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鏡に住み着くチェシャ猫





 そこはまるで、子供の想像する理想の城のようだった。

 ポップな色、トランプ模様の調度品に内装、真っ赤なカーペットに螺旋階段。

 子供の…… レイシーの夢が詰まったような印象を受ける場所だ。

 なぜだろうか、彼女の性格が幼いからかもしれない。彼女はこの本の中で過ごし、そしてこれからも新たなアリスと交代するまで住むのだろう。

 内装が女王の交代によって変わるのかどうかは分からないが、少なくともこの城はレイシーの趣味に適っているんじゃないかと感じた。


 うん、さっきから紅子さんに向かって自慢しているからな。

 紅子さんは一生懸命話すレイシーに困り顔をしながらも顔を向け、うんうんと話を聞いてやっている。なんだかんだ彼女も面倒見がいい。俺のことも放っておけないとばかりに毎回助けてもらっているし、基本的に性根がいいんだろう。普段はからかってくるが、こうやってお姉ちゃんしている姿を見ると年相応…… いや、見た目相応? に見える。いつもはもっと大人びて斜めに構えている節があるからな。

 それでも真面目っぽいところが拭えないあたり彼女の〝 からかい癖 〟はいいアクセントになっているのかもしれない。

 高校生で死んで人じゃなくなってから二年だったか? 今ちょうど二十歳ぐらいなのだろうか。それなら俺とそんなに年の差はないんだよな。

 …… 紅子さんのほうが俺より幾分か大人っぽい気がする。だからといってめちゃくちゃ年上ってわけじゃないし純粋に精神年齢が高いのか。

 俺が短気なだけってわけじゃ…… ないよな。ないよね? 不安になってきた。


「さってと、まずはヨモギに言われた通り図書館から探さないとな!」

「む、そういえばそんなこと言っておったな」

「そうなの? レイシー。なんで?」


 ああ、チェシャ猫はここで合流したから知らないのか。


「俺達が帰るために必要なんだよ。帰り道を確保してないといけないんだ」

「ふうん」

「ここ…… 不思議の国のアリスと同じ本を探すんだったねぇ。じゃないとアタシ達はこのまま本の住民にクラスチェンジだ」

「へえ、ならちゃんと探さないとね! 図書館だよね? ボク分かるよ、こっちこっち!」


 おっと…… 俺が言ったときは消極的な感じだったのになんで紅子さんが言うと態度を変えるんだよ。


「ほー? なるほど、なるほど、なるほどなあ」

「ペティさん」


 紅子さんは意味ありげに声をあげたペティさんへ近づいていって何事かを会話する。俺や、前を行くレイシー達より後ろの位置だったので残念ながら内容は聞こえないが。


「おにーさん」

「どうした?」


 そしてやがて話し終えた紅子さんが隣に戻ってくる。


「チェシャ猫はアタシらがここに留まるのを嫌がっているみたいだよ」

「ペティさんと話してたのはそれか?」

「うん、アタシの言葉で張り切ったのはそのせいかもしれないって結論になった。まあ、あのチェシャ猫はレイシーのことが好きでたまらないみたいだからねぇ…… 猫にも独占欲があるんだろう。お盛んだよねぇ…… お兄さんもそういうときが来るのかな?」

「……」


 その台詞を聞いてから足を止める。


「ん、お兄さん?」


 それから、彼女の両肩にそっと手を乗せてなるべく真剣な表情のまま俺は口を開いた。


「そうなったら俺が選ぶのは紅子さんだな」


 一瞬なにを言われたのか理解していないように呆然とした彼女は、そのまま 「んんっ」 と声を出してしゃがみこんだ。

 故に俺の手が自然と彼女から外れる。


「なんて、な」


 お返しだ、と言いながら歩き出す。

 ちょっとやりすぎたかもしれないが、いつもしてやられてるんだからこれくらいはいいだろう。本当は、 「大胆な告白だねぇ」 とか言って躱されるかと思っていたんだが…… 意外だ。いや、でも少し意地悪だったかもしれない。


「おにーさん、嫌い」

「はいはい」


 髪の間から少しだけ色づいた耳が見えて目を逸らした。

 彼女もなんだかんだ乙女だし年相応だ。からかってくるのに自分が返されると苦手なところとか本当に憎めないよな。まさかここまで照れるとは思ってなかったが。

 まあ、たとえ本当にそうだったとしても、俺が受けるわけにはいかないけれど。


 …… だってそうなったら、あの邪神野郎が面白がって手出ししてきそうだし。


 友達を失うのはもうごめんだよな。


「おーおー、見せつけてくるよなー」

「ペティ、それより図書館の場所まで早く行くんだろう。置いていかれるよ」


 そう言いながら足早に紅子さんはレイシーとチェシャ猫の側に行く。

 やっぱりやりすぎたな。あとで謝っておこう…… 無視されなければ。

 彼女が無視するような態度をとるとは思ってないが、嫌がるようならしばらくそっとしておくしかない。

 共同戦線中に慣れないことをするもんじゃないなあ。


「なにやってんのー? ほら、ここが図書館。レイシーのお城なんだからあんまり荒らさないでよね」


 揺るぎないチェシャ猫に案内されながら図書館に入る。

 大きな入り口を通ってそこにあったのは学校にありそうな、図書館というより図書室という光景だ。それでもこの中から一冊だけの本を探すとなると時間がかかるだろうか。

 ちゃんとジャンル分けされてれば探すのにも苦労はないと思うのだが…… ざっと見回したところ整理整頓なんてされているはずもなく、これはしらみつぶしに探すしかないやつだなと溜息を吐いた。


「アリスの本を探せばいいんだね……」


 紅子さんが呟きながら俺の横から本の群れの元へ離れていく。


「お兄さんは、別のものを探しておいてね? 頼んだよ」


 小さな囁きを残して。


「レイシー、心当たりはないかな? ここはキミの城だろう? キミの案内が頼りなんだ」

「むむ! 私様のきょーりょくが必要なようだな! よいぞよいぞ! 紅子は一番良い奴じゃ!」

「チェシャー、お前もなんか知らないか? ほらほら行くぞ」

「ちょっ、まっ、れ、レイシー! ボクはレイシーのそばから離れたくなんてないからな!」

「仕方ねぇなー。なら近いとこで一緒に探すぞ。ほらほらこっち」


 別のもの? と疑問に思う暇もなく紅子さんはレイシーと。ペティさんはチェシャ猫と図書室の奥へ向かう。

 ただ一人取り残された俺はそれに困惑しつつ、彼女達の思惑を推理する。


 まるで俺を一人にするのが目的だったみたいだな……

 ああ、そういえば今までは一人で行動することはなかったか? 

 それにチェシャ猫の目がないからか、自由に動ける。

 今のところ一番怪しいのはあの猫だし、あいつに見られていないところでなにか手がかりを探せということか。

 納得して俺は奥ではなく、手前の…… 向こうからは見えにくい位置で探索を開始した。


 書籍の種類はさまざまだが、子供向けの絵本などが多いように感じる。

 あとは洋書なのか英語タイトルのものだったり、あとどうあっても読めない単語で構成された本とか。ドイツ語とかフランス語とかなのかもしれない。俺は最低限の英語くらいしか分からないので、なにが書いてあっても理解できない。

 ペティさんなら読めるかもしれないが、俺と紅子さんは多分無理なやつだ。

 ペティさんって英語圏出身かな。どこの生まれなのか拒絶さえされなければ訊いてみてもいいかもしれない。

 もしかして俺よりペティさんを協力してチェシャ猫から引き離したほうがよかったんじゃないか…… ? 

 いやいや、でもあのとき俺は二人の意図を読めなかったわけだし、ペティさんは特にチェシャ猫とレイシーからの警戒が強いからすぐにバレたかもしれない。

 そう思うと俺はちょうどいい位置なのか。


 目線を滑らせて本棚を上から下へ。

 ピンと来るものがないか探していく。


「ん」


 ふと気になった一冊を手に取る。

 これだけノートのように薄く、そして普通の書籍ではない。


「歴代女王記録……」


 この世界に関する本だ。

 他の書籍類が全て幼い女王の好みそうなものであるのに対し、これだけ世界に関する本だというのは違和感がある。

 なにか大切なものに違いない。

 だが時間ロスになりかねないほど熟読するわけにもいかないし、見るのは最低限。斜め読みでもしながら…… と開いてみてその必要性がまったくなかったことに驚く。

 書いてある言葉は一行にも満たない。


 第1代目女王 レイシー


 ただそれだけだった。

 レイシーの名前しかそこには存在しなかった。

 いくら薄いとはいえ、冊子ではなく本だ。他のページを開いてみても白紙だけが残るばかりでどう頑張ってもレイシーの名前しか見つからない。


「どういうことだ…… ?」


 これではレイシーの言っていたことがおかしくなる。

 あの子は自分が元アリスであり、アリスは物語の最後に辿り着くと女王に取って代わると言っていた。そして女王になったアリスは次のアリスが来れば元の世界に戻り、白昼夢を見ていたように元の生活に戻れるとも。

 物語序盤のアリスは最後に目覚めるアリスとイコールでは繋がらない。別々の人物だ、と。あの言葉は一体なんだったんだ? 

 あの子が嘘をついていた? 

 けれど、あの子は嘘をさらりと吐けるような性格をしていない。

 それすらも演技だったのだ、と言われてしまえば俺にはなにも言えないが……


 いや、そういえばレイシーはアリスのときの記憶がないんだったか。

 そして、女王とアリスの関係をチェシャ猫に聞かされたのだったか? 


 …… そうなると、やはり怪しいのはチェシャ猫か。


 なにを調べても、チェシャ猫に行き着く。

 これはどうするべきか……


 奥の方に耳をすますとどうやらペティさんがお菓子のレシピを見つけたとかでレイシーにキッチンの場所を聞いているようだ。

 あれは後々俺に話が持って来られるやつだな。紅子さんが俺の作る菓子が美味しいよなんて談笑に加わってるのも聞こえる。

 ちくしょう、そんなこと言われたら絶対に断れないじゃないか……


 だがその前にもう少し情報を探らなければ。


 歴代記録の本を棚に戻そうとして、その近くに〝 不思議の国のアリス 〟があることに気がついた。

 今度はそれを手に取り、開く。

 挿し絵とかに触れなければ勝手に戻ったりしないよな? と注意しながら最後までパラパラと捲る。

 本をぐいっと開きながら勢いに任せて捲っていれば、その途中でなにか硬いものが挟まっているように停止した。

 そこにあったのは白紙のページと、その中央に挟まっている手鏡だった。


「鏡?」


 鏡の国でもないのに手鏡があるのは変だ。

 それともこれが現実へ帰るための道しるべなのか。文車妖妃の字乗(あざのり)さんがいない今、それを聞く相手もいない。そもそもあのヒト本を探すだけでいいとか言ってたしな。具体的なことは何一つ聞いてないから、帰り方も分からない。

 とりあえず触らないほうがいいんじゃないか? そう思って観察していると、唐突に気づいた。


「あれ、俺写ってなくないか…… ?」


 そう、俺が覗き込んでいるのに鏡には何一つ写っていない。

 いや、違うな。透過するように、まるでそこが鏡ではなくガラスでもはまっているように向こう側が見える。

 本の他のページすら透過して本棚がそこに写っていた。

 そして、本棚の本を一つずつ、一つずつ退かすナニカが見えた。


 俺が慌てて鏡を通さずに目の前にある本棚を見ると、確かに本が退かされているのが見える。

 しかし退かすシマシマ模様のナニカは俺には見えない。

 本が勝手に動き、別の本棚に無理矢理入っていっているようにしか見えない。

 それから、その様子を危機感すら抱かず眺めているとコンコン、となにかを叩く音が聴こえて手元に視線を戻した。


「騒がしい動物や執着心のイカれたやつ、それに泥棒や覗き魔はさぞかし透明になりたいだろうね。このボクのように。ああいや、キミがそうだとは言っていないよ? どこ見てんだか分からない陸上の魚みたいな顔してると自覚したほうがいいぜ」

「は? え、は?」


 そこにはレイシーに付き纏うチェシャ猫とは似ても似つかぬ、シマシマ模様の毛皮で不気味に笑う本来のチェシャ猫が映し出されていた。


「優れたるものが奇妙な出来事に関わると理性は腐り、溶け出していく。キミは自分の脳みそがちゃんとそこに収まってるか確認したことはある?」


 わけのわからないことを続けざまに喋る猫を黙らせようと本を閉じかけるが、そういえば大事な手がかりなんじゃないかと思い直してもう一度開く。

 それにこの猫からは神内千夜のような気配が感じられない。

 ただただ奇妙な猫。それに尽きる。あのチェシャ猫よりもよほどそれらしい、というべきか。


「そんなことしたら死ぬだろ」

「わざわざ面倒な遠回りをしてると馬鹿にされるぞ。ボクにね」

「…… お前はチェシャ猫なのか? なら、レイシーの近くにいるチェシャ猫は誰だ? この世界は、どうなってるんだ」

「よろしい。物事の正しい順序なんて永遠の謎にかかりきりになるより、欲望に素直になるのがより近道だ」


 変な言い回しばかりで混乱しそうだ。

 なんなんだよ、こいつ。


「で、答えは?」

「端的に示せば我々は乗っ取られた…… ということになるだろうね。ミルフィーユの層を重ねるように上に乗せられたやつらのせいでこうやって押し込められて〝 ペタンコ 〟になっているのさ。帽子屋やボクはある程度それを免れた。友は既に無に帰してしまったようだが、ボクはここに潜み、待ちの姿勢のまま全てを眺めてきた。全てをだよ」

「つまり、本来この世界のチェシャ猫はお前ってことなのか?」

「鏡に映ったもののほうが実物よりも現実に近い場合があるのだよ。ボクがチェシャ猫なのは間違いないさ。そして、ヤツもチェシャ猫さ。だからかもしれないが、ボクには彼や彼女の記憶を覗くことができるようだ。彼らは外の世界からやってきて、そして乗っ取った。この世界にその体を埋めたのだから世界に記憶が投影されるというのも、いたしかないことだね」


 つまり? 

 もしかして事情が分かるってことか? 

 レイシーは憶えていないって言ってるし、チェシャ猫はどうあっても教えてくれないだろうしな。

 この状況をなにか知ってそうなチェシャ猫は分かってて隠している感じがするからな。


「見るかい? 深淵を覗くときはなんとやら、だがね」


 深淵もまたこちらを見つめている…… ってやつか。

 まあ見るしかないだろ。

 これは間違いなく重要な手がかりだ。


「ふむ、よろしい。実によろしいことだ。なら、よおくこの鏡を見ていてご覧」


 言われるがままに鏡を覗き込む。

 そこに映ったのは道路に飛び出す黒猫。そしてそれを抱いて泣くレイシーに似た少女。泣く少女に近づき、赤い液体の入った小瓶を見せる〝 あいつ 〟…… 不服ながら俺の上司。


「飼い主、もしくはご主人様ではなくて?」

「なんだってお前らみたいなやつは心を読んでくるんだよ」

「キミの精神に直接鏡を通して見せているものだからさ。鏡と精神を直結させている。そりゃあ見放題だろうね」


 うっわ。

 先に言ってくれよ。今は仕方ないけど。


 映像は続く。

 死んだ黒猫の怪我が繕われるように修復されていき、不気味に笑うあいつ。

 そして次に映ったのは少女が怪我をする多数の場面。それも黒猫の傷があった場所と同じ場所に。

 次第に怪我の頻度は増え、重くなっていき、最後には病院生活が待ち受けていた。

 それを眺める黒猫に、余計な知恵を授ける真っ黒な烏。

 …… あの烏からはあいつと同じ感じがした。

 そして、その感覚は赤い液体を飲まされ、復活した黒猫からも。


 黒猫は烏の助言を受けて文字通り、体が〝 作り変えられて 〟いった。

 体内から飛び出た真っ赤な尻尾…… いや、あれは触手のようなものだった。明らかに黒猫とは別の生き物に成ってしまっている。


 黒猫の原動力は、独占欲。

 死んだ黒猫と、同じ場所に怪我をするレイシー。

 怪我をしなくなった黒猫。

 どちらも同じ場所に〝 あいつ 〟の姿あり。


「…… なるほどな?」

「今のを見て、なにか分かったかい?」


 ああ、分かった。

 あいつは俺から見て後味の悪い物語を演出するのが好きだ。

 そんなこと今までの経験で理解している。

 それを鑑みて今ある状況を整理してみれば…… ? 


 元の黒猫には嫌な感じがしなかった。

 あの液体を飲まされてから黒猫はあいつと同じ感じがするようになった。


 黒猫が飲まされたのは? 

 赤い液体。

 あいつと同じに。


 あれは、邪神ニャルラトホテプの血液だ。

 黒猫はあいつの眷属ないし化身へと作り変えられた。


 …… あの野郎ちゃっかりしやがって。


 それから、レイシーと黒猫の怪我の問題だな。

 単純に、黒猫が負った傷をレイシー自身が肩代わりしているように見えた。

 つまり、レイシーはあのまま行けば黒猫と同じ怪我を負って死んでいたと推測できる。

 烏はそれを黒猫に伝えた。黒猫が生きたからこそ、レイシーが死ぬということは伏せて。


 そして用意されたのがこの本の中の世界だ。

 現実世界でなければレイシーは命を永らえられる…… そんな都合の良いことあるのかは分からないが、黒猫はそのためにいくつもの嘘をレイシーに吐いている。


 猫はレイシーのためだけに行動している。

 ならば、多分アリスを撃退したらそのあと俺達はお役御免だろう。

 別にレイシーを助け出せなんて依頼は受けてないわけだし、俺達にあの子を助ける義務もない。黒猫と一緒にいるのがあの子の幸せならそれでいいかもしれないからなあ。俺がなにかしても一人と一匹にとって余計なことかもしれないわけだ。


 ううん、やっぱり全員に話すのは少し待とう。

 ある程度の仮説はできたが、本命ではない。もしかしたら違う事実が隠れてるかもしれないし、他の皆にはまだ話すべきではない。

 そもそも、あのチェシャ猫がいる限り話すわけにはいかないからなあ。


 必要になったら話す。これが一番だな。


「流れに身を任せるんだね。浮くものはちゃんと浮くものだ」

「お、おう……」


 困惑しているうちに鏡の中の猫が徐々に消えていく。

 最後の方は顔が残り、そして不気味な微笑みを浮かべた口元だけが取り残されて、霞のように消え去る。

 俺も引き止めようとしたが、それは叶わず、突然肩を叩かれたことで驚き変な声が出た。


「っふぁ!?」

「え、どうしたのお兄さん……」


 気がつくと、俺の周りには紅子さんを含めて全員が集まっていたようだ。


「ねえねえ、キミなに見てたの?」


 チェシャ猫が俺の手元を覗き込むようにして、それから首を傾げた。

 俺は見られたらまずいと思って本を閉じようとしたものの、そこにあったのが手鏡ではなくチェシャ猫の挿し絵だったことで手が止まる。

 いつのまにか集まっていた皆といい、まるで白昼夢でも見ていたような心地だ。

 あのチェシャ猫は一体どこにいったのか。そして、なんだったのか…… 本来のチェシャ猫だったらしいが…… 他の住民達はどうだったんだろうな。

 ほとんどアリスにやられてしまっているが…… 帽子屋もやられたって言っていたし、あの猫はこれから一匹で過ごすのか…… ? 

 …… あんまり余計なことを考えるのはよそう。


「…… アリスの本を見つけたから、これで帰りは大丈夫なんだろ?」

「ん、ああ。それがあれば問題ないぜ。ヨモギの言いつけも守ったし、もう城のてっぺんにいっても大丈夫だ」

「ふむ、いよいよアリスに会うのか…… 緊張するのう」

「よーし! さっさと追い出そうね! レイシー!」

「う、うむ」


 こいつらがいると賑やかだなあと思いつつ、レイシーが好きそうな螺旋階段を登る。

 途中特になにか起こることもなく、最上階に着いた。

 どうでもいいが、偉そうだからという理由で最上階を選ぶと自分で上がるのが大変すぎないか? と思わなくもない。

 レイシーはどうなのだろうか。チェシャ猫に抱えられながら登ってきたりするんだろうか…… 今みたいに。

 そうなんだろうなぁ。なんせ、 「レイシー! いつものように抱っこしてあげるよ!」 「や、やめるのじゃ! こやつらが見ておるだろうが! 私様にも恥というものはある!」 「恥なんかじゃないよ! だって可愛いからね!」 なんてやり取りをしていたからな。


「ははっ、賑やかでいいな」


 ペティさんが笑うと、レイシーは抱き上げられたままむくれて俯いた。

 あーあ、からかうような口調で言うから嫌われるんだぞ……


「妬けるねぇ…… と、さあ、目的地についたみたいだよ」

「ああ」


 紅子さんに促されて大扉を前にレイシーとチェシャ猫を見る。

 チェシャ猫が軽い首肯して扉を見つめたので、俺が前に出て代表して開く。

 ギイ、と重厚な音を立てて開いていくその扉の奥は、ピンクと白と赤と…… とりあえずレイシーが好きそうな色やファンシーな雰囲気の部屋だった。


 その中心のベッドに沈む黒いエプロンドレスの女の子が、ゆっくりと起き上がる。

 その真っ赤に染まったような瞳が、こちらをぼうっと見つめて、そしてレイシーと彼女を抱えたチェシャ猫でピタリと止まった。


「あ……」


 少女、アリスがベッドから降りてふらふらと、心配になるほどの足取りでこちらへ歩み、言った。


「お、ねえ…… ちゃ……」


 俺が目を見開くのと同時にアリスへ覆いかぶさるように泳ぐ妖紙魚が現れる。


「あ…… うん、そ、だね…… 殺さなきゃ、女王さま」


 言いかけた言葉を遮るように。

 アリスから理性を奪い去るように。


「なんで、だっけ」


 呟いた声は、悲痛で。

 でも彼女が構えたナイフは紛れもなくこちらに向けられていて。


「許せないねぇ…… うん、頑張ろっかお兄さん」

「そう、だな」


 紅子さんは本当に揺るぎないなあ。

 いつもクールな彼女の瞳には燃え上がるような怒りが見える。

 ああ、頑張らないとな。


「狙うは魚だけだぜ、いいな?」

「もちろんだ!」


 ペティさんのその言葉が、開戦の合図だった。









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