其の一「聴き取れない放送」
◇
――また明日。
◇
カラン。
ガラス製のグラスの中で、氷が涼やかな音をたてる。
いつも紅子さんと訪れる、彼女の学校近場の喫茶店に入り、クーラーの効いた店内で俺達は涼みながら同盟関連の話をしていた。
喉が乾いていて暑かったこともあり、俺達が注文したのは揃ってメロンソーダである。ただし、俺が普通のやつで紅子さんのはバニラアイスの浮かんだメロンソーダフロートである。
初夏ともあり、暑さでじわじわと滲んでいた汗が幾分かマシになってきた頃、俺はため息を吐いた。
「だから……って、どうしたのお兄さん。ため息なんて吐いちゃって。幸せが逃げるよ?」
「紅子さんがあまりにも美人さんだから、感嘆のため息を吐いていたんだよ」
「そんなんで乗せられるとでも思っているのかな? まったくご冗談を」
遊ぶように言葉を紡ぐ彼女に、先程軽口を叩いた口を開けなくなってしまった。清々しいほどにまったく相手にされていない。
彼女も言葉遊びが好きなものだが、名ばかりとはいえこうしてデートしているのだから、少しくらい乗ってくれてもいいじゃないかと苦笑いをする。
いつもは下ネタやら際どいネタでからかってくる癖に、相変わらず変なところで釣れない子だ。まったく、この子の強情さもここまで来ると参ってくるな。
自惚れでなければ両片想いしていることは明らかなのに、こうして一定の距離を保ったまま、お互いに好きだ愛しているだと褒めるように遊びで口にしては思わせぶりな態度で仄めかす。確かめるように求愛行動を続けていながら、決して懐に入れようとはしない。
……まあ、そんな紅子さんのことが好きなんだから俺もどうしようもないな。
「えっと、なんだっけ」
「聞いてなかったの? 同盟のほうで、弱い怪異とか、人型の怪異達のたてがみとか髪とかが切られる事件があったんだよね。どうやら霊力が自然と溜まる髪を食って密かに力をつけて……みたいな目的だったみたい。髪切りって名前の怪異なんだけれど……もう解決したみたいだって」
「ああ、そういえばアリシアちゃんが切られたって怒ってたな……」
「そうそう、レイシーちゃんは基本的に大図書館の中にいるから大丈夫だったみたいだけれど」
思い出して話を合わせる。
季節は春から夏に変わり、彼女の人間として過ごしているときの制服も夏服に変わった。中学生のアリシアはもうすぐ夏休みが始まる頃合いらしい。それはもちろん、高校生として通っている紅子さんも同様である。
みんなで海水浴とかに行くのもいいかもしれない。
別に紅子さんの水着姿が見たいからじゃないぞ……いや、やっぱりそういう気持ちも多少はある。水着万歳。俺は健全な男の子なのだ。好きな子の水着を見たいと思うくらいいいだろう。
「……おにーさんは除夜の鐘で煩悩が消滅しきらなかったのか、それともリセットされたのにもう溜まっているのか……どっちなんだろうね。このスケベ」
「うぐっ、いやそんなことは」
「ほーら、すぐにカマかけに引っかかるんだから。少しは学習しなよ」
呆れたように紅子さんが笑う。こうして彼女の言葉に引っかけられるのも、もはや何度目だろうか? 俺自身も少しは学習しろと自分自身に思うわけだが、紅子さんも毎回絶妙に知られたら恥ずかしい位置をついてくるので焦りが先に来てしまうのだ。
「そういうところが童貞臭いんだから……」
「童貞関係ないし、こういう公共の場でなんてこと言ってくれるんだ。やめてくれ!」
小声で抗議すれば、時間の経ったグラスの氷がまたカランと音をたてた。
くるくるとスプーン付きストローでソーダをかき回しながら、紅子さんはテーブルに頬杖をつく。
「安心しなよ。誰もキミの〝そういう事情〟なんて好き好んで聞いたりしていないから」
「公序良俗って知ってるか?」
「ふふ、おにーさんのいけず。アタシがもらってあげるからそのままでいいよって言っているのに。まったく……女の子に言わせるなんて最低な人だよねぇ」
えっ。
「はい、ちょっと口開けて」
「えっ、いや待ってくれ、紅子さん今――んぐっ」
一瞬フリーズしたあと、再起動をかけるように紅子さんへ質問しようとしたのだが、それも途中までで口の中にバニラアイスの乗ったスプーン付きのストローを突っ込まれ、押し黙る。
待て待て、これも間接キスだろ……? 紅子さんがあまりにも積極的すぎて顔が熱い……。なんだこれ。こんな幸せでいいものなのか……? まさか夢じゃないだろうな。
「あは、おにーさんったら顔真っ赤。まったく、からかい甲斐のある人だねぇ」
「……アイスが甘い」
「でしょう? このアイス美味しいよね。お裾分け」
甘いのはアイスだけじゃなくて気分の方もなんだが。
「こうしてできるのも今のうちかも……」
紅子さんが微笑んでそう言ったときだった。
――ザザ。
音楽が、流れた。
それは学生の頃散々聞いた音。授業が始まる合図など学校で頻繁に使用される「キーンカーンカーンコーン」という音声だった。
――ザザッ、ザッ。
しかし歪んだチャイムの音の後は、酷くノイズの激しい音が鳴るばかり。なにを言っているのかも聴き取れない。なにを聞いたのかも抜け落ちていきそうな、曖昧なホワイトノイズ混じりの放送。
確かにここは紅子さんの通う高校に近い喫茶店ではあるが、普通こんなにはっきりとチャイムが聞こえるものだろうか?
尽きない疑問に答えが出ることなく、数分のノイズと聴き取れない放送が続いたあとに「ブツン」と唐突に放送が終わった。
「なんだったんだ、今の? なあ、紅子さ――」
彼女の表情を見て、言葉を失った。
悩むように眉を寄せ、辛そうに目を伏せる、その姿に。
「ねえ、お兄さん。今の放送」
思い詰めたような彼女の表情。
彼女のそんな様子に気が気じゃなくて、俺は言葉を詰まらせそうになりながら必死に口から音を紡ぎ出した。
「あ、ああ、なんかノイズがすごくて聞こえなかったけど、もしかして紅子さんはなにか聞こえたのか?」
「……ううん、聞こえなかった。ちょっと耳に痛くてうるさい放送だなって思っただけだよ」
「確かに……音量はでかかったが」
音量がうるさかったくらいで、どうしてそんな顔をするんだよ。
しかし、曖昧に笑う彼女の姿に俺はなにも追求することができなくなってしまった。
「飲み終えたら帰ろうか」
「そうだ、な」
悩む素振りを見せていたのは、先程の一瞬だけ。それ以降はいつもの紅子さんに戻っていた。しかし、どうにも胸騒ぎが治らなかった。
「紅子さん、明日もまたいいか? いつも同じところだし……というか俺がなんか作るよ」
「いいの?」
「ああ」
引き止めるように、精一杯の言葉を紡ぐ。
そして喫茶店の勘定を終え、帰り際にもう一度念のために口にした。
「また明日な」
「うん、じゃあね。おにーさん」
手を振って道端で別れる。
いつも通りだが、やはり不安が過ぎる。明日はちゃんと話を聞いて、アルフォードさんに相談してみよう。また神中村のときのようになにか隠しているのかもしれない。
だから――。
お願いだから、そんなに泣きそうな顔をしないでくれよ。