其の四「絶望を跳ね除けて」
「アルフォードさんを……どこへやった……!」
思わず喉から飛び出した低い声が店内に響く。
目の前の、アルフォードさんと同じ顔をして……けれどあのヒトとはまったく違う冷たい目をした邪神はそっとほくそ笑んだ。
同じ姿、同じ顔、同じ目の色のはずなのに、圧倒的に「違う」と感じる容姿。そして、表情の温度。嘲笑うような雰囲気。なにもかもが、あのヒトとは決定的に違う。むしろどうして気がつかなかったんだというくらいに。
俺だって混乱はしていた。そして追い討ちのように紅子さんは助からないと言葉をかけられ、余計に判断力を奪われていたのもある。だから騙されそうになった。だが、昔の俺だったら引っかかったままだったろうそんな小細工も、今は通じない。
だって、俺は決意したんだから。
俺の気持ちがこいつの揺さぶりに負けない限り、俺は前を向いたままだ。
「どこへって、彼は今日、たまたま留守だったろう? 私は空き巣に入っただけだよ。お前が想像しているようなことはありえない。私だって、寄って集って封印されてしまうのは嫌だからね」
「……ということは、アルフォードさんになにかしたわけじゃないんだな」
ひとまず詰めていた息を安堵の思いで吐き出す。
まだまだこいつが嘘をついているという可能性は残っているが、確かにアルフォードさんがただでこんなやつにやられるわけもない。あのヒトは神格を持っている、一国の守護竜だ。いくらなんでもありの邪神と言えど、遅れを取るいわれはないはず。なら、本当に留守を狙って俺の心を引きずり下ろしにやってきただけなのだろう。
「でもね、私がお前に言ったことに嘘なんてないよ。以前からお前の好いているあの怪異は揺らいでいた。お前はそれにまったく気づいていなかったけれどね? おかしいよねぇ……必死にお前に隠して、お前がそれを知ったあとも平気な風を装って、その挙句に……これだ」
耳を打つ低い声が、責めるような声がぐさり、ぐさりと俺の精神を抉っていく。こいつが言っていることに、確かに嘘はない。俺が長らく紅子さんの状態に気がつかなかったのは事実。そして、彼女がそれを隠し続けていたことも事実だ。
目を伏せる。
……でも、俺はちゃんと知った。紅子さんの覚悟を聴いた。
そしてその上で、彼女をずっと好きでいることを、対等であろうと誓った。誓ったんだ……!
思い出せ――。
「誤魔化しきれなくなっているのは自分でも分かっているんじゃないかしら? あなた、そのままなんの対策もせずに同じことを繰り返していると、そのうち本当に消滅しちゃうわよ。もう既に、結構危ないところまで来ているでしょう?」
真宵さんの言っていた言葉を。
「……大丈夫だよ、まだ。でも、お兄さん。覚えていてほしいんだ。アタシはアタシが選んだ結果からは逃げも隠れもするつもりはないってことを」
紅子さんの言葉を。
「これはアタシの意地だ」
俺自身の、決意の証を。
「なら、紅子さんの矜持を曲げずに、どうにかする方法を探すよ」
「……今まで、アタシが散々探して見つからなかったのに?」
「人それぞれ視点が違うんだ。俺も探してみれば、なにか見つかるかもしれない。一人より、二人だよ」
――そう、俺は見つけると誓った。
「俺は、紅子さんの矜恃を曲げずに、彼女を引き留める方法を探すって誓ったんだ。遅くなっちまったけど、その誓いを曲げるつもりはないんだ!」
俺の啖呵に目の前の邪神が嘲笑う。
「もう既に、あの子が消滅しているかもしれないのに?」
そんなことはない。そう言いたくても、喉から言葉が引っかかるようにして出てこなかった。
紅子さんのことは、信じている。でも、本当に彼女が今まだ無事でいる証拠なんて……どこにもないわけで。
黙った俺に、追い討ちをするように奴が言う。
「お前は初動が遅すぎるんだよ。あのときもそうだったねぇ。ほら、私がお前をお持ち帰りした日……あのときだって、お前の判断は遅すぎた。お前のせいで、大勢が死んだよね? 少しは学習したほうがいいんじゃない? お前はあのときから、〝なぁんにも、変っちゃいない〟んだよ」
胸の奥深くに突き刺さる言葉に言葉を失う。
俺は変わってない……? あのときからずっと、成長できていない……?
ぐるぐると考え、心の内を不安が徐々に侵食していく。
俺は……、俺は、俺は、なんにも、できない……?
紅子さんを諦めたくなんて、ないのに……?
―― でもね、それ以上にアタシが知ってるから。
暗くなっていく視界の中、紛れもない彼女の言葉が、思い出の中から浮かび上がってくる。
―― お兄さんはやるときはやる人だってこと。
それは、あのときの。
神中村での大切な、大切な思い出。
彼女に、俺が認めてもらったときの言葉のひとつひとつ。
―― 無謀すぎることにも、キミはいつも全力で向かっていって、いつも一生懸命に悲しいことが起こらないように努力している。それが叶わないことのほうが多いけれど、キミが諦めようとしたことはずっとなかったよね。アタシはそれを知っているよ。
そうだ。紅子さんが認めてくれている。
―― 悔しくても、悲しくても、キミは頑張ってるよね。いつか飼い主のやつに噛み付いてやろうと努力してるのも知ってる。一年くらい一緒にいて、理解しているのはお兄さんだけじゃないんだよ? アタシだって、ちゃんとキミの努力してるところくらい見てる。
一年かけて築いた絆を。
そして、俺が成長していることの肯定をしてくれた彼女の信頼を。
――だからね、アルフォードさんが言わなくたって、アタシはキミのことを信じられるよ。
あのときの確かな信頼の言葉を、思い出せ……!
―― きっと助けてくれるって、信じられるよ。
そうだ、紅子さんは信じてくれていた。
あのときからずっと、ずっと、俺の成長を肯定してくれたうえで、俺ならできると、信じられると言ってくれていたのに。
どうして邪神なんかの言葉で揺らいでいたんだろう。
そう思うくらいに、彼女の言葉を思い出した俺には迷いなんて残っていなかった。
伏せていた視線をあげる。
そこには、足を組んで尊大な態度で俺を視線で貫くようにしている〝邪神〟がいる。俺を観察し、俺を絶望させ、そしていつも俺の心を挫いてきやがった、最低最悪のやつが。
けれど……もう負けない。
「俺は――」
だから、宣誓する。
「紅子さんを信じる。紅子さんが俺を信じてくれていたことを、俺が少しずつ前に進んでいることを肯定してくれた彼女を信じる……! お前になにを言われようと、俺は逃げない、迷わない、諦めない、そして堕ちもしない……!」
心の底から目の前のやつに浴びせかけるように。
精神を折ってやろうとしてくる奴の言葉を受け入れる必要なんてない。
俺は、俺が信じたい人の言葉を信じるんだ!
「くふふ、これはまた……随分と入れ込んでいるねぇ。嫉妬してしまうくらいに。これだから、お前を手放したくないんだ」
「やめろよ、そういう気持ち悪いこと言うの」
「いいよいいよ? それって私には褒め言葉にしかならないもの」
「このドM野郎……」
俺が吐き捨てるように言うと、奴はなおも笑って今度は組んだ足を解き、その長い三つ編みを揺らしながら前傾してテーブルに頬杖をついた。
上目に俺を見つめてくるその不気味なほどの黄色い瞳が愉快気に細められており、そしてわざとらしくちろりと出した舌で唇を舐めた。
まるで肉食動物が草食動物を相手にするような仕草に、一歩後退る。
「気づいていないのかもしれないけれど、お前が今からしようとしていることはね、あのときと同じだよ。青凪鎮のときと、ね」
「それは……」
言葉に詰まると、なおも奴は続ける。
「人を殺すくらいなら消滅したい。そんな彼女の願いを捻じ曲げてまで助けようとするのは、彼女が嫌った〝無責任な優しさ〟なんじゃないの? お前はそう思わない?」
確かに、そうかもしれない。
これは、俺の我儘だ。けれど……違う。無責任で終わらせるつもりなんて、毛頭ないんだから。
「必ず、方法を見つけると言った。あのとき、紅子さんは拒絶しなかった。溜め息を吐いて、でも否定はしなかった。だから、俺は俺の意地を貫き通す。責任? とるに決まってんだろ……! 好きな子を助けるのに、責任も取れないほど俺はヘタレてなんかいない!」
叫んで、睨みつける。
そうだ。なにを言われようと、俺の決意は揺らがない。
「でもね、お前はあの怪異のタイムリミットを知らないだろう。お前がこうして私と楽しくお喋りをしている間にも、助けを求めることもできずに消滅……なんてことになっちゃうかもね?」
「確かに、お前と会話してること自体が時間の無駄だが」
それもそうだ。こいつにとられている時間なんて、ない。
元々アルフォードさんに聞きたいことがあったからここに来ただけなのだ。こいつに誤魔化されている時間なんてない。
「そんなの、分かっている……けど」
こいつにこれ以降邪魔されるのも、それはそれで嫌だし。なんとかならないものか……? そう、俺が数拍考えている間に、ふわりと背後に僅かな重みがかかった。
肩に添えられた手に、ふわりと耳元をくすぐる金糸の髪。
ぱきり、と。その場の空間が割れるような音がした。
「よくできました」
囁かれた聞き覚えのある声に、俺は息を呑んだ。
ぱきり、ぱきりと俺の背後から広がる鱗の模様。
そして、カランカランと音を鳴らす店のドアベルの音。
「本来のオレの店とはほんの少しズレた別の位相。そこにするりと入り込んで令一ちゃんを引き摺り込むなんて、舐めた真似をしてくれるよね」
カツカツと響く靴音とこちらも聞き覚えのある声に、俺は思わず胸のうちから溢れ出てくる思いを抑えることができずに、目頭が熱くなってくる。
「よく頑張ったね。そして邪神に負けずによく言ったね。キミの熱い決意……ちゃんと聞き届けたよ」
「わたくしも安心いたしました。あなたが腑抜けではあの子を任せることなんてできませんもの」
そうだ。俺を認めてくれているのは、紅子さんだけじゃ、なかったんだ。
「令一ちゃん」
「令一くん」
背後から鏡界移動を通してやってきた美しい祟り神が、当たり前のように来店してきた薔薇色の竜が、優しく俺に声をかけてくる。
ポロポロと溢れる涙は、もう止まりそうもなかった。
「こいつ相手によく啖呵を切ってくれたよ。これだからキミのことは応援したくなるんだよね。オレはキミみたいな頑張る子には協力してあげたくなっちゃうんだ。神様はね、頑張る子をちゃんと見ているんだよ」
優しいアルトの声が。
「試すような真似をしてごめんなさいね。あの子の揺らぎは大きい。半端な覚悟ではあの子の意地を踏みにじるだけでしたから、様子を見させていただきました。もちろん、わたくしも健気に頑張る愚かな人間の子が好きなんですの」
鈴を転がすような美しい声が、届けられる。
俺の願いに、俺の言葉に、優しい神様達が……応えた。




