其の三「先にできる後悔はない」
「どうしてだよ!」
はじめは、連絡が取れなくなったことで嫌な予感がした。
「なんで……!」
不安な気持ちを押し殺しながら、鏡界にある紅子さんの部屋に来訪してみても無人で、怪異達の住むその屋敷の住民に片っ端から聞き込みをした結果、彼女は昨夜から帰ってきていないという情報だけが残った。
そう、俺と別れたあのとき以来……彼女を見た者は誰もいない。
嫌な予感はあった。不安な気持ちはあった。
まるで今生の別れのような違和感のある雰囲気に、しかし「また明日」となんの疑問もなく俺は告げた。次にまた会うための約束を取り付けるように。
しかし、結果がこれだ。
またもや彼女は俺の手の中からするりとすり抜けてどこかへと消えていってしまった。もう二度と掴んで離さないと、もう二度と傷つけないと、そう思っていたのに。
俺のせい……?
そうだ、気づかなかった俺のせいに他ならない。
いろんなところを駆けずり回った。
鏡界、学校、いつもの喫茶店、知り合いにも片っ端から電話をかけて紅子さんの行方を訊いて必死に探す。足が棒のようになってしまっても、息がきれても、頭の中がこんがらかって真っ白になりそうになりながら、思いつく限り、思い当たる限りの場所を探した。
「ご自分で探しなさいな」
そうだ、彼女には夜刀神の分霊がついている。
そうと気がついて真宵さんを訪ねてみても、返ってきたのはそんな言葉。
絶対に知っているはずだが、それでも彼女は教えてくれさえしない。俺を突き放し、そして鏡界異動を用いて速攻で神社から追い出される。
つまりこれは、俺自身がどうにかしなければならない事態だということで……。
俺は鏡界内を三周ほどしてからアルフォードさんの萬屋に戻ってきていた。
アルフォードさんは、今日は留守だったのである。だから最後に戻ってきて、もう一度不在かどうか確認しようと思っていた。
カランカラン。
ドアベルが鳴って、奥のカウンターから見える薔薇色の髪に安堵のため息を吐く。ぐらぐらと歪むような頭の痛みと、走り回ったあげくの目眩でよろけつつも彼の元へ向かう。手がかりを求めて。
「あれー、どうしたの? 令一ちゃん!」
「その、こんにちは、アルフォードさん」
なにやら本を読んでいたらしいアルフォードさんは、ギッと木製の椅子を軋ませながらこちらに向き直った。横目に気がついてくれたようで、まっすぐと俺を見るその黄色い爬虫類のような瞳が細められる。
笑っているようなその動作にほんの少しだけ驚いて硬直するが、すぐに気のせいだろうと思考を片付けて口を開く。
「紅子さんが、紅子さんが行方不明だって訊いたんですけれど……なにか知りませんか? その、行方の心当たりとか」
「オレが知るわけないじゃーん! だってれーいちちゃんのほうがあの子に関しては詳しいんだよ? オレに訊かれたって困るだけだよ」
いつもより心なしか辛辣な態度にちくりと心が痛む。やはり、俺がなにかしてしまったことが原因なんだろうか。神中村のときのように、むしかしたら紅子さんの嫌なところにずかずかと土足で踏み入ってしまったのではないかと不安が過ぎる。
しかし今回はまるで心当たりがない。これでもし、本当に俺がなにか彼女にとって行方を晦ますほどのことをしたのだとしたら……心当たりがない時点で、最低だ。俺は最悪なやつだ。
落ち込みつつ「そうですか」と返事をするものの、アルフォードさんは言葉を続けていく。
トントンと机を片手の指で叩きつつ、彼はもう片方の腕で頬杖をついた状態で俺を見上げる。それから嘲笑うような笑みを浮かべた。
「でも、きっとれーいちちゃんのせいだね? だって、あの子。ずっとずーっと隠していたんだもん。もうすぐ消えちゃうってこと」
「……! それは、どういう、ことですか」
俺が尋ねると、アルフォードさんはますますと意地の悪い笑顔となる。
あれ、このヒト、こんな顔するヒトだったっけ……? いや、俺があまりにもダメだから呆れているのか。
「気づいてなかったの? あの子は怪異なんだ。赤いちゃんちゃんこっていう怪異。怪異らしく人を襲わなければあの子は人々の認識から外れて、そのまま消滅コース。いつもはランダムで人の夢の中に入って悪戯して驚かしていたからギリギリ必要な〝畏れ〟ってやつを手に入れていたけど、それも尽きちゃったんだねぇ」
「なんとか、することは、できないんですか」
胸の内にじわじわと広がっていく絶望を押さえ込んで、絞り出すように言葉を紡ぐ。しかし彼は無情だった。
「無理だね」
「ほ、本当に……?」
「うん、絶対に避けられないことだよ。それもこれもキミのせいだよ。れーいちくん」
「……」
目を伏せる。
避けられない? 絶対に? そんなこと。
頭の中をぐるぐると、どうにかできないのかと思考を巡らす。
けれど、どうしても酷薄な表情で「無理」と断じたアルフォードさんの冷徹な瞳が脳に刻み込まれていて、俺の意識は極限にまで沈み込んでいく。
守ると約束していたのに。そばにいると決めていたのに。
だめなのか。それも、俺のせいで……?
「だって、あの子をずっと連れ回していたよね? 夢の中のゲームをする暇も与えないほど、朝晩連れ回しちゃってさあ。あーあ、不純異性交遊ってやつ? 古いかー。ま、だからだよ。あの子はその最低限必要な行為さえ封じられて、とうとう限界が来ちゃったんだ。今頃消滅の真っ最中かもね? 諦めなよー」
アルフォードさんの言葉が刺さる。
「ぜーんぶ、キミのせいだよ」
刻み込まれる。
「彼女がいなくなるのは、キミのせい。もしかしたらあの子もキミのことを恨んでいるかも?」
くすくすと嘲笑いながら、俺の心を冒すように何度も何度も重ねて言葉を続ける彼に、その黄色い瞳の中に愉悦を宿らせたその瞳に、諦めてしまいそうになる。
……けれど。
「いやです」
「んー?」
「俺は諦めません」
「えー、でも避けられないことなのに?」
「俺はもう二度と、途中で投げ出したりなんてしない」
先延ばしになんてしない。
諦めたりなんてしない。
途中でやめてしまえば、あと一歩で届いたかもしれないと一生後悔することになるからだ。
やるなら全力で挑み、やれることを全部やって、それでも届かなければそのときはそのときだ。最初から諦めるなんてことは、もうしない。
後からするからこその後悔なんだ。先にできる後悔なんてどこにもない。やれるだけやりきってから、後悔すればいい。
心を真綿で包み込んで締め付けるような言葉の数々を跳ね除け、墜ちかけた決意を胸に刻む。そうして冷静さを取り戻せば、ことのおかしさに気がついた。
このアルフォードさん、さっきなんて言った……?
〝うん、絶対に避けられないことだよ。それもこれもキミのせいだよ。れーいちくん〟
気づいた。気がついた。そうだ、彼はあんなこと言わない。アルフォードさんは、あんな風に嘲笑うような真似はしない。アルフォードさんは俺達人間を愛しく思い、そして共存を目指す同盟の〝創設者の一柱〟だ。
紅子さんのことだって彼は大切にしていたし、気にかけていた。そんな彼が簡単に「諦めろ」だなんて言うわけが、ない!
「お前は誰だ」
だからこそ、分かったのだ。
この目の前にいるやつは、アルフォードさんを騙った誰か。
……いや、正体は分かっている。
「なんの真似だよ、あんた」
「……くふふ、簡単にバレちゃった」
アルフォードさんの姿を模したまま、最低最悪な邪神が悪戯気に笑っていた。