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「大切なもの」を奪う魚

 



 あたし達が家に帰ってきたとき、いつものように気をつけて入ったのにジェシュが外に飛び出した。お姉ちゃんが大きな荷物を入れるためにドアを開けたまま四苦八苦していたからだ。

 猫がすり抜ける隙間なんていくらでもあった。初めての外にワクワクしていたのかもしれない。黒猫はすぐに道路へと飛び出して行き、見えなくなった。

 そして、お姉ちゃんもそのあとすぐに飛び出した。大荷物を放り出して、すごい音がするのも気にせずに。あたしも当然あとを追いかけた。ジェシュは小さな頃からお姉ちゃんが面倒を見ている大切な家族だから、当然だった。

 あたしには全然懐いてくれないからちょっと嫉妬していた部分もあったけれど、あたしにとっても弟のようなものだから、ただ純粋に心配だった。

 今までは気をつけていたとはいえ、今回はあたしとお姉ちゃんの不注意だったのだから。


 足の速いお姉ちゃんと、猫のジェシュにはさすがに追いつけない。

 あたしはすぐに見失ってしまったけれど、お姉ちゃんの悲痛な声で居場所がすぐに分かった。

 悲鳴を聞いた時点でなんとなく想像はついていたけれど、ジェシュは黒いツヤツヤの毛皮を真っ赤に染めてお姉ちゃんに抱き抱えられていた。


「お姉ちゃん! ジェシュ見つけ…… ジェシュ!? そんなっ」


 腕も変な方向に曲がっていて、お腹の中がぐちゃぐちゃで、切り傷のような箇所も多くて、正直直視するのはおろか、抱き抱えるなんて信じられないくらい酷い状態だった。

 そんなジェシュを抱えて泣いているお姉ちゃんは精神的にどうにかしていたんだと思う。

 あたしはゆっくりと言い聞かせるように、年上のお姉ちゃん相手に話しかけた。


「お姉ちゃん、ジェシュを連れて行こう? お父様とお母様に言わないと」

「いや、いやだ! ジェシュはまだ大丈夫……」

「お姉ちゃん……」


 やっぱりお姉ちゃんはどうにかしている。

 大事な弟の非常事態にものすごく混乱しているんだ。

 あたしがしっかりしなくちゃ。両親を呼んで居場所を伝えないと。


「お姉ちゃん、あたしお母様達を呼んで来るわ。だから、ちゃんと待ってるのよ。風邪ひかないように、せめて端に避けて……」


 雨まで降り出してきた。

 でもあたし達は当然傘なんて持ってきていない。このままではずぶ濡れになってしまうからと、お姉ちゃんに言い聞かせたけれど、多分効果はないだろうな。


「待ってるのよ?」


 こんな状態のお姉ちゃんを置いていくのは気が引けたが、両親もあたし達を探しているはずだ。早く報せないといけない。


 …… 両親を連れて帰ってきたとき、真っ赤な色なんて見当たらないジェシュを抱えたお姉ちゃんがいた。


「見てアリシア! ジェシュが見つかったのよ!」


 信じられなかった。

 お腹の中身まで出ていた黒猫は一切の傷もなく、お姉ちゃんの腕に収まっていたのだから。

 すうすうと寝息を立てている彼に恐る恐る手を伸ばす。

 温かく、ふにふにと柔らかい。確かに生きていると感じる。


「うそ……」


 あたしは両親にこっ酷く叱られた。

 ジェシュが死んでしまったなんて、酷い嘘を吐いたのだと糾弾されたのだ。嘘なんてついていない。でも、あの惨状を見ていないのなら信じられなくても仕方がなかった。だって、あたしが1番信じられなかったんだから。


 それからジェシュは何事もなかったかのように毎日を過ごした。

 対して、お姉ちゃんは…… 怪我をすることがすごく増えた。

 それも、あたしが覚えている限り…… ジェシュが負った小さな傷と全く同じ場所を。ジェシュの大怪我した部分はお腹と左腕。そして左目だ。他は細かい擦過傷や打ち身、それに骨折して骨が突き出していたというもの。

 そのうちの、小さな傷をお姉ちゃんは彼と全く同じ位置に受けるようになった。

 これはあたしの勘違いなんかじゃない。勘違いで片付けたら、取り返しのつかないことになると、なんとなく気づいていた。


 日に日に傷が増えて行くし、日に日にその傷の規模が大きくなっていく。

 そんなときに、今回の轢き逃げ未遂だ。もう少しでお姉ちゃんは車に轢かれるところだった。あたしが手を引かなければ、あのときのジェシュのようにお腹の中身をぶちまけていたのかもしれない。

 あたしは、もうあの黒猫のことを愛せない。

 きっとジェシュはもう既に死んでいて、別のなにか…… たとえば悪魔とかに成り代わられているのだ。

 悪魔はお姉ちゃんを連れ去ろうとしている。防がないと。お姉ちゃんは渡さない。お姉ちゃんを死なせてたまるものか。


 悪魔はお姉ちゃんのいる病院にまでやってきた。

 どうしよう。どうしよう。追い払いたくても、ジェシュが近くにいるとお姉ちゃんが喜ぶからできない。お姉ちゃんに嫌われたくはない。


 そして、前日まで元気だったお姉ちゃんが眠りから目覚めなくなってしまった。原因は不明だという話だけれど、きっとジェシュだ。あの悪魔がお姉ちゃんを捕らえているのだ。

 でもあたしにはどうすることもできない。それが悔しくて、悔しくて、何度も泣いた。

 毎日お見舞いに行った。学校なんかどうでもよかった。お姉ちゃんが戻ってきてくれるなら、他にはなんにもいらなかった。


 そしてその日もあたしはお見舞いに来ていた。

 そんなときだった。長い黒髪で、スーツを着た男に会ったのは。あたしの他にもお見舞いに来ている人がいたのだ。


「おや、ご家族ですか?」

「…… ええ、あなたは? 知り合いにあなたみたいな人、いないと思うんですけど」

「諸事情により彼女とは知り合いなのですよ。黒猫関連でね」

「ジェシュの?」

「ええ、その黒猫の」


 あたしは詳しく話を聞くことにした。

 この人がジェシュのことについてなにか知っているのは間違いなかったから。


「ふむ、ではその黒猫に悪魔が憑いていると? にわかには信じがたい話ですが」

「でも、そうじゃないとおかしいのよ。そうじゃなかったらあたしが見たものは一体なんなの? 幻覚とでもいうつもり? お姉ちゃんの服はジェシュの血で真っ赤だったのに! あたし達が愛してた弟はもういないのよ! あなたもあたしが嘘つきだって言うの!?」

「いいえ、そうですねぇ…… 嘘つきついでに、こんな戯言はどうでしょうか。私はオカルトな方面にも精通しておりましてね。あなたが望むのならば、その悪魔を退治することもできるかもしれません」

「それ、本当なの?」

「1人の男の、ただの戯言ですけどね」

「本当かどうかを聞いているの!」


 オカルトだろうとなんだろうと、おかしな事態に対処するならおかしな手段を取るしかない。この胡散臭い占い師のような男を選んだのは、藁にもすがる思いだったのだ。

 多分、もっとまともな見た目の占い師がいたら同じインチキだったとしてもそっちを頼っていただろうし。


「私の言うことを信じるならば、お姉さんの部屋を探してみるといい。不思議な本が、そこにあるはずですから。見つけて、それでなおお姉さんを助けたいならば、この指定した場所に来てください。いいですね? ご両親には知らせないように。知らせたら方法なんてお教えしませんよ」


 怪しさ満載の悪魔の誘い。きっとこれも、悪魔の仕業なのかもしれない。

 けれどもう、縋るものはこれしかなかった。


「誰にも話さないわ」

「くふふ、お利口さんですね」


 すぐさま家に帰って部屋を探した。探して、探して、そしてそれを見つけた。


「お姉ちゃん…… ?」


 不思議の国のアリスの本。

 お姉ちゃんがあたしのことをアリスとニックネームで呼ぶ原因になったほど大切にしていた本。

 その本の中に、確かにお姉ちゃんの姿があった。女王様として、平和に暮らしている内容だった。


「見つけたわ。誰にも話してない。それで、どうすればいいの?」


 一週間後に男…… 神内(じんない)千夜(せんや)の指定した公園にやってきた。

 護身用の折りたたみナイフと催涙スプレーを持ってきたけれど、油断はできない。距離を保って話し合いに踏み切った。


「上出来です。褒めてさしあげますよ。それではご褒美です」


 男は一枚のメモ帳を取り出した。


「これは〝 妖紙魚(しみ) 〟妖怪の紙魚です。こいつは本の中の登場人物達の心を汚し、食い荒らす厄介者ですが、現実の人間には干渉できません。そして、こいつに掴まっていれば本の中に入ることも容易です。お姉さんを助けたいのなら、ご自身でどうぞ」


 信じられない話だった。

 けれど紙面で自由自在に蠢く不気味な魚を見て、本物だと確信した。


「本当に、あたしには影響しないの?」

「現実にいる人間に干渉することなんて、できませんよ」


 あたしはそいつの手を取った。

 あたし自身の手でお姉ちゃんを助ける。そうするしかないのなら、オカルトでもなんでも頼る。

 そして、紙面から飛び跳ねるようにして空中に浮かんだ妖紙魚がアリスの本に入る直前に、その尻尾を掴む。


 とぷん、と本の中への侵入はプールに飛び込んだときよりも優しい感触で行われた。


「ここが本の中……」


 あたしが辺りを見回すとそこは大きな木のある丘で、本の1番最初にある白い兎の出る場所だと気づく。


 そういえば、さっきの魚はどこに? 

 そう思って背後を振り返った瞬間、魚のヒゲがあたしの目を覆い隠し、そして…… 意識が吸われていくような感覚と共に、目の前が真っ暗になった。


「くふふ、現実の人間には影響を及ぼしません。現実にいる人間には、ね。本の中に入ればそれはもう登場人物と変わらない。そうですよね? くふふふ、くふふふふふふ……」


 悪魔よりもっと性質の悪い、邪神は嘲笑うようにその場を後にした。





 ――





「こっちだよ」


 俺達はしっかりとチェシャ猫について歩く。

 彼が本当にチェシャ猫かどうかなんて猫耳と尻尾を見れば一目瞭然だし、レイシーの名前を知っていたのだから信用はできるはずだ。

 こちらには紅子さんだっているし、俺も戦闘はある程度できる。万が一があっても十分対処できるだろう。

 そもそも、チェシャ猫は俺達の前を歩いているので奇襲できるのはこちらのほうだが。


「いやー、まさか女王様が助っ人を連れて来るとは思ってなかったなー」

「チェシャ猫が無事でなによりだよ。レイシーは心配しなくても大丈夫って思ってるみたいだったが」

「あー、ボク愛されてるねー! さっすがボクの大好きな女王様! えへへへ」


 チェシャ猫は横目にこちらを見ながら、その異形の左手で頭をかいた。こう見ると普通に人懐っこい猫のようだが、チェシャ猫のイメージとはどうしても逸れている気がする。もっと食えないやつとか、飄々としているやつだと思っていた。物語のイメージ的に。


「なあ、チェシャはアリスが暴走した理由は分かるか?」

「うーん…… 分かんない」


 今度はこちらに振り返ることもなくチェシャ猫は言う。

 そうか、まあこいつも物語の登場人物だし、外部要因で物語が狂っているならメタ要素の強いチェシャ猫でもさすがに感知できないだろう。


「訳も分からず襲われる…… か。嫌なものだねぇ」

「ボクとしては女王様が無事ならなんでもいいよ」


 あまりにもあっけらかんと言うものだから一瞬なにを言っているのか分からなかった。他の仲間達はいいのだろうか。

 チェシャ猫ってどちらかというとアリスとセットのイメージがあるか、こいつはレイシー…… 女王のほうを溺愛しているな。

 レイシーがアリスだった頃に仲良くなったとかか? 

 彼女はアリス時代の記憶がないみたいだし、友達が突然記憶を失くしたようなものだろうか。それでもそばにいるってことは、よほど仲が良かったんだな。なんか切ない話だ。


「おおう、チェシャ! 待っておったぞ!」

「はあい、女王様。ボクお使いできたよー」

「うむうむ、良い子じゃのう!」

「もしもーし、おーい、レイシー」


 森の開けた場所に出ると、切り株に座るレイシーとそのすぐそばでなにやら不審な動きをするペティさんと合流した。

 レイシーはチェシャ猫を見つけると勢いよく立ち上がって歓迎するし、そんな彼女にちょっかいをかけていたペティさんはがっくりと肩を落とす。


「無視かよー、酷いぜ」


 安定の嫌われようだな。

 少しのからかいでここまで腹を立てるとは…… ペティさんはどちらかというと字乗さんの巻き添えを食らったようなもののはずだが、笑うのもアウトだと少々判定が厳しいな。

 一緒になって笑ったりせずに良かった。心底そう思う。俺まで嫌われていたら非常に話が進めづらいからだ。


「ごめん、レイシー。ペティさんのことは最低限返事してくれないか? 最低限で構わないからさ。いつアリスが来るか分からないし、声をかけて返事をしてくれないと無事かどうか分からなくなるだろ?」

「最低限で良いのだな? 私様はチェシャが守ってくれるから心配無用だが、そうだな。そこの帽子が滅多刺しにされる可能性を考えておらんかったようだ」

「それは俺様が殺される前提の話か? 言っておくけど俺様は強いからな。こっちこそ心配ご無用だぜ。そこの猫ちゃんがちゃんとボディガードになるかどうかは知らないけどな」

「ペティさん……」

「ボクもこいつ気に入らない……」


 皮肉に皮肉で返すものだからいつまでたっても和解できない。

 ペティさんもだいぶ捻くれているようだ。一言余計とも言う。前半までの言葉だったらまだ良かったのに…… この人は連携する気があるのかないのか…… 先が思いやられるメンバーだな。


「もうアタシ達で話を進めるしかないねぇ…… 頭脳労働は疲れるんだ。帰ったらお兄さんの作るアップルパイでも食べたいね」

「ああ、精神的にも疲れそうだからな。いくらでも作ってやるよ」

「それはそれは楽しみだ。楽しみだから少し頑張ろう」


 微笑む紅子さんと約束して笑う。

 帰ったら云々はフラグになりやすいが、紅子さんは死ぬことがないみたいだから少しは安心しててもいい…… よな? 


 まだまだ言い争い続ける三人を放置してどうしようか? と思考する。

 城は遠くに見えるが、チェシャ猫かレイシーの案内はほしい。

 特にレイシーがいればこの国の住民に聞き込みしやすくなるだろう。

 外部から来たアリスが荒らしているのだから、俺達も彼女がいなければ警戒されるかもしれないのだ。もしかしたら攻撃だってされるかもしれない。そうなると解決するのに時間がかかってしまうから、疲れもするだろうし…… なにより朝までに戻らないと我がクソッタレご主人様になにされるか分からない。


《gray》―― 「私を差し置いて朝帰りとは、そんなに元気が余っているのなら、私の相手になってくれるかな? もう、れーいちくんの…… イ・ケ・ズ」《/gray》


 想像が簡単につく。

 いつもの三倍くらい気持ち悪さが増すに違いない。殴りたいあの笑顔。

 ただしあの屋敷の中では俺の力じゃ敵わないので、なんとしてでも外に誘き出す必要があるのだが。そうしたらいくらでもぶった斬ることができるのに……


「にゃ? なにか来るよ」


 チェシャ猫の黒い耳がピクリと動く。

 反射的に彼が顔を向けた方を見ると、その木々の隙間から大きなトカゲが一匹。走り抜けてきたところだった。


「おやおやこれは女王! ご機嫌麗しゅう」

「うん? お主はもしかしてビルか? トカゲのビルなのか?」

「はい、ビルにございます!」

「はあ? キミが!?」


 喋り出したトカゲにレイシーとチェシャ猫が信じられないものを見るような目で声をあげた。

 トカゲのビル? なんだっけか…… アリスの物語っていうと白い兎と帽子屋とチェシャ猫とトランプの兵隊ってイメージしかなくてな…… うーん、分からない。そんなのいたか? 


「あの頭の弱いビルがどうしてこんなに紳士然としているのじゃ!? 意味が分からんぞ! 逆に恐ろしいわ!」

「ついさっきアリスから隠れたときはまだ馬鹿トカゲのままだったのに、いったいどうしちゃったんだキミ!」

「失礼な。わたくしは目を覚ましたのです。女王様に礼を尽くすのは当たり前のことですし、馬鹿なトカゲなんてもういません。皆だってそうですよ! アリスから逃れる恐怖のあまり、皆抑圧していた本来の可能性を引き出されている! ああなんて気分がいい! 最高だ! 頭がいいってサイコー!」

「あ、今のは前のビルっぽいね。その調子で元に戻ってよ。ボク猫はだが立っちゃう!」


 猫肌…… ? 

 いや、それにしてもチェシャ猫は結構辛辣な物言いをするな。

 なんだか性格も子供っぽいし、やっぱりどう考えてもニャルラトホテプである奴とは違うな。雰囲気が似ていただけ、なんだよな。きっと。


「前のわたくし…… ? 前の、前の、前の? 前の…… 馬鹿だったわたくし? 前、前、マエ、まえ…… わたくしは、どんな、性格で、どんなことを言って、ましたっけ…… ? わたくし、わたくし、ぼく、ぼ、く…… は…… ? なにをすれば、いいのでしたっけ…… ?」


 おっと、なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ。

 トカゲのビルはチェシャ猫に指摘されるとすぐに取り乱し始めた。

 完全に様子がおかしいぞ。これは、アリスと会ってなにかあったのだろうか? 


「ビルがアリスから逃げ切ってる時点でおかしいとは思ってたけど…… なにこれ。ボク、こんなの知らない」

「臆病で愚図な奴じゃからな。アリスに会ったのならとっくに殺されておるはずじゃ」


 仲間にこれだけボロクソ言われるなんて、可哀想になってきたぞ。


「わたくし、ぼく、わたくし、ぼく、わたくし、ぼく、ぼく、わたくし…… ああ、あ、〝 トカゲのビル 〟に大切なものは……」


 ビルが頭を抱えてその場にうずくまる。

 レイシーは心配したのか、それに近づこうとして即チェシャ猫に止められていた。


「まさかと思ったが…… こいつのおかげでアリスが狂った原因が分かったぜ」


 ビルの周りに、不可視のなにかがいる…… 透明ななにかが。

 ビルを中心にとぐろを巻くように大きな体をグルリと囲んだそれは、シルエットだけなら魚のように見えた。

 俺は重要なことを呟いているペティさんを横目で捉え、そしてまたビルへと視線を戻す。

 紅子さんは既に戦闘するき気になっているのか、周りに浮かんだ人魂から自身を殺した凶器であるガラス片を取り出し、油断なく彼を見つめている。


「ペティさん、これっていったい…… ?」

「まだ推測だぜ。この件を片付けたら教えてやるよ。先に言うことは、トカゲは傷つけるなってことだけだな」


 彼女はそう言ってニヒルな笑みを浮かべると、トカゲのビルの背後を指差す。


「さあ、お馬鹿なビルを〝 返して 〟もらうぜ」


 そしてペティさんがそう言った途端、ベリベリとなにかが剥がれるような、そんな不快な音が響いた。


「――」


 紙の擦れるような音、キチキチと虫の鳴くような音。

 そして空気を切るように進む魚のような、虫のようななにか。

 レイシーと同じくらいの大きさの、しかしトカゲのビルよりは遥かに大きなそいつが口を開けて鳴く。紙を切り裂いたときの音と、虫の声を混ぜたような、耳障りな鳴き声だった。

 一見して折り紙で複雑な魚を折って顔を虫に似せたような見た目をしている。


 {IMG43822}


「レイシー、チェシャ、あの魚を殺せばお馬鹿なビルが返ってくるはずだぜ!」

「ふ、ふんっ、わ、わ、分かったから早く片付けるのじゃ!」

「おいおい足が震えてるぜ? お嬢ちゃんにはそんなに怖い見た目をしているかな?」

「ふ、ふりゅえっ、震えてにゃいもん!」

「おーおー、あざといねー」

「ボクのレイシーをイジメないでよ!」


 また喧嘩してる場合じゃないぞ!? 

 そうこうしているうちに魚が三人のところへ突進していく。

 場所が近いわけじゃないから間に合わないぞ!? 紅子さんが素早く跳躍しながら撃墜に向かっているが、あの三人が喧嘩をやめないことには危険度は変わらない。


「おっと、アタシがケルベロスの弟子ってこと、忘れてないだろうな!」


 そう言って飛び出してきた魚に向かって、なにかを投げつける。

 …… 投げつける? 


「お師匠様が珍しく寝てるときにこっそり採取したケルベロスの毒だ! 貴重な研究資料をたっぷり食らいやがれこの贅沢者めー!」

「あっぶなっ」


 ああ、ケルベロスの弟子ってそういう……

 彼女の投げたビンは魚の目の前で仄暗く光って爆散し、その中身を勢いよく浴びた魚がその場で停止する。目の部分が焼け落ちてしまったようで、地面の上でなすすべもなくのたうち回っているが……

 それより、魚を狙っていた紅子さんまでもう少しで毒薬がかかるところだったぞ。ペティさん、もしかして分かっててやってないか? 


「なーにが魔女じゃ! 道具投げてるだけじゃろ!」

「俺様は魔法薬専門なんですー! コモンマジックも使えるけどな、あれは詠唱がいるんだよ! 咄嗟の判断で守ってやったんだから感謝しろよな!」

「チェシャに任せれば私様は助かったわ! そもそもお主が喧嘩をふっかけてくるのが悪いんじゃろ!?」

「いちいち反応して噛みついてくるから延々と口喧嘩するはめになるんだろうが!」


 そうこうしている間に呆れた紅子さんがトドメを刺してこちらに戻ってくる。

 なんとなく頭に手を置くと、ムッとした顔で睨まれた。

 …… こう、気疲れした顔してたからつい。


「まったく、見た目通りの年齢じゃないんだよ? アタシ」

「お疲れ様」

「早く甘いものが食べたいねぇ」


 魚はピクリとも動かなくなったが……


「いーや、まだ生きてるぜこいつ。こいつらは死んだら空気に溶けて消えるんだよ。また誰かに取り憑いて栄養補給する隙を伺ってるだけだ」

「そうなの? ボクには死んでるようにしか見えないけど」

「猫ちゃん、お魚を食べたいのは分かるけどあんまり近づくなよな」

「ボク子供じゃない!」

「ひどいのじゃひどいのじゃ!」

「ペティ、大人気ないよ」

「はいはい、ベニコの言う通りかもなっと」


 ペティさんは俺達を魚に近づかせないよう牽制しながら歩みを進め、魚の頭を踏みつける。

 それから、帽子を外して手を入れる。まさかマジックのようになにか出すのか? と思っていたら、本当になにかのビンを取り出した。

 多分さっきのビンもどこかに隠し持ってたんだろう。危なすぎる。


 ビンの中には花? みたいなものが入っている。

 彼女はそのビンの中に、これまた取り出した別のビンからなにかの液体を一滴注ぎ、そして自身の髪の毛を一本抜いて入れる。

 それから、大きく息を吸った。


「〝 松明を掲げろ、火を灯し燃やせ―― 髪を、紙を、神をも燃やせ 〟」


 ビンを逆さまにし、植物が魚の背中へ落ちる。

 その途端あり得ないほどの勢いで轟々と燃え出した植物に、紙で出来た魚は堪らない。

 再びのたうち回り、最後には小さくなって全てチリになって空気中に消えていく。

 その光景に少しだけ、ケルベロスのアートさんと出会ったときの事件を思い出した。

 あんな気持ち悪い魚の姿だったというのに、なぜか切ない。


「これで〝 お馬鹿じゃないビル 〟の事件は解決だぜ。さあ帰るかー」

「アリスの件は終わってないだろ!」

「おっと、そうだった忘れるとこだったぜ。なんせ誰かさんが俺様を倦厭(けんえん)にするものだから、目的もすっぽ抜けてたな。いやー、説明してくれるやつがいると違うね! なあ、レーイチ」


 お願いだから返事に困ることを言わないでくれ。

 レイシー達からの視線を適当に誤魔化して、本題に入る。


「なあ、ペティ。さっきのやつはなんだ?」

「ああ、あれはな〝 妖紙魚(シミ) 〟だ。本を食っちまう虫にシミっているだろ? それの妖怪バージョンってやつだな」


 だから魚と虫が合体したような見た目だったのか。

 ということは、あの頭の部分は実在するシミと似た形なのだろうか。


「それで、そいつはどんな妖怪なのかな? アタシもそいつは知らないよ」


 彼女がそう言うなら、紅子さんが見たことない妖怪ってことか。


「虫のシミは本を食うが、妖怪のシミは本の登場人物の目に見えない大事な物を食っちまうのさ。大事な物と言っても色々あるぜ。目的とか、感情とか、あとアイデンティティとかな」

「つ、つまり、さっきのビルは…… アイデンティティを食われていたということなんじゃろうか?」

「この国のビルがお馬鹿で通っていたなら、そういうことだろうぜ」


 ペティさんがそう締めくくる。

 本の中の登場人物の大事な物を食う…… なら俺達は問題なく近づけたんじゃないか? 


「おっとレーイチ。変なこと考えてるだろ。言っとくけど俺様達にも影響するぜ」


 心を読んできたのはひとまず置いておいて……


「なんでだ?」

「そりゃあ、ここが本の中だからだよ。この中にいる時点で、俺様達はもうこの本の登場人物だ。だから俺様達もやつらの対象内なんだよ…… ちなみに、よもぎのやつも一瞬こいつを使おうか迷って、結局俺様達を本の中に入れる方法には採用しなかった。分かるだろ?」


 油断していれば、俺達自身もレイシー達の敵になりかねなかったから…… か。

 つまり、この妖怪には現実にいる人間を本の中に入れる作用もあるってことだよな。


 そこから導き出される結論は……


「アリスに接触したかもしれないビルがシミに取り憑かれていた…… ということになるね?」

「それじゃあ、ボクらをアリスが襲おうとしてくるのもこいつが原因だったってこと?」

「今仕留めたということは…… これで全部解決じゃな!? 祝勝会じゃ!」

「いや、そんなわけないだろ」


 早とちりして喜ぶレイシーにペティさんが呆れた声を出した。


「なんじゃ! こいつが原因でアリスが狂っておったんじゃろ! ならもう解決ではないか!」


 レイシーが素早くペティさんに噛み付く。

 まったく、本当に仲が悪いな。


「こいつ一匹だけと思うのは楽観的すぎるぜ、女王サマ? こいつらは栄養を摂れば摂るほど膨らんで分裂する。そして分裂した魚がまた栄養を求めて本の中を荒らす…… つまり、アリスに憑いているデカイやつが少なくとも一匹はいるってことだ。奪われた物はシミを殺せば元に戻るのが幸いだがな……」


 これで元に戻らなかったらどうしようかと思った。

 しかし、俺達がするべきことはこれでハッキリした。

 城に行く道すがらに不思議な国のアリスの住民を少しずつ訪ね、おかしくなっていないかを確かめていけばいい。そしてシミが取り憑いていたらすぐに潰す。

 うん、シンプルだ。下手な謎解きで疲れるよりよっぽどいいな。


「やつらは普段透明になっているから、引きずり出す必要があるぜ。そのための最適な呪文は〝 本当のそいつを返せ 〟だ。いいな?」

「そ、それが呪文じゃと…… ?」

「シンプルなのがいいんだよ。物は言いようだぜ。実際、さっきも俺様が〝 返せ 〟って言った途端見えるようになっただろ?」

「ふうん……」


 むむっ、と悩むレイシーを横目にしてチェシャ猫が考え込む。

 そういえば、さっきこいつもアリスに会ったようなニュアンスのことを言ってなかったか…… ? 

 それにレイシーも、最初はアリスに追われていたみたいだし…… いや、疑心暗鬼になっても仕方ないか。

 チェシャ猫もレイシーも、俺達を襲おうと思えば襲えるタイミングはいくらでもあっただろう。


「さあ虫退治だぜ! 焚書(ふんしょ)だ焚書!」

「いやっ、それはダメだろ!?」


 荘厳な森の中に、俺の全力のツッコミが虚しく響いた……





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