人狼の犬神
緊張の一瞬。
踏み込んできたのはあちらが先だった。
「犬に噛まれたくなかったら上手く避けな!」
前傾し、腕をだらりと垂らした少年が八重歯を見せて嘲笑う。
その手がメキメキと音を立てながら獣の腕のように変化し、彼は両足で地面を蹴る。
「リン、受け流す」
「きゅいん」
まるで大口を開けた獣が向かってくるように、その腕が赤竜刀に叩きつけられる。しかしこの打刀が折れることはまずない。むしろ相手の腕が斬り裂かれなかったことに驚いた。
鋼と鋼が鍔迫り合うような金属音が鳴り響き、噛み合った状態で黒犬の少年が非常に楽しそうに笑う。
「っとと、なるほどね。ちゃんと対応できる人間ではあるんだ。それならちょっとは遊んでても怒られないな。オレだってあんな奴の命令に従うのは嫌々なんだし」
「……? 無理矢理、操られているとかそういうわけじゃないのか?」
一瞬手が緩んで、彼がニヤリと笑った。
それにしまったと思うと同時に背後に跳ぶ。しかし一歩遅かったようで、彼はその場で俺の腹を蹴り飛ばしてから距離を取った。
対応は間に合わなかったが、一応遅れてでも後ろに下がったので深く蹴り込まれる前に退避すること自体はできた。それでもものすごく痛いわけだが。
「って……」
思わず声が漏れるが、もう油断はしない。
別のところでは紅子さんと八千が接近した黒犬達を、そして幽家さんが太刀を持ってこちらも黒犬とその他いくらかの蠱毒を、春国さんは狐面を被って大幣を地面に叩きつけ限定的な範囲を無差別に浄化していく。
真宵さんのほうへと横目で見れば、そこには全ての蛇が集う異様な光景が広がっているし、おいぬ様も残りの犬神を締め上げてなにやら会話をしている。
「嫌々従ってるのは本当だよ? だってオレ嘘つかないもん。人狼の里が襲われちゃって、捕らえられたのがオレ達だったってだけでさ。もちろん逆らわないような呪いがかけられているし、そもそも人狼のオレで犬神を作るなんてことをされちゃってるからあの人から離れられないわけだし」
軽い調子で語りながら彼が低く構える。
頭を垂れて、その頭上から伸びるピンとした黒い耳が震えた。
その獣の右耳につけられた三日月と星を象った銀色のピアスが虚しく揺れている。そして、彼の首につけられたごつい首輪とそこから垂れる鎖がじゃらりと音を鳴らした。
「だからこうするしかないんだよ」
バキバキと音を立てて彼の俯いた髪の間から骨が割れるような、変形するような音が鳴り、犬特有の鼻先が姿を表す。それから地面についていた両足が変形し、靴を巨大な爪が切り裂いて獣の脚が露出する。
元から獣の姿になっていた腕をゆっくりとおろしその顔をあげると、そこにいたのは一匹の巨大な狼。辛うじて引っかかったシャツやズボンの布の欠片だけが、先程まで彼が人間の姿をしていたということを証明していた。
ふうふうと息を荒げながらそうして彼は口元を歪ませ、獰猛な牙を見せる。
その笑い方はどこか人懐っこく見えて、先ほどの人型だったときからの印象とそれほど変わらないように見えた。
「いつか、力をつけてオレ自身の力で今のご主人を殺す。そのためにはもっともっと強くなんねえといけないんだ!」
ぐばりと開いた巨大な口。
それが、それだけが俺に迫る。
口を開けた狼の顔だけが宙を飛び、再び防御の姿勢を取る俺に噛みついてきたのである。赤竜刀で受け止め、膠着状態……なんてことにはしない。
今度はこちらも出し惜しみなんてしない。様子見は終わりだ。
「……」
犬神の口の端から垂れた唾液が地面をジュッと焦がし、犬神の吐息が間近に吐きかけられる。そんな中、俺は視線を一瞬だけ背後に回す。
そこには、他の犬神相手にちゃんと善戦している紅子さんの姿があった。
「俺だって格好良いところ見せたいんだよな」
「グルルルルウ」
ふっと息を吐いてから、赤竜刀の柄から直接力を込めるように決意の気持ちを示す。一度紅子さんを見て落ち着いた。今ならいける!
だんだんと熱を帯びる赤竜刀に、力強く薔薇色の炎が宿る。
これでやっと、本領発揮だ。
「……」
それでも刀剣を噛みついたまま離さない彼に感心する。
しかし、それもここまでだ。
「っ、こっちは囮か」
直前に気がついて、赤竜刀を離してバックステップ。
なぜなら、首だけとなった狼の頭が赤竜刀を咥えている間に、ひっそりと体のほうも移動して俺に蹴りを叩き込もうとしていたからである。器用だな。頭のほうに集中しすぎていたらまたやられていたかもしれない。
「リン」
「きゅーい」
多分彼は俺から武器を取り上げることに成功したと思っているんだろうが、それは甘い。リンが「はーい」というニュアンスで鳴きながら形態を刀剣からドラゴンに変化させて手の内に戻ってくる。
驚いた様子の犬神の元へ踏み込み、大上段からの振り下ろし。その脳天を……。
「っ、こっちだ!」
途中で切っ先を逸らし、頭のすぐ真下の位置を横薙ぎする形にする。
するとガギンッと、音を鳴らして僅かな抵抗と共に見えないなにかが斬れる音がした。
「ギャンッ!」
犬神の悲鳴があがり、その頭が急速に力を失って地に落ちる。
一瞬だけ視えたなにかを斬るほうを優先したわけだが果たして……?
頭が地に落ちた瞬間、頭のない体のほうも膝をつく。
その首にはまっていたゴツい首輪が音を立てながら斬り裂かれてその首から外れる光景が見えた。そこで彼の動きが停止する。
「ハハッ、マジか」
気がつくと狼の頭が人型の頭に変化し直されていて、生首がそこに転がっているというホラーな光景が出来上がっていた。しかもその生首は大笑い。
これ、春国さんが狐面を被っていなければ大騒ぎだったのでは……?
「解放された! 解放された! 解放された!」
彼の言葉で他の犬神達も動きを止める。
よく見れば彼らにも毛に隠れて見えにくいが、首輪がはまっているのが分かる。だから、瞬間的に叫んでいた。
「皆、首輪を狙え!」
相手を殺さずにどうにか捕らえられないかもしていた皆は、その言葉に即座に動いて対処するのだった。