トランプ兵の墓場
ふわふわとしてなんだか気持ちいい。
頬に触れる案外柔らかな紙の感触が心地良い。
夢見心地で進む。進む。スキップでもするように。
女王様に会うの。女王様に会わなくちゃいけないの。
そうして、みんなみんな壊すの。
白いウサギさんは女王様のご機嫌が不安みたいだったから、女王様が好きなのだという真紅で塗ってあげた。イモムシは裏切り者。だって中身は女王様の好きな赤色じゃなくて青色だったから。きっと別の人に傾倒してたのね。
薔薇を塗っている兵隊はどうあってもペンキの量を増やせないから、心配事をもうしなくていいようにしてあげた。
あたしを見つけて逃げてく人はお魚さんが追って行った。
帽子屋はお城の前で問答をしてきたけれど、あたしはそういうのは得意だからすぐにデタラメに答えてあげた。
ああいう問いにはデタラメで返すのが礼儀なのよ。
お城の中にあった厨房で、一切れだけなくなったタルトを食べた。
誰かの残り物かな。残したなら冷蔵庫に入れておかないとだめなの。じゃないと怒られちゃうから。
…… 誰に?
まあいいか。
お城のてっぺんに女王様のお部屋があった。
すぐそこにいたトランプの兵隊さんに訊いたからすぐに分かったわ。
でも留守みたい。ここで待ちましょう。謁見をしなくてはならないから。
…… えっと、なんで謁見しなくちゃいけないんだっけ。
まあいいか。
頭を撫でる紙でできた尾が考えることを後回しにさせて、あたしはその部屋の大きなベッドにごろんと横になった。
女王様のお部屋は赤とピンクの派手な場所ね。目に痛くならないのかな。ハート模様とダイヤ模様ばかりの女の子らしいお部屋。
馬鹿みたいに子供っぽいお部屋。
すん、とベッドで息を大きく吸ったら、なんだかとても懐かしい気がして考える。
ふわりふわり、尾で撫でられる。
どうでもいいか。
でも、なんだかとてもとても愛しいの。
お魚さんがあたしの上に覆いかぶさってくる。
うん、分かってる。
壊さなくちゃ。
壊さなくちゃ。
壊さなくちゃ。
全部、全部。
なんで壊さなくちゃいけないのかなんて忘れた。
どうして壊さなくちゃいけなくなったのかなんて忘れた。
とにかく、壊さなくちゃいけない。この世界の全てを。それに都合がいいのが、多分このお城の女王様を最初に殺すこと。
でも、このベッドに沈んでいると、そんな気持ちも少しずつ、少しずつ薄れていく。
魚のヒゲが頬に触れた。
ありがとう、お魚さん。あたしの憎しみを忘れさせないようにしてくれて。
でも、矛盾したふたつの気持ちが重なり合って、すごく気持ち悪くなってきてしまうから。
だから、あたしはほんの少しだけお昼寝することにしよう。
次に目が覚めるときはきっと女王様の前ね。
早く会わなきゃ。早く会って…… 壊すの。
「はい、燃えろー。ふぁいあー!」
「適当かよ!?」
俺達は順調に国の住民を解放していた。
その代わり、回を増すごとにペティさんの魔法が適当になっていったのだが。
「そんな適当でいいのか?」
「最初に形式張ってやったのはお前らのためだよ言わせんな恥ずかしい。俺様はもうベテラン魔女だからな。思念さえこもってればどんな文句でも魔法は発動するぜ」
ペティさんはなぜそんなにも胸を張っているのか。それも腰に手まで置いて。
ほんの少しでも格好良いな、頼れるなとか思った数十分程前の俺を全力で殴り倒したい。
「んな顔するなって。チベットスナギツネみたいだぞ」
なにを言っているんだこの人は。
「キミは少し、現代に染まりすぎじゃないか? 命日はもっと昔だろう」
「そう言って、ネタが分かってるベニコも大概だろ。まあ、確かに俺様が死んだのは相当前だな。なんせ魔女狩りが終わるくらいの時期に死んでるし。勘違いではあったが、死後魔女になったから未来予知だったんだと思えば当たりなのかもしれないなあ」
「…… 墓穴を掘ってしまったねぇ。死んでるだけに」
自虐ネタが過ぎるぞ。亡霊ジョークはやめてくれ。
さらっと思い出話みたいに重い過去を語らないでほしいぞ。胃が痛くなってくるじゃないか。
「ま、そんなことはどうでもいいんだよ。過去は過去。今は今。マイナスなことはすぐ忘れるに限るってな。それが、辛くない生き方なんだぜ」
「あー、そうできたらそうしてるよ。とっくにさ」
よくもそれだけ明るくいられるものだ。俺には到底できやしない。ジメジメといつまで経っても失敗を忘れることができないし、割り切ることもできない。あのときああすればなんて思ったのは何度目だ? 数えきれない。
「性格それぞれだしなあ。相談相手にならいつでもなるぜ、レーイチ。そういうときは誰かに話すといいもんだ。ところで、さっきの魔法の話だが、お前は数字得意か?」
話題転換が唐突すぎて、一瞬なにを言われたのか理解できていなかった。頭の中で噛み砕き、一泊置いて答える。
「え? あ、いや…… 高校で習うものが途中までと、他に少しだけあいつに仕込まれた分があるけどな…… 得意というわけではない」
「そう難しい話じゃないぜ。数字の問題ってやつは式と、答えを書く必要があるだろ? あー、合ってるよな? 師匠から出される問題は現代に沿ってたらしいから、そういうもんだと思ってたんだが」
「合ってるぞ。式を書かないと点がもらえないなんてことはよくある」
ペティさんは安心するようににかっと笑うと、胸の前で人差し指をピンと立てた。
さっきからチェシャ猫とレイシーが静かだが…… 脇を見ると紅子さんが無言で首を振り、指差す。近くの切り株でチェシャ猫に抱きかかえられたレイシーが寝ている。2人ともどうやら疲れて眠ってしまったようだった。
妖紙魚もこれで5体目。まあ、小休憩にはちょうどいいだろう。
ペティさんの魔法講座をちゃんと聞いておこう。魔法ってやっぱり憧れるし、俺にできるかは分からないが、知っていて損はないだろう。
「で、だな。これを魔法に例えると、式が詠唱で、答えが詠唱によって起きる魔法そのものだ。数字の問題なんてそのうち暗算でなんとかできるようになるだろ? 簡単な問題なら尚更だ。1+1=2。まあ、他にもパターンはあるだろうが、まず最初にこの答えが出てくるよな? 魔法も一緒だ。式を書かなくても、暗算…… 無詠唱でなんとかなる。俺様のはちょっとした遊び心だからな、答えを早々に書いてさらに図まで描いてるようなものか」
「おお、そう言われると分かりやすいな」
ペティさんにとって、この火を灯す魔法はそれだけ簡単な問題なのだろう。ベテラン魔女って言ってたし、多分もっと複雑な魔法でも詠唱なしでできるんだろうな。思っていたよりもすごい人だったか。
いや、ケルベロスの弟子なんだからすごくて当たり前か。あのヒト条件厳しそうだし、有望株でもないと門前払いしそうだ。
となると、ペティさんって意外とすごい人なんだなあ。
「おいおい、なんか失礼なこと考えてないか?」
頭の後ろで手を組んで意地悪気に笑う彼女にドキリと心臓が跳ねる。勿論ラブロマンスとは一切関係ない、後ろめたさでだ。
「えっ、す、すみません」
思わず声に出て、 「あ」 と思う。顔にそれがありありと出ていたのか、ペティさんは魔女帽子のリボンを指で手遊びしながら苦笑した。
隣の紅子さんも呆れたように溜息を吐いている。
「おっと、本当に考えていたのか。あっさりと騙されてくれて助かるぜ。レーイチは単純だなあ」
「くっ…… 馬鹿正直で悪いな」
悔し紛れに声を絞り出すと、更に隣から追い討ちがかけられる。
「やれやれ、お兄さん遊ばれてるねぇ。アタシで慣れておかないからこうなるんだよ」
「慣れるって言ってもな…… 別に疑うことを知らないわけじゃないんだからいいだろ」
疑うべきやつのことはちゃんと疑うし、脳吸い鳥のときだって、それとこれとは別に考えてちゃんと真相を突き止めたしな。
俺だって疑うときは疑うんだよ。今は必要ないだけだ。仲間なんだから。
もし裏切られるようなことがあっても、ちゃんとなにがあったのかを突き止める努力はするさ。それで納得できる理由ならなにも言わないし。
「…… お兄さんも、ほどほどにね」
なにかを察したように紅子さんが呟く。
出会ってから一緒に行動することが多いとはいえ、ちょっと察しが良すぎなんじゃないか? なんて少し恐ろしくも思う。
まあ、この感情が彼女達の食事にもなるというのなら、構いやしないか。
「っと、レーイチを揶揄うのはここまでにしようか。お姫様が起きたみたいだぜ」
ペティさんの声に促されてレイシー達が寝ていた場所を見ると、欠伸をしながら伸びをしている場面だった。
チェシャ猫のほうも四つ足ついてグイッと腕を伸ばしている。こうして見ていると本当に猫なんだな。
「姫ではない…… 女王様じゃ…… んむ、姫も良いものじゃが」
「ふわわ、寝ちゃったー。レイシーの懐があったかいからだね!」
むしろレイシーがチェシャ猫の懐に収まって寝ていたが、猫的には逆の構図なのだろうか。
実に猫らしい動きでチェシャ猫が起き上がり、はっとしたように顔を手で覆った。人の姿を取っているのに猫っぽいことをしたせいか?
「それじゃあ、そろそろ目的地に行くか」
「やっと城に帰れるんじゃなあ……」
少し遠い目をしたレイシーが言った。
そりゃそうだ。城に向かいながら妖怪魚を対処するはずが、乗っ取られているだろう登場人物達が目に入る度追って移動していたら疲れもするし、道からどうしても外れてしまう。
割れなかったハンプティダンプティが、魚を引っぺがした途端時間が早巻きにされたように割れてしまい少し心にきたり…… 公爵夫人が赤ん坊を殺そうとするのを止めたり、あろうことかレイシーにそっくりな女の子―― メアリーアンに出会ったりした。
メアリーアンは白ウサギがアリスと見間違える人物のはずだが、物語に明確に登場する場面はないはずだ。
メアリーアン自体が召使いの俗語らしいから、アリスをその場限りの召使いに任命したのか、それとも本当にアリスにそっくりな召使いがいたのかも不明だ。
ハンプティダンプティと同じように、彼女も魚を引き剥がしたことにより空気中に溶けて消えていった。
この場合、きっと物語中に出てきていないことが彼女の取り上げられてしまったアイデンティティだったんだろうな。
せっかく体を手に入れることができた彼女は、泣きながら透明になって消えた。正しいことをしているはずなのに、なんだか心苦しくなる。
その心苦しさも、一定の割合を超えるとニャルラトホテプに付けられたネックレスとチョーカーが光って霧散していく。
俺の精神を壊さず、それでいて長く玩具として楽しもうという意気込みを感じるな。いらん加護だ。いっそ狂ってしまえたら楽だったんだがな。
俺はそうすることを〝 許されていない 〟のだと、あいつがいないときにまで自覚させられる。
「なあ、アリスは移動してないんだよな?」
「ああ、あちらもアタシ達…… レイシーを探している可能性があるんだよねぇ。あれだけ執心していたんだ。探し回っていてもおかしくないけれど」
「移動してないよ。アリスはずっと城のてっぺんで動かない。お昼寝中かもねぇ」
「待てチェシャ。なんでんなこと分かるんだ?」
「この箱庭のことならボクに任せなさーい! ってことだよ。なんてったってチェシャ猫だもの」
チェシャ猫と言えばなんでもお見通しな不思議な奴ってイメージはあるよな。そういうことだろうか。だが、なぜそんなに客観的に自分のことを言うのか。
ざくざくと土を踏みしめながら森を抜けると、今度は一面の薔薇園が目に飛び込んできた。
ところどころ白薔薇が混ざっているが、その上から塗料が被せられていたり、どくどくと真っ赤な血液を出すフラミンゴが逆さに吊るされていたりして軒並み赤く染め上げられているとち狂った光景が俺達を出迎える。
今すぐ回れ右をして帰りたい。
よく見ると薔薇園の道に点々とトランプの兵隊が横たわっている。
まるでトランプ柄のカーペットでも敷かれているみたいに。
道なりにそれらが続いているのだが、本当にトランプだけのものと、頭がついた兵隊とあるものだからややこしい。
「お前達…… ひどい、ひどいぞこれは」
「たくさんの兵隊が死んだのか」
「…… いや、違うよ。トランプになってしまった子は死んでいて、それ以外はまだ生きてるんだよ」
チェシャ猫の返答に目が見開かれていくのが理解できた。
そして次の瞬間には頭で考えるよりも早く体が動き、頭がくっついている兵隊を抱き起こしに行く。
「もう、お兄さんったら猪突猛進なんだからっ」
後から紅子さんが走って追いかけてくる。
ペティさんはまだ知り合って関係が浅いせいか、横目で驚いた顔で 「おい」 と言うのが見えた。
言葉を置いてけぼりにして薔薇園の中に入り、上から滴ってくる血を軽く避けながら一番近い兵隊のそばにしゃがむ。それから兵隊の背を軽くつついて意識があるかを確認した。
「おい、まだ生きてるんだろ。意識は」
言いかけて、勢いよく後ろに飛び退る。
しゃがんだ状態からだったためかなり足にきた上転びそうになったが、手で支えて態勢を整える。
俺が先程までいた場所にはなにかが刺さり、そしてそれが透明になって空気に溶け込んでいくのを目撃する。
あれは何度も見た。あれは妖紙魚のヒゲだ。
「ってことは」
もしかして、この生き残った兵隊全部が。
「ちょっと、お兄さん! 少しでも罠だとは思わなかったのかなぁ!?」
「悪い…… なんも考えずに飛び出してた」
「馬鹿だね! そういうとこ大っ嫌いだよ!」
こういうときは、と背負っていた竹刀袋から刀を取り出す。
仲間が多いのは良いことだ。俺がもたもたしてても牽制してくれるから、ゆっくりと赤竜刀を取り出すことができる。
「リン」
「きゅうい」
赤竜刀から抜け出た赤い光が徐々に小さなドラゴンの形を作り、返事をするようにくるりと円を描いて鳴く。
それから俺の肩にふわりと着地し、首元をこしょこしょとくすぐった。
「まだまだいるみたいだな、相棒」
「きゅ! きゅうい!」
過去五度の戦闘でリンも見慣れた相手だからか戦意は充分。
こいつはレイシーに可愛いだのなんだといじくり回され、子供相手の通過儀礼のような目にあってからずっと刀の中で休んで省エネモードになっていた。
今は離れているし、数が多いからチェシャ猫も爪をギラつかせ戦闘モードっぽい仕草をしている。多分チェシャ猫自身はレイシーから一切離れる気がないだろう。
だから討ち漏らしのないように、紅子さんと俺で食い止める。
援護でペティさんも砲撃してくれるわけだしな。
陣形はこうだ。
俺達が敵の闊歩する薔薇園の中。チェシャ猫は後方でレイシーの前に立ち、異形の手を地面につくほど前屈みになって降ろしている。前を見据えていつでも飛びかかれるような姿勢だ。あの猫はレイシーを守ることにしか興味がない。放置。
ペティさんはその二人の少し前。多分、こちらへ投擲物が届くくらいの位置取りなんだろう。彼女の戦い方は物理ではなく魔法や道具中心だからまあ当たり前か。
「紅子さんはどうする?」
「アタシは隠れながらやるのが得意だねぇ。大丈夫、危なくなったら援護しに来てあげるよ」
「自分が危なくなることはまったく想定してないな?」
「誰にものを言ってるんだよ、おにーさん。アタシは赤いちゃんちゃんこだ。首をかっ切るのもお手のもの…… だろう? だってアタシは」
―― そういう怪異なんだからさ。
背中越しに顔を向けて話していた彼女は、少しだけ寂しげに目を細めた。
「紅子さ」
「じゃ、少し働いてこようか」
俺がなにか言う前に紅子さんは一息で跳躍し、薔薇園の中に消えていく。周りには垣根のようになってしきりのような低木の薔薇もあるが、物語の中のように背の高い木々に薔薇が咲いている箇所もある。そんな品種は現実にはないんだろうけど、隠れ場所は沢山ある。
さて、俺も集中しよう。
まずは呼びかけから。
「兵士達を〝 返して 〟もらおうか」
ベリベリとくっついた紙が剥がれるような不快な音があちこちから響き、一斉に浮かんだ魚が俺に視線を寄越す。いや、あいつらは番号のようなものを布か紙切れかなにかで顔を見えなくしているから断定できないが、確かに視線を感じる。
空中に浮かぶそれを突き上げ、叩き落とし、リンが炎で炙る。
炎が弱点なのは先の出来事も含め明白なので、リンの火力で仕留め切ることもできる。あんな手のひらサイズの体からよくもそれだけの火力が出ると思う。
紙だから刃物も弱点かと思っていたが、実際刀で斬るとなるとなかなか難しい。ハサミや裁断用の刃とは違うからなあ。
だからかどうしても叩っ斬るよりも突き破る方が中心になってしまう。あいつら飛んでるし。
「こんにちはかな? 死ね」
頭上から紅子さんが落ちてきて、俺の背後に迫っていたらしい魚をビリビリに引き裂いた。
「わっと、ごめん紅子さん」
「乱戦素人に期待なんてしてないよ。でも守られてるのは性に合わないだろうし、仕方ないお人だよねぇ」
なにもしてないのってなんか嫌なんだよな。
それなら体を動かしていたいし。俺が直接立ち向かう方がリンの力も底上げされるし…… 言い訳か。
邪神この野郎になにか仕掛けられたとき、戦いの経験も活かせるかもしれないし…… やらない選択肢はない。
「こいつに首ってあるのかな…… まあいいか。赤いちゃんちゃんこらしく紅白目出度い柄にでもしてあげればいいよねぇ!」
紅子さん楽しそうだなあ。
木々から木々へ、ときに薔薇の生垣を隠れ蓑に飛び出したり、人魂になって移動したり、臨機応変に対応している。見つからないうちに仕留めているのでなかなかエグい。
「あと何匹だ? っていうか燃やさなくちゃダメなんじゃなかったか?」
リンがいくらか燃やしてお焚き上げしてるが圧倒的に手数が足りない。追いつけない。特に紅子さんが仕留めたやつは燃やさない限りトドメを刺さないから。
…… と思って蠢くヒゲやらを受け流しつつ後始末に駆ける。
「リン、俺のほうはいいから燃やしてくれ」
「きゅううー」
何匹かを燃やしてからリンが首を振る。
「なんだ?」
「きゅ! きゅきゅきゅ!」
俺の周りを幾らか飛び回ってリンが首を振る。
「一定以上遠くに行けない、とか?」
「んきゅ……」
落ち込むリンの頭を人差し指で撫で、慰める。
「無理言って悪かったな。さて、どうすっうおわぁ!?」
俺がまた動き出しそうになった魚を斬りつけに行こうとしたら、背後から勢いよく炎の塊が飛んできて危うく転ぶところだった。
「ペティさん!?」
「悪い! 思わず炎魔法が出ちまったよ! ちゃんと避けないと危ないぞ!」
遠目に見える彼女の手にはさっき使ってた種火の魔法と、もう片方の手に持ったなにかの缶。特徴的な柄からして害虫駆除のあれだ。
それにしたって射程距離がおかしいだろ。どんだけ離れてると思ってんだ。
スプレーと種火…… 魔法とは?
「というか危ないぞって言われてもな」
後方支援はいいんだけど、怖いんだが。
これは倒れたこいつらを気にせず浮いてるやつをばったばったとやればいいということか。
なにも心配せずにやるだけならまあ嬉しいが。
さて、そうして危なげなく合計五十程の魚をなぎ倒し続け、最後の一匹がお焚き上げされた。
紙だから体液が出ないのは楽でいい。血を被るのは勘弁したいし。
ただ、無理矢理紙を斬ってたせいか切れ味が落ちてないかが心配か。
「よしよし、帰ったらちゃんと手入れするからな」
「きゅうん」
嬉しそうなリンの首元をこしょこしょとくすぐる。
取り敢えず紙屑がついていたらいけないので、綺麗なハンカチで軽く吹いてから納刀する。居合とかやってみたいけどなあ…… そっちはまったく分からないから、今のところ力任せの脳筋思考で振るっているし、振るわれるリンには本当に申し訳ない。剣道と実戦は違うんだ。いろいろ勉強しないと大した戦力になれないよ。
同盟では討伐とかもあるようだし、慣れとかないとなあ。
「よーしこれで最後だな」
「お、終わったのか? 終わったんじゃな?」
「終わったみたいだよレイシー! 大丈夫? もう怖くないよ。あ、でもボクにくっついててもいいからね」
ぴるぴると震えながら猫に抱きつくレイシーに、満更でもなさそうな猫が終わったことを確認して薔薇園へと歩いてくる。
「誰か意識のあるやつは……」
ざっと倒れた兵隊達を見渡していくが、望みは薄そうだ。
今までのやつらは怪我もなく無事だったが、こいつらは殺されかけ、そして放置されてから憑依されたのだろう。残らず気絶しているし、辛うじて生きていたやつが一枚、また一枚とただのトランプに変化していく姿さえある。
「こりゃあトランプの墓場だねぇ」
「ジョーカー抜いたワンセット分はいるな。魚の数もそれぐらいだったし…… こいつらもお焚き上げしてやったほうがいいんじゃねーの? その辺どうなのよ、女王サマ」
「このままにしておくのも哀れじゃが…… なんとかならんのか?」
「なんとかって?」
悲しそうなレイシーが珍しく突っかからずにペティさんへ質問する。
それに対してペティさんは心なしか眉を顰めながら返した。
「元に戻したりはできないのじゃろうか……」
「無理だぜ、おチビさん。いやー、ガキだねぇ。いくら魔法使いでもな、やっていいことと悪いことがあるぜ」
「できるのではないか!? あとチビ助ではない!」
「チビ助とまでは言ってないんだがなあ…… だーかーらー、倫理的に無理だ。っていうか嫌だぜそんなの。生き返らせたいならあいつらと同じだけの命と寿命を誰かから奪う必要があるんだ。お前さんの命を使ったとしてもトランプ兵一枚分にしかならないぜ」
「…… っそれは、お主がポンコツ魔法使いなだけじゃ! 私様は、私様は知っているぞ! それができるやつを! お主なんかに一瞬でも憧れた私様がバカだったようじゃ! 行くぞチェシャ」
「はーい」
素直に返事をしたチェシャ猫がこちらを向く。
レイシーに向ける物とはまったく違う冷たく、無機質な相貌だ。
「…… あんまりふざけたこと言わないでよね。レイシーを傷つけるならこの手で引っ掻いてやる」
あまりにも大きな爪のある異形の手を、チェシャ猫は脅すようにこちらに向ける。けれど、すぐにレイシーが彼を呼ぶと素直に返事をしなから彼女に侍りに行くのだ。
ペティさんは、その反応を訝しげに見つめながら飲み込めないなにかがあるような顔をして首を振る。
「まだ断定はできねーからなあ…… あーあ、シラベがいれば一発なのによぉ」
そんな一言を残して。
「シラベ…… ?」
「アタシの保護者。ほら、さとり妖怪の鈴里しらべだよ」
ペティさんの代わりに紅子さんが答える。
「ああ、鈴里さんか」
脳吸い取りの後会ったっきりだったか?
あの人にはいい思い出はないな。しかしさとり妖怪なら、確かに事件の解明は早そうだ。
チェシャ猫と、レイシー。
どちらも、なんだか怪しい。レイシーはただただ無邪気なだけかもしれないが、特にチェシャ猫はあいつと似ているから…… 余計に警戒心を持ってしまう。
心を読めれば分かるんだろうが…… うん、必要ないな。
今まで死んでいった人達…… その全ての心の内が分かったらと思うとゾッとする。知りたくない。きっと、知らない方がいい。
わだかまりを抱きつつ、俺達はようやく城の中へと一歩踏み出す。
…… 城門に引っかかった奇抜な帽子が、手を振るように揺れていた。