風に乗せて
飛行機事故の起こると言われている日の前日。
その日、三人は共に寝起きして過ごしていた。
俺達も彼らのことが気になりすぐそばまで来て見守っていたが、干渉する気はさすがに起きず、遠くから見守るだけ。しかしあまり周りをうろちょろしても迷惑だろうと悩んでいると……。
「わたくしのところにおいでなさい。あの子達の行く末が気になるのでしょう? でも、近くにいることはできない。なら、わたくしのもとで鏡を覗きましょう。そうして見守りましょう?」
優しい瞳をした神様が、そこにいた。
「分かりました」
「アタシ達も、邪魔したいわけじゃないからね」
真宵さんにつられて移動する。
彼女が案内してくれたのは森の中に位置する小さなため池のようなところである。彼女の住まう神社からさほど離れておらず、石鳥居のあるその場所に彼女が手をかざすと、水が渦巻きその中に春国さん達三人の光景が映し出された。
「ここはわたくし、夜刀神の神社。椎井の池と呼ばれる場所ですわ」
「へえ……」
灰鳩真白さんや破月さんがいる境内のほうから賑やかな声が聞こえて来る。
しかし、俺は水の鏡に映る光景に目を惹かれてやがてそれも気にならなくなった。
◇
「誘理、もう痛くはない?」
「もう大丈夫でしゅ! フユも痛くない?」
「……ええ、痛くないわ」
元気よく返事をする誘理に幽家さんが曖昧な笑顔で応える。
誘理はあのあと、弱っていた魂を療養させて再び幽霊としてその姿を見せられるほどまでに回復していた。
無理矢理父親の魂に乗っ取られていたため、乗っ取られている最中の記憶は失っていたが、人型となったクロを一目でクロだと見抜くなどして相変わらずの鋭さを見せている。
次の日には消えていってしまう幽家さんと、幼き幽霊である誘理。その二人に囲まれて春国さんは笑っているものの、どこか悲しげで、泣きそうで……悲壮な覚悟を持って二人との最後のときを過ごしているのは明らかだった。
「誘理、あなたは今、幸せですか……?」
三人で他愛もない話をして、トランプゲームで遊んで、映画を見て泣いたり笑ったり、それこそなんでもない休日のように……まるで親子三人で過ごしているかのような光景。
俺達もそれを眺めながら座ったり、食事したりと休憩を挟みつつその光景を見守る。
そんなおり、目を伏せて穏やかな表情で春国さんが言葉にする。
「これが幸せじゃないなら、なにが幸せなのか分からないでしゅよ」
誘理は、春国さんが用意した饅頭を口いっぱいに頬張って、その頬を両手で押さえて美味しそうな顔をしたあとにそう言った。
本当に、本当に幸せそうに。心底幸せだと言わんばかりに。
その返事にますます泣きそうになった春国さんが袂で目元を拭う。
必死に泣くまいとしながら彼は眉をハの字にして、それから誘理に向き合うために微笑んだ。
「それなら、良かったです」
「ハル、あちし死んで良かったなんてことは言えましぇん。でもね、でもね、ハルとフユに会えたのはとっても幸せだったんでしゅ」
後ろ手を組んで誘理が言った言葉に、とうとう春国さんは我慢していたのだろう涙が溢れ出た。彼女の言葉がトドメとなって、彼の心に深く深く刺さって抜けなくなってしまったように。
「ハルは泣き虫でしゅね」
「ええ、本当に泣き虫な人。でも、もう情けないとは思わないわ」
彼の背中を優しくぽんぽんと叩きながら幽家さんが言う。
彼女よりもよほど身長が高い春国さんは、普段よりもずっと背中を丸めて小さく見える。
「すみませ……ん、僕の我儘に、付き合わせてっ、しまって……」
「今更よ、今更ね。散々私のことを振り回しておきながらそんなことを言うなんて卑怯だわ」
当たり前のように言いながら幽家さんはため息をついた。
それからぐすぐすと涙を流し続ける彼に一声かける。
「ほら、最後に写真。撮るんでしょう?」
「は、い」
「もしかしたら、私の姿は消えちゃうかもしれないけれど、それでも撮るの?」
「それでも、でずぅ……っ」
「まったく、本当に仕方のない人」
口ではそう言いつつも、彼女の表情はひどく穏やかだ。
それからカメラを用意した三人は神社が映るように三脚を設置してタイマーを設定すると横並びになる。幽家さん、誘理、春国さんと誘理を囲むようにして彼らは精一杯の笑顔を浮かべた。
カシャリ。
写真を撮る音が鳴り、三人で写真の出来を確認している。
どうやら満足のいく出来になっていたようで、そのまま笑顔で向かい合った。
何度か写真撮影を繰り返して、夕方。日が沈んでいく。
その夕暮れの中に落ちる影が三つと、犬のような影が二つ。濃く、そして長く伸びている。
遠くで見守るティロと、人型から変身して犬の姿に無理矢理戻っているクロ。
そのクロに近づいていった誘理は、その鼻先に頬をぐりぐりと押しつけて額と額を合わせた。
「クロ、だいしゅき」
「オレも、ユーリのこと好きだ」
誘理の魂は本来はこの世にあるべきではない。
彼女を幽霊として引き止めるのは、あまりにも酷なことだ。それが本人の意思とは関係なく。
父親の呪いに縛られ、この世に留まらせていた魂なのである。彼女自身はなんでもないようにしているが、その魂は消耗してボロボロだ。
縛っていたものも、未練もしがらみもなくなった彼女は行くべきところへ向かわなければならない。本来、幽霊というのはそうあるべきものなのだから。
「クロ、また会えたんでしゅ。だから、何度だってまた会えましゅ」
「ああ、きっとこの場所で。ユーリのこと、強くなって、待ってる」
――巡り巡って、この場所で。
そんな約束をして、一人と一匹は抱きしめあった。
「ハル」
「……」
「ハル、やるでしゅ」
「……」
「あちし、ハルじゃないと嫌でしゅ」
「…………」
ぼたぼたと抑えることなく涙を流し続けながら春国さんが頷く。
声を出せば、きっと涙声しか出てこないだろう。
誘理の頭を撫でて、幽家さんが彼女のことを抱きしめる。彼女もまた、一足先にいなくなってしまう誘理のことを思って泣きそうな顔をしていた。
「私、私、最初は誘理にとてもひどいことをしようとしていたわ。でも、今はあなたのことがすごく好きなの。ずっと一緒にいたかった。けれど、それじゃあダメだものね」
「あちしもフユのことしゅき! お母さんみたいだもん!」
その言葉で、とうとう幽家さんの涙腺が決壊した。
しゃがんで誘理を抱きしめたまま涙を流す彼女の頭を、誘理がぽんぽんと撫でる。震える背中をさすり、そして誘理自身も泣き笑いをしながら繰り返す。
「二人とも、だいしゅきでしゅ」
春国さんがその手をかざし、大幣をその場でしゃらりと振るう。
普段は狐面なしで浄霊できない彼が、狐面なしで真っ正面から誘理と向き合った。それから、泣きながら大幣を構える。誘理が行くべきところへ送るために。
「あのね、あのね? あちしね、最後に我儘言ってもいいかな?」
「遠慮なんてっ、しなくていいんですよ。子供は我儘を、言うものです」
涙声で詰まりながら春国さんが答える。
抱きしめていた誘理を離し、その頭をぽんと撫でた幽家さんも一歩、二歩と離れて春国さんの隣に並んだ。
「あちしね、ハルとフユがお父さんとお母さんだったらいいなって思ったんでしゅ。次に会うときは、そうだったらいいなって。だから次に会うときも三人がいいでしゅ」
それは、到底叶わぬ我儘だった。
これから輪廻を巡る誘理ならばまたこの世に産まれてくることもできるが、幽家さんは特殊だ。そもそも存在そのものがなかったことになってしまう。
だから、到底叶わない願いなのである。
――けれど。
「…………次に会ったときの、お楽しみですね」
「はいでしゅ!」
約束できない自分に嫌気が差したように、春国さんが切なげな表情をする。
「準備は、いいですか?」
「とっくにできてましゅよ」
春国さんが大幣を振るう。
風に揺られて、涙がはらりと散って行った。
「清められた魂が、どうか風に乗って輪廻へ戻れますように。浄霊の儀――祓いの舞」
春国さんが踏み込み、その場で大幣を使って舞い踊る。
そのたびに風が吹き、周囲の木々がさわさわと拍手をするように動き、そして夕方だというのに、太陽のような強い光が天から降り注ぎ、誘理を囲んだ。
「ばいばい、クロも、良い子でお留守番してるんでしゅよ」
春国さんが完璧に舞を奉納してますます強くなった風が、しかし優しく包み込むように誘理を迎えた。
だんだんと風と一体化し、薄れて消えていく彼女と、舞を奉納し終わりピタリと体を止める春国さん。
最後にその場にあったのは風に揺れる小さな小さなタンポポと、二人の男女。カランと落ちた一つ葉のネックレス。
そして――天まで届くように風に乗った一筋の涙だけだった。