうと判断したか。そこらへんシビアだな。


「ええっと…… リンはいいけどねぇ。レイシー? あの、アリスのことはいいのかな?」


 困ったように微笑みながら紅子さんは倒れているアリスを指差す。

 待て、アリスは傷つけないんじゃなかったか!? 


「ああ、あの子なら魚が消滅したときに倒れちゃったんだよ。取り憑いてたやつが剥がされた衝撃を受けたんだろうねぇ。そのうち目覚めるよ。で、どうするの? あの子」


 紅子さんはまっすぐとレイシーを見つめている。

 すると、それにレイシーが気がつく前にチェシャ猫が視線の間に立ち、威嚇するように吠えた。


「そいつに用なんてない! さっさとそいつを連れてけ!」


 アリスは勿論物語通りに進んでなんかいないので、チェシャ猫が言っていた女王交代の条件も揃っていない。

 彼の言ってることに間違いはない。けれど、どこかに潜む違和感。そして、先程知った真実を照らし合わせると…… そもそも女王交代の話自体がフェイクだろうことが分かっている。

 レイシーにとっては知らぬが仏。知らずにいることで守られる心もあるのだ。


 だけど、そう。そうだ、さっきあの子は、アリスはレイシーを見つめて 「お姉ちゃん」 と言っていたんだ。

 あの記憶にもしっかりと妹さんの姿が見えていた。あの姿は紛れもなくアリスの姿そのもので……


 死者と生きるか、それとも未来へ引っ張り出されるか…… その分岐点に今、レイシーは立っている。


 そして、それにレイシー自身は気がついていない。

 これを知ったのは、俺だけ。紅子さんだって知らない。ペティさんだって知らない。俺だけ…… どうする? 


「…… ここ」

「おや、起きたかな? 大丈夫?」


 そして、タイムリミットを迎える。

 やっぱり俺は優柔不断だ。真実は、確実にこちらへ歩み寄ってくるっていうのに。


「……っ、お姉ちゃん! お姉ちゃん! やっと見つけた! お姉ちゃん!」

「レイシーに触るな!」


 赤い目から狂気が失われ、正気を取り戻したアリスが二人に近づいていくものの、チェシャ猫が接触を拒むようにその異形の手で制する…… レイシーを守るようにして。


「あなた…… ジェシュ?」

「なんのことかな。ボクはチェシャ猫。お前なんて知らない」

「違う、絶対ジェシュよ! お姉ちゃんを返して! 返してよ! なんで逃げるの!?」

「お前から漂う血の匂い。この本の仲間達の血の匂いが教えてくれる。お前は危険。レイシーには近づけさせない! そんな物騒なもん持ったままだし!」

「え…… ? あれ、ナイフ…… 護身用の、でも、どうしてこんなに赤く…… 」


 チェシャ猫は動揺しない。ただただ純粋に血塗れの彼女を威嚇するように振舞っている。

 対してアリスのほうは自分の手の中にある真っ赤なナイフと、真っ赤に汚れた黒白のエプロンドレスに呆然としながら呟く。


「あたし、なに…… してた…… ? あたし、お姉ちゃんを取り返すために確か…… 本の中に…… どうしてこんな……」


 だんだんと小さくなる声。小刻みに震える体。カチカチと、こちらにまで聞こえてくる歯が震えて鳴る音。瞳は信じられないものを見るようにすぼまり、自分の汚れたエプロンドレスを引き寄せて 「嘘、嘘、嘘」 と繰り返す言葉。

 息が荒くなってきた彼女にとうとう限界が来ようとしているのを察したのか、紅子さんが近づいていき、少し悩んだようにしてから彼女の顔目掛けてなにやらスプレーをひと吹きさせた。


「ぶぇっ!?」


 唐突な行動にアリスが反射的に悲鳴をあげながら顔を覆う。


「ちょっ、紅子さん!?」


 俺が素っ頓狂な声で彼女に視線を向ければ、実にバツの悪そうな顔で彼女は口を開く。


「あー、こういうときに言葉でなんとかできればいいんだけどねぇ…… お生憎様、脳筋なものでさ。そういう器用なことはできないんだよ」


 紅子さんは流し目で困ったように言い訳を述べてから、ふいと目を逸らす。

 もしかして脳筋扱いされたのを根に持ってたりするのか。自虐ネタよろしくそんなこと言われてもなあ。


「害のあるやつじゃないよな?」

「あれはアルフォードさんから買ったやつだよ。興奮状態にあって話が通じないときとかに段階的に落ち着かせる御神水なんだって。強制的に落ち着かせるやつもあるけど、そっちは副作用あるから敵専用。こっちは味方用だねぇ」


 敵用と味方用ね…… 副作用ってなんだよ。間違えて使ったら大惨事すぎる。


「あ、あたし…… そうだお姉ちゃん!」

「さ、さっきからなにを言ってるんじゃ…… ? 怖すぎるんじゃが」


 レイシーが静かだと思っていたら、そうか覚えていないから分からないのか。


「お姉ちゃん? 分かんないの? あたし妹のアリシアだよ? お姉ちゃんは今病院で」

「うるさい!」


 遮るように、チェシャ猫が叫ぶ。

 彼はどうしても真実を知られたくないようだ。当たり前か。自分がレイシーの記憶を奪ってこの世界に閉じ込めている元凶だもんな。知られれば今までと同じように信頼を向けてくれるとは限らない。それが分かっていながら黙っているわけがないよな。きっと、想像するだけで怖いだろう。レイシーが自分を拒絶するのが。


「チェシャ…… ? どうしたのじゃ」

「あ、ご、ごめんレイシー。その、あ、あんな危険なやつはほら、さっさと叩き出さないと! 今回はレイシーが外に出る機会にならなくて残念だけどさ…… ね?」

「チェシャ…… 私になにか隠してる?」

「違うよレイシー! それよりほら、カッコいい喋り方が崩れてるよ! そっちはやめるって言ってたよね?」


 酷い焦りだ。

 あたふたしているチェシャ猫を睨みつけるのは、アリスだ。

 ペティさんは余計な口出しをしないようにか、目を細めて辺りを探っている。

 そうだ、これを仕掛けたのはあいつ…… ニャルラトホテプだ。どこかでこの一部始終を見ていてもおかしくはない。俺も警戒はしておかないと。


「ねえ、チェシャ。お願いだから教えて。いつも教えてくれたでしょ? あの子は誰? なんで私のことお姉ちゃんって呼ぶの? ねえ!」

「れ、レイシーは外で少し危ない目にあったんだよ。だから、たまたまアリスとしてやってきたレイシーを女王様にして引き止めたんだよ。そのままじゃレイシーが危ないから!」

「危ない…… ? 外の世界は危ないの?」

「そう! そうだよレイシー! でもここにいればずっとずっと安全なんだよ。ずっとボクら二人、楽しく過ごしていただろ? もっともっと楽しませてあげる! だからここにいよう? ね?」

「違うわお姉ちゃん! お姉ちゃんはそいつに閉じ込められてるの! あたしはお姉ちゃんを助けにきたんだから!」

「私様…… 私、は」


 まるで板挟みだ。

 どちらが正しいのかが分からない。中学生くらいにしては幼いレイシーは、余計に混乱してしまうのだろう。

 正直、今俺が話し出してもよくはならない。これはあの子達の問題だけらだ。余計な大人が口出しするべき場面じゃない。たとえ、ほとんどのことに察しがついていたとしてもだ。言い訳でもなく、これは本気でそういう状況なんだ。

 …… 多分、紅子さん達と共有するなら記憶を覗いてすぐ、レイシー達と離れてするべきだったんだろう。


「外には…… 出たいと思ってたのじゃ…… ずっと。アリスと交代なら出られると、言ってくれたから、ずっと待ってたのに…… どういうことなのか、もう分からん!」

「レイシー、ボクとずっと一緒にいてくれるんじゃないの!?」

「な、ならお姉ちゃん。あたしと一緒に帰りましょう? ね、いい子だから」

「子供扱いはやめてくれ!」


 紅子さんも、ペティさんも静観する方針みたいだからなあ。

 こういうことには基本手出ししないスタンスなのか。

 そう言う俺も出せる手なんてないんだけどな。


「やめて、やめてよ…… 分かんないもん…… どうすればいいかなんて、分かんないもん!」

「ね、ねえレイシー。レイシー…… ねえ、ボク。キミに必要とされなくなったら、ボクはどうすればいいのか分かんなくなっちゃうよ。ボクはレイシーに死んでほしくないからこうしてるのに…… アリスはなにも分かっちゃいないしさぁ」

「へ、お姉ちゃんが死ぬ…… ?」


 アリスが、目を見開いた。

 自分の中にあった前提をひっくり返されたような顔だった。

 多分、捕まった姉を救うために来た感じだろうし、現実に引き戻されればいずれレイシーが死ぬことを避けられないってことは知らないだろう。

 黒猫さえどうにかすればいいと思っていたのかもしれない。


「な、なあ〝 帰り道 〟を持ってるのは誰だ?」

「何度か持ち替えてるけれど…… 今のところはペティさんが持ってるねぇ」


 こそこそと紅子さんと話しつつ、ペティさんと距離を詰める。

 チェシャ猫達は寄ってきたアリスと口論してるからその後ろを抜けて合流。

 なんか、無性に嫌な予感がするのだ。できればアリスも回収しておきたいけれど、渦中にいるからな。


「…… 二人共、黄泉返り…… なんて普通は無理なんだろ?」

「俺様に喧嘩売ってんのか? 黄泉返りなんかできてたらとっくにして、置いて来ちまった子を迎えに行くぜ」

「あー、まあ、普通なら命ひとつ分の代償が必要になるよねぇ。ずっと一緒にいたいと思うなら亡霊になるなりなんなりするしかないし…… それだって冥界の方で許可もらわないといけないからねぇ」


 むしろ冥界で許可とか取れるのか…… なら青水さんも焦らなければ夢枕に立ってお礼を言うくらいできたんじゃないか…… ? 

 そんな後悔が少し滲むが、今はそんなことを考えている場合ではない。


「 俺、さっき図書館で本当のチェシャ猫に会ったんだよ。それで、この世界に染みついたレイシーと黒猫の記憶を覗いたんだ。黒猫は黄泉返った。あいつの化身としてだ。でもそれで代償がないなんてことはありえないだろ? レイシーは外の世界で黒猫が過去に負った傷を追体験している。つまり、外の世界にいれば、レイシーはいずれ死ぬことになる」

「お兄さん、それもう少し早めに言ってほしかったかなあ……」

「ロクなことにはならねーとは思ってたが、予想以上にまずいぜそれ」


 え、確かにあいつが関わってる以上、やばいことに変わりはないが……この二人がそこまで言うほど…… なのか? もしかして俺、あいつに慣れすぎて大分感覚が麻痺してるのかな。


「邪神が関わってるってことは、今も見てるってこった。つまり、最悪な場面で介入してくる可能性が高いってことだ」

「今すぐ終わらせよう。アリスを連れて帰るんだよ、お兄さん。恨まれようとなんだろうと、それが最善手だからね。キミのご主人様に介入されたらもっと酷いことになる」


 そうか、嫌な予感はそれか……

 やはり感覚が麻痺してるな。素直に二人の言うことを聞こう。そして、チェシャ猫とレイシーについては…… 可哀想だが現状維持するしかないだろうな。


「外にいたら、お姉ちゃん死んじゃうの?」

「そうだよ。だからこそボクが一緒にいるんだから。そうレイシーも望んでくれるでしょ?」

「わたくしさま…… は」


 けれど、タイムリミットは突然の終わりを告げるのだ。


「おやおや、元凶がよくもそんな都合の良いことを言えますねぇ」


 頭上から降ってきた神内(あいつ)目掛けてペティさんがなにやら薬品を投げて魔法を発動させるが、それが届く前にあいつの手によって壁のようなものが現れ、爆発が防がれる。

 いつの間にか移動していた紅子さんはアリスを引っ掴んでこちらに連れてくることに成功したが、その表情はひどく苦々しい。


「やっぱ見られてたんだねぇ。ストーカーはお断りだよ」

「くふふ、なんのことでしょう? 私はただ女王様と妹様を助けに来ただけですよ。お可哀想に。あの黒猫が全ての元凶だとも知らずに心からの信頼を預けて…… そして裏切られてしまったのですから」

「余計なことを喋るんじゃねぇ!」

「当たってあげてもいいですけど、屈辱に歪む顔も見たいので今回は防ぐほうで」


 激昂したペティさんが突っ込んでいくが、やはりいなされる。

 人間体でも邪神モードだからか魔法もどんどん使ってくるだろう。俺がどれだけ奴を傷つけられるか分からないが、やってみるしかないか。


 リンは赤竜刀。無謀断ちの刀。俺が無謀なことをしようとすればそれだけ力を発揮し、手助けしてくれる相棒。

 そして奴を一度斬ってからは無貌特効能力付きでもある。

 今、奴を対処できる可能性があるのは俺だけだ。


「お前、あのときの烏…… ? なんで、ボクにアドバイスしてくれたのはお前で」

「なんのことでしょうねぇ。私がアドバイスしたのは妹様だけですよ。女王様の為に力も貸しましたが、それは彼女の意思。私に非などありません。私は親切な神さまですから、ついつい人のお願いは聞いてあげたくなっちゃうんですよ」


 実に胡散臭い笑みを浮かべている。なにが神様だ。お前は神は神でも邪神だろうが。


「そ、それよりさっきのはどういう意味なのだ! チェ、チェシャが元凶とはどう意味じゃと訊いておる!」

「知らないほうが幸せとも言いますが、仕方ありませんね。貴女はあの黒猫と運命を仲良く交換したのですよ。死んだ黒猫と。ですから、死ぬ運命が貴女に押し付けられました。貴女が死ぬ運命にあるのは、元々黒猫のせいなのです」


 唇を食いしばり、走り込んで奴を叩っ斬る。

 しかし、確かに首元を狙ったし、感触があったはずなのにどこも切れていない。しかも、あまり赤竜刀の効果が出ていないように感じる、なぜ、なぜだ。

 いくら状況改善の為には必要なことだとはいえ、この不気味なほどにこちらに関心を寄せない邪神に斬り込んでしまって本当にいいのか? 

 嫌な予感がする。これ以上斬り込んだらロクなことにならないぞ。


「チェシャの…… せい?」

「れ、レイシー。やめて。それはやめて……」


 チェシャ猫のほうはなにかに怯え、そして竦んでいる。

 まるで、なにが起こるか分からないのに本能的に怯えるような…… そんな反応。


「私、死にたくなんてない。チェシャが私を騙してたのなら、あなたなんていらない」


 幼いその心で、残酷な一言を平気で口に出す。


「ボク、キミに望まれたからここにいるのに? キミが願ってくれたから、こうしてレイシーの為に、頑張って…… なのにそんなこと、言われたらボクは……ボクは、ねえ、〝 なに 〟になればいいの?」


 そして、その心の内に眠っていたはずの…… 付与された本性が表に顔を出すことになってしまうのだ。


「…… ねえ、ボク。ボクって〝 なに 〟? どうして、ショックなはずなのに、なんだか変だよ…… ボク、どうなっちゃうの」

「くふふ、答えは出ているだろう? ねえ、私。お前も私だよ。邪神の目玉代わり。人間にとってはきっと怖ーい化け物だろうね」

「…… ふうん、なんか絶望的だなあ。レイシーのこと、大好きなのに…… 否定されて喜んでるボクもいる。変なの」

「そういうものだからね。そのうち慣れるよ」


 不穏な会話をする二人に、息を飲む。

 これまではレイシー達の飼い猫としての役割を与えられていたから安定していた精神が、どうもそれすら否定されて化身としての自覚を得てしまったらしい。まずい、まずいぞ。


「や、やっぱり悪魔だったんじゃない! あんた達二人共騙してたんでしょう! お姉ちゃんを解放しなさいよ! 運命をお姉ちゃんに返して! そして、あたし達の可愛いジェシュも返しなさいよ!」

「知りたくなかった…… チェシャを返すのじゃ! どうせ乗っ取っておるんじゃろう!」

「ああ、悲しい。すっごく悲しいよ。でも嬉しいんだ! よく分かんないけど、なんとなく納得したよ。ボクはまだキミ達の飼い猫でありたい気もするし、自由気ままな猫でありたい気もするんだ。ねえ、ご主人様。どっちがいい?」


 今まではまだなんとか意思の疎通ができた。けれど、これではまるで会話がめちゃくちゃで成立していない。ズレすぎた回答は独りよがりに姉妹へと向けられている。俺達のことなんて気にしちゃいないんだ。


「だから! お姉ちゃんの運命を返して! それで、あたし達の弟を! ジェシュも返して!」

「うーん、そう言われてもなあ…… 運命の交換はできるんだけど」


 言いつつチェシャ猫がその尻尾の鈴を鳴らせば不思議な光が溢れ出し、レイシーに向かう。対してレイシーからはどす黒く、酸化した血の塊のようなものが溢れ出て浮遊する。そして、光の玉と血の玉はお互いの体に吸収されていった。


「これでレイシーはもう死なないね。良かった良かった。でもなあ、ボクはボクだし…… あ、もしかしてこうすればいいのかなあ。ねえ、ボク。お願いしてもいい?」

「構わないよ、新たに生まれた私の門出くらいは手伝ってあげよう」


 そう言ってあいつが…… 邪神が、その手を振るう。

 その瞬間に空間が蜃気楼のように捻れたかと思うと、チェシャ猫の首が宙を舞っていた。


 ボトリ、頭が落ちる。


 そして、立ったままだったチェシャ猫の体がふるりと震え、その首の断面からおぞましいほどの触手がずるりずるりと、溢れ出てきた。

 まるで、宿主を食らって外に出てくる寄生虫のように。全てが抜け出て神内の隣に溜まる。


 後には首のない、小さな黒猫の本来の体だけが残っていた。

 …… そう、中身のない空っぽな、皮だけとなったその体が。


 悲鳴を最初にあげたのは、誰だったか。

 レイシーだったかもしれないし、アリスだったかもしれない。

 もしかしたら、俺だった可能性もある。


 そして、駆け寄るレイシーの姿は記憶で見た光景に不思議と重なって見えた。


「チェシャ…… なんで」

「ち、違う、あたし、こんなこと望んでない…… 返してって言ったのは、こんな形じゃ……」

「あれ、返してって言われたからせめて外身だけでもって思ったんだけど…… これじゃダメだった? …… でも、ボクはボクだもの。中身はなあんにも変わらないよ? むしろ古い体から脱皮していい気分かな」


 触手の塊が蠢き、そして人の形を成していく。

 それは先程まで立っていたチェシャ猫と寸分違わぬ姿であり、気持ち悪い肉塊が変容する様はこちらの常識や正気を削り取っていくおぞましい光景に違いない。

 アリスは紅子さんのマントに掴まり、小刻みに震えながら 「違う、そんなつもりじゃ」 とうわごとのように繰り返している。紅子さんには先程のスプレーがあるが、この状況で正気に戻すのはあまりにむごい。

 俺だってひどく気分が悪くなるのに、初めて見るこの子達なら尚更だ。

 レイシーは悲鳴をあげたきり沈黙している。恐らく気を失ってしまったんだろう。心から信頼していたチェシャ猫が突然変貌したのだ。ショックを受けるのも仕方ない。


「かえして」

「返して? 帰ってきたよ? 黄泉から! 忌々しいことに! 喜ばしいことに! 引きずり戻されたんだよ! レイシーに!」


 満面の笑みを浮かべながらチェシャ猫が言う。

 けれど、その後に続いた言葉はひどく冷静で、冷徹だった。


「…… なのにいらないなんて言うんだもん。引きずり戻したのはそっちなのにポイ捨てなんて酷いよね。それでもレイシーのことは好きだけど…… 今傍にいると切り刻んで絶望に咽び泣きたくなるからダメだね。ちょっと思考が引っ張られてるみたい。だから、しばらくはこの体に慣れたいから身を引くよ。良かったね、アリシア」

「あなた……」


 アリスだけは意識を保っている。そして、その最後の姿を目に焼き付けるようにじっと見つめていた。


「ジェシュ……」

「うん、なあに?」

「あなたはもう死んだ」

「うん」

「だから、さよなら」

「…… うん、ばいばいアリシアお姉ちゃん」


 そうして、チェシャ猫はあいつと共にどこかへ消えて行った。

 俺達も、なんとも言えない状態のまま帰りの準備を始める。


 アリスは紅子さんが支え、レイシーはペティさんがおんぶして運ぶこととなった。

 レイシーはもう運命を取り戻しているので、死ぬ運命からは逃れることができただろう。チェシャ猫はさっきの首()ねで死ぬ運命を清算しただろうし、二人の関係は元に戻った。


 …… 帰ったらあいつを殴りに行こう。返り討ちにあってもいい。黒猫がどうなったかを問い詰めなければ。


「あー胸糞悪ぃー。これから俺様も迎えに行こうってときに嫌な結末見ちまったな……」

「ごめん、俺がもっと早く言ってれば」

「早く言ってても結末はそう変わらなかったと思うよ。お兄さんのせいではないから安心しなよ。どうせどこかであの人は見ていたんだから」


 本を潜り抜けると、そこは再び図書館だった。


「おやおやお帰り。このよもぎちゃんが待っててやったんだ。結末は…… まあその顔を見れば分かるね。それで、どうするんだい? その子達」


 文車妖妃(ふぐるまようひ)字乗(あざのり)よもぎさんは今の今まで別の本を読んでいたようだった。

 そこは俺達を見守ってくれていたわけじゃないのか、と少し残念に思う。そうしたらなにかが変わっていたかもしれない…… なんて、他人任せすぎるな。やめよう。


「よもぎちゃーん、こっちに令一ちゃん来てるー? あれ、なんか大所帯」


 そして、タイミングよく大図書館の扉を開けて入ってきたのはアルフォードさんだった。まさか分かっていて来たんじゃないだろうな? なんて疑心が頭を過る。

 いやいや、彼は竜神。どこぞの邪神とは違うのだと首を振る。


「なにか用ですか?」

「うーん…… 今は疲れてるみたいだし、今度でいいかな。ホントは図書館に臨時手伝いをしに来てくれてる人間がいるから、朝になったら紹介しようと思ってたんだけど…… もうすぐ夜も明けるし、そんなにやつれてるんじゃやめたほうが良さそうだね」


 それは俺にとって、衝撃的な事実だった。


「人間が出入りしてるんですか!?」

「うん、巻き込まれ体質だから家族ごと保護してるよ。興味あるみたいだから図書館で手伝ってもらってるんだ。今度会わせてあげるよ。今日はもう帰って寝るんだよ? 人間はちゃんと睡眠をとらないと」


 そうか、人間。秘色さんもいるが、やっと二人目の人間の友達ができるかもしれないぞ。素直に嬉しい。


「ところでアルフォードさん。この子達を……」

「ここは、どこじゃ?」

「お姉ちゃん!」

「な、なにを…… 私様にはあやつが…… あれ、なにを言いかけたのじゃったか」


 この反応に、少し覚えがあった。


「レイシー。アタシのことは覚えてるかな?」

「紅子じゃろ」


 紅子さんの確認の後に、俺も訊く。


「…… 五人での冒険か、なかなかないよな」

「んん? 四人じゃろ。私様と、お主ら三人! ああ、アリスを数えておるのか?」


 やっぱり、そうだ。


「……………… お姉ちゃん、あたしアリシア。お姉ちゃんの妹なんだよ。お姉ちゃんが戻って来ないから心配して駆けつけたの」


 レイシーの中から、すっぽりとチェシャ猫の記憶だけが抜けている。

 香水の効果が切れた青水さんが塵となり、正気を失った末に記憶を失った押野君と、まるっきり同じだった。

 アリス…… アリシアもそれを察したのだろう。まずは自己紹介からと始めている。



「大丈夫よ、お姉ちゃん。忘れちゃってもまたはじめましてからにすればいいんだから」

「そうか、アリシア。あまり過激なことはするでないぞ!」

「うん、そうするよ」


 アリシアの言葉はチェシャ猫のことを言っているのか、それとも自身のことを言っているのかは分からない。

 だけれど、なんだか悲しいやりとりだった。


「えっと、アリシアちゃんだね?」

「はい、あの、なんですか?」


 その二人にアルフォードさんが近づき、眉を顰める。まさか人間がいるなんて〜ということにはならないだろうから、なにか気になることでもあるのか。


「あのね、よく聴いて。レイシーちゃんの縁はキミとの糸しか結ばれてない。現世に帰っても、アリシアちゃんはともかく、レイシーちゃんの居場所はきっとなくなってるよ」

「え!? そんな、嘘よ!」

「嘘じゃないよ。神様だもん。でもね、どうしても納得できないなら、見てくるといいよ。ちゃんとね。それで納得したら、またこっちにおいで。レイシーちゃんはこちらの住民に限りなく近いから、住む場所も用意できる。アリシアちゃんが会いたいのなら、頼もしい護衛をつけるから会いにくればいい。いいかな?」


 アルフォードさんは終始穏やかな口調で告げた。

 それがかえって信憑性を増しているらしく、アリシアの瞳が揺らぐ。


「分かりました。帰って、確かめます」

「うん。そしたら、これをあげるよ。これを持ってこちらに来たいと強く思えば来れるように道を開けておくからね」

「じゃあ俺様が送ってくぜ。なんなら護衛も引き受けるよ。じゃーな、お二人共」


 アリシアとレイシーは手を繋ぎ、ペティさんの後をついていく。

 アルフォードさんの言うことだから、きっと本当のことなんだろう。あの二人には、これから残酷な真実が直面する。

 それを真正面から受け止めに行くのだから、あの子達は強いな。

 …… 俺にはない強さだ。


 レイシーの縁が切れているのは、長く異界に留まっていたからだとアルフォードさんが言う。アリシアの縁が彼女と離れなかったのは、今回同じく異界に入って真実を見たからだそうだ。逆に言えばそれ以外の人間はレイシーのことを覚えていない。


 …… 俺と、同じ末路だ。違うのは、近くにいるのが邪神でないところ。

 その違いは致命的だ。ああ、なんだか虚しい。

 俺も嫌な奴だな。同じ境遇になった子がいて安心さえしている。

 嫌な、奴だ。


「おにーさん、帰ろう。朝になっちゃうよ」

「ああ、そうだな」


 終わってしまったことは仕方ない。仕方ないのだけれど、やり切れない。

 一人の女の子の将来が潰されたのだ。あいつを許すわけにはいかない。

 邪神を殴りたい回数が増えてしまったな。


「感傷に浸るのもいいけれど、隣の女の子のことも気にしてほしいな? あんまり落ち込んでると幽霊が上にお邪魔ぷよみたいに積み重なっていくよ」

「うわ、なんだそれ嫌だな…… お腹すいたな。コンビニでも寄るか」

「いいねぇ、こんな時間だけどまだ肉まんはあるかな」

「奢れって?」

「え、そんなこと言ってないよ。自意識過剰なんじゃないの? お兄さんはさ」

「あー、そうだな。そうかもしれない」

「変なお人だねぇ」


 結局二人共肉まんを購入して食べる。

 そして、屋敷の前まで来た時紅子さんが手を振って、その場で解散した。

 彼女は異界の屋敷のほうに帰ったんだろう。


 帰った後、やはり邪神には一発きついのを入れるどころか返り討ちにあったので割愛。黒猫はどこに行ったのか、訊いてもやはりはぐらかされてしまった。教える気なんてないだろうな。


 …… それから、後日。バラ園の奥にあるの大図書館で見習いとして働くレイシーと、その手伝いに来るアリシアのいる光景が見られるようになった。

 字乗さんも可愛がってるみたいだし、からかわれてることもあるが関係は良好。

 レイシーの再出発は平和に始まった。

 不幸で終わったこの不思議の国の事件だが、それだけでは終わらなかった。

 今、彼女達が苦労していないならいいだろう。


 少なくとも、不幸で終わりきってしまうより、また幸せが掴める機会に恵まれている。あの子達は多分大丈夫だ。


 だから俺は邪神野郎の知り合い全てに年賀状を書くように押し付けられようが気分良く終わらせることができた。どうだ、してほしかった反応と違うだろ。ざまーみろ。


 その前にクリスマス、クリスマスはあいつも仕事があるらしいしのんびりできるな。

 レイシー達に会うついでにケーキでも作っていこうか。

 そんなことを考える、今日この頃であった。



・蹉跌さてつ

 物事が上手くいかず、しくじること。挫折や失敗を表す。


・効かない赤竜刀

 ニャルを狙っていた太刀筋はニャルが利用し、チェシャ猫の首を斬る斬撃となりました。さらっと時間操作。


「砂鉄 / 蹉跌の国の女王」これにて終幕。


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