エピローグ「おひさま模様の未来予報」
柔らかな木漏れ日が差し込む中、心地の好い静けさを覆い隠すように竹箒が石畳に当たる音が響いていた。
古びた神社内には、まるで時が止まってしまったかのように誰も訪れることはない。道路に面してはいるものの、そこは毎年の年末ですら祭りやお焚き上げがあるでもなくただ管理をする者が掃除に訪れる程度の、いつか崩れてしまいそうなほどの場所であった。
それも年末というシーズンも大きく過ぎ、春に差し掛かった季節となっては来る人も余計にいない始末。
ただ唯一、神社の側に立った大きな桜の木が主張しているばかりである。
花見をするにしては少し早く肌寒い季節だが、桜の見事さとは裏腹に明らかな穴場となっている場所だ。
社務所だけがやけに小綺麗にされており、神社内で箒を掃く人物は肩に垂れてきた真っ白な髪を払う。うなじの後ろで結い上げたその白に桜色が所々に乗った美しい髪。そして穏やかで淡く優しげな相貌。ともすれば、女性と見間違えてしまいそうなほどの人物がそっと天を仰ぐ。
その首にかけられた雫……いや、一つ葉のネックレスがシャランと揺れていた。
「へえ、こんなところに神社なんてあったのね」
一言も喋らず、掃除をしていた彼だけの空間に涼やかな声がこだまする。
その瞬間、天を仰いでいた白髪の男が驚くように肩を揺らした。
自分しかいないと思っていた場所に突然声がしたのである。臆病気質な彼が驚くのも無理はなかった。
「あら……? 神社の、人?」
短い石段を上がってきたのは女性である。まだ中学生くらいと思われる、制服を着た少女がキョロキョロと辺りを見渡しながら鳥居を潜った。
「……参拝でしょうか? こんな辺鄙なところに来る人なんて滅多にいないのですけれど」
白髪の男が眉をハの字にして困ったように言う。
「ええと、御朱印とか、そういうのはありませんし……本当に眺めるだけでいいならどうぞ見て行ってくださいね」
「あ、はい……通学路の帰り道が工事で通れなくて……って、これは普通言っちゃダメよね。なんでもありません」
「ふふ、聞かなかったことにしますよ。僕も別に、この辺のことを詳しいわけではありませんし、それを聞いたとしてもどうもこうもありませんが」
「あ、そうですよね。ごめんなさい」
お互いにくすりと笑い合い、少女がパッと表情を明るくした。
白髪の男は半分ずつで違う模様の羽織を揺らしながら口元を押さえて笑みを隠しているが、先程のやり取りに笑顔を浮かべていることは明らかだ。少女にもそれは分かるようで、彼女は「おかしいわね」と不思議そうに言った。
「私、あんまり店員さんとかに話しかけられるの得意じゃないのに」
「僕も、結構人見知りなんですが……きっとあなたが明るくて穏やかでいい人だからですよ」
白髪の男はどこか切なげで遠くを見るような表情をしたが、少女もそれを見逃さない。
「もしかして、私って知り合いの誰かに似ていたりするんですか?」
そんな風に鋭い質問をされて、男はたじろいだ。
「いえ、きっと気のせいだと思います。それより、神社のほうはいいんですか? あまり見るものもありませんが」
彼が会話を切り上げるように見学を促す。
地面に立てて動かされることなく沈黙していた箒もようやく彼の手によってお役目を果たし始めた。少女が来る前と同じように、彼は石畳の上に侵入した砂を払って地面に落としていく。
「まあ、そうよね。普通そんなの話すわけないか。おかしいわね……私、こんなこと突っ込んで話すようなこと、普段はしないのに」
そして少女は静かに神社内を散策し始めた。
「そう、そうね。ここはお稲荷様なのね」
少女の明らかな独り言に彼は返事をしない。
勝手に話を続けられても、普通の人間なら困るだろうと分かっているからこその振る舞いだった。先程の様子からしても、本当は最初も話しかけるつもりなどなかったのだろう。
少女が神社にお参りする様子を軽く見守りつつ、彼はため息をそっと吐いた。
緊張したような面持ちの彼に気づくこともなく、少女はそうしてお参りを済ませると踵を返す。
「それじゃ、お邪魔しました」
「いえ、大丈夫ですよ。お参りありがとうございました」
気まぐれで訪れたらしい少女は、今後この神社に寄ることが果たしてあるだろうか?
男はなんとはなしに彼女を視線で追いかける。まるで引き寄せられるようなその動作は果たして偶然か、必然か。少女が石段に足をかける前にスマホを取り出す。その際、ブレザーのポケットからスマホと一緒に入っていたのだろう、若草色のなにかが零れ落ちた。
「え……?」
男が動揺するように肩を震わせた。
「まさか、本当に……?」
呟く彼に少女は気がつかない。
彼女は既にスマホへイヤホンを接続して音楽を聴きはじめてしまっていたからだ。
彼は箒を静かに横たえると急ぎ足でその落とし物を拾いに行く。
今ならまだ、落としたことを彼女に伝えることが可能だからである。彼女の言葉では、通学路が塞がれていたからこそこの神社に来たに過ぎないのだ。もう一度来る機会があるかどうかは分からず、つまり今を逃せばこの落とし物を届ける機会もなくなってしまうかもしれないということだった。
「あの」
少女は振り向かない。
「ちょっと!」
走りにくい着物で前を行く少女に声をかけるが、どうやら聞こえていない様子で。
「待ってください!」
大声を出してようやく彼女が片方の耳からイヤホンを外し、振り返ろうとする。しかし、彼は必死に走りながら声を出していたので、そのことには気がつかなかった。
「待ってください! 冬日さん!」
「え?」
少女の疑問の声が、小さく漏れる。
そこでようやく彼女が立ち止まったことに気が付いたのか、彼は息を少し切らせながら落とし物を彼女の目の前に突き出した。
「お、落としましたよ」
それは若草色の雫のような、葉の形をしたような、独特な形をした飾りのついたネックレスだった。
「あの、どうして私の名前を……?」
訝しげな彼女に、ようやく失態を悟ったのか男が慌てる。
「あの、知り合いに、本当に似ていて。すみません、まさか名前まで一緒だとは思っていなくてですね」
「……」
半目になって疑わしそうに彼を見つめていた少女は大きく息を吐くと、彼が突き出してきたネックレスを受け取る。それから肩を竦めて言った。
「ありがとうございます、春国さん」
その言葉に固まったのは男のほうである。
「あれ、僕……名前、言いましたっけ?」
「あ、あれ? ごめんなさい。聞いてません。もしかしてあなたの名前でした……?」
「ええ、僕は春国っていいます。偶然ですね」
「なんでかしら……ごめんなさい。今日はなんだか少し変ね」
「まあ、そんなときもありますよ」
柔らかに笑って、男――春国は少女、冬日にネックレスを返す。
「今度は落とさないでくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
そして、今度こそ冬日が帰路につこうとするが、途中で振り返って彼に手を振った。
「あのっ、また来てもいいですか?」
彼女を見送るように佇んでいた彼はそんな言葉に驚いたようにして、それから同じく手を振った。
「もちろんですよ!」
やがて彼女の姿が見えなくなり神社へと石段を上がって戻った彼は、その場で緊張の糸が途切れたように膝をついた。
そして静かさの戻った神社内には石畳に落ちる雫と、控えめな嗚咽の音が小さく響いた。
「もう一度、そう、もう一度最初から……はじめましょう。僕は、狐ですから。長い長い寿命があるんですから、もう少し我慢くらいできます。だからもう一度……」
石畳についた片手がぎゅっと握り込まれ、そして彼は自身の首から下げたネックレスをもう片方の手で覆う。
「はじめましてから、またはじめましょうね」
そこにあったのは、下手くそな泣き笑いであった。
……
…………
………………
「へえ、ハルとフユのなれそめってやつはそういう感じだったんだね」
「こら、優理。パパとママでしょう?」
「いいですよ、冬日さん。幼いうちくらいはそう呼んでいても差し支えありませんし」
「でも、でもね? すぐにパパママじゃなくて、お父さんお母さん呼びになっちゃうわよ? 春国さんったら、それでもいいのかしら」
「……ちょっとパパって呼ばれてみたい気はしますね」
「でしょう?」
いつかの出会い。
いつかの縁。
一度消えたはずの繋がりは、先の先の明るい場所でもう一度繋がった。
二人の男女と、その間に挟まれる幼子。
そして、その側に控える黒い犬と黄金の毛皮を持ったぬいぐるみのような犬。
夕日の中、三人と二匹は仲睦まじげに並んで歩いていた。
……
…………
………………
「ねえ、詩子。あなたなにが視えたのよ?」
供用スペースにて騒いでいる三組を眺めながら、受け付け業務を終えた華野が己の守護霊となった白い少女に尋ねる。
しかしそんな華野の言葉を涼しげに受け流して詩子は遠くを眺め、目を瞑る。
その目蓋の裏に蘇るのは、先程視えた光景。
春の柔らかな空気の中で、幸せそうに、仲睦まじそうに寄り添う親子の姿だった。
「………………」
「あー、ほらまた気絶してるわ。まったく、わたしから見てもだいぶ情けない人よね。あの気の強そうなお姉さんだと願い下げなんじゃないかしら? わたしだったらちょっと無理よ」
カウンターの掃除を粛々と進めながら華野が愚痴る。
その視線の先には、男子会後に突然乱入してきた誘理に頭突きをされ気絶する情けない狐の青年の姿があった。
「……」
「あとは一旦、露天風呂のお掃除してこないといけないわね……ちょっと、詩子。詩子?」
「……巡り巡ったその先に縁は通じていく。私もまた、同じだろう。私自身の未来が視えないのが少し残念だね」
「ちょっと詩子?」
言葉と共に目を開いた詩子は、その視線を移動させる。
紫紺の上等な着物を着た彼女は、腕を組んで微笑みを浮かべるが、そんな彼女を困惑しながら振り返った華野は首を傾げる。
「あんた、本当になにが視えたのよ?」
「希望……かな?」
「なにそれ」
くすりと笑って華野は書類を整理する。もうそろそろ受け付け業務の整理も終わりだ。後は藤の精霊に午後の業務を代わってもらい、彼女は裏に引っ込んで経理の仕事をしなければならない。それから他の従業員への指示出しと、華野は以前と比べたら大忙しだ。
「なに、私にとっての希望も見させてもらったさ。ちょっと詠子に会いたくなったね」
「それ、何十年先の話?」
「さあ、何十年だろうね。もしくは何百年か。キミの孫の代になっても私は見守っているよ。安心しておくれ」
「別にそこは心配してないわ」
そんなやりとりをしながら詩子はころころと笑う。
ただ一人、彼らの未来を覗き視た彼女だけは知っている。その結末を。
その未来がいつ訪れるかは彼女にも分からない。
しかし、いつか必ず来るだろうその日を自分だけの秘密としながら、彼女は焦がれるように微笑んだ。
いつか彼らのように自身も別れた妹と再会できるようにと。
そして彼女は華野からの質問や疑問を誤魔化しながらその話を終わらせる。
それからまた旅館の業務に戻っていくのだ。
――巡り巡って、この場所で。
約束の行方を胸に秘めながら、詩子はそっと沈黙を選んだ。
「コドクの犬神」編 END