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ただそれだけを伝えたくて

【青水香織の日記】



 今日、引っ越してきた。いや、帰ってきたって言ったほうがいいのかな? 至は元気かな。また会うのが楽しみ! 


 まさか不良になってるとは思ってなかったけど、でも至は至だったみたい。なーんにも変わってない。ちょっとぶっきらぼうだけど、不器用なだけでやっぱり優しい。


 口下手なわたしじゃクラスに馴染めるか心配だなあ。

 なにか得意なことで話せるようになればいいな。


 吹奏楽はやっぱり楽しい。選んで良かった。

(二年程前の日付から抜粋)



 先生からトランペットを買ってもらってしまった。まさかそんなことまでしてくれるなんて…… わたしはただ楽しくてやってるだけなのに、そんなに期待されても困るな

(一年程前の日付から抜粋)



 ちゃんと馴染めたと思ってたのに

 どうして? どうして? 


 ひどい、私の楽器……


 中庭に呼び出されて怪我をした。痛い、けど、至が手当をしてくれた。彼はなにも知らないけど、黙って労ってくれた。

 あたたかい


 至も知ったらわたしをいじめるのかな? 怖いよ。

 先生までどうして。

 言えない。怖くて言えない。知られたら、どうなるの? 

(半年程前の日付から抜粋)



 なんでわたしがこんな目に。


 至は悪くない。知らなかったんだから。

 わたしが殺される結果になったとしても、至は悪くないよ。憎みたくない。憎みたくなんてないよ。


 ねえなんで、たすけてくれないの


 きらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらい

(二週間程前の日付)



 みんなしんじゃえばいいのに

(一週間前の日付)



 日記はここで途切れている……


 青水さんの家では同じように紅子さんが鍵を開け、日記を見つけた。

 その内容は結構悲惨なものだった。紅子さんから事前にいじめがあったと聞いていなければ読んでいる途中で俺は投げ出していたと思う。

 しかし、いじめの事実はこれが証拠になったが、この内容からして押野至君が狙われる謂れはないだろう。むしろ青水さんは押野君の存在で少なからず救われていたはずだ。

 理由があるとすれば、〝 助けてくれなかったから 〟か。知らなかったとはいえ、気付くこともなかった。それを恨んでいるのだろうか。なら逆恨み…… としか言えないのだが。それは押野君の日記でも〝 気付けなかったこと 〟を悔やんで殺されても仕方ないなんて言っていたから両方が分かっていることか。


 結局理由はあるがそれも逆恨みに近いって結論でいいのか? 


「あっ」

「どうした? 紅子さん」

「人が来ちゃったみたいだよ。一旦隠れよう、お兄さん」

「分かった」


 日記は元通りにして近くにあった押し入れに二人で入る。少し狭いがなんとかなるだろう。

 少しだけ押し入れの扉を開けて覗き見てみれば、チャイムが押されたのか独特な音が響き渡る。しかしそれを無視してしばらくした後に玄関の方からカチリと鍵の開く音がした。チャイムを押してから入っていたところを見るにこの家の住民ではなさそうだ。住人ならすぐに鍵を使うだろうしな。なら玄関外のどこかに鍵を保管する場所でもあったのだろうか。仲の良い友達ならそういうのを知っている場合もある。

 普通は留守のときに勝手に入るなんてことはないが…… もしかして空き巣とか? もしそうなら出て行って止めなければならないが。


 青水さんの部屋には遺影が置いてある。

 そこには 「じゃがりー」 やら 「ポテチ」 が置いてあった…… いや供えられていたのかな? とにかく、いろいろ置いてあった。その中には遺品と思わしきキーホルダーなんかも置いてあった。ピンクのウサギの可愛いキーホルダーだ。

 目の前の隙間から見えた男の子は紅子さんと同じ制服を着ていた。七彩高校の生徒で間違いない。

 ぎゅうぎゅう詰めになりながらも紅子さんを振り返ると彼女は静かに頷いた。きっと彼が押野至なのだろう。


 少し長めの髪を茶色く染めていて片耳にピアスをつけている。背はそんなに高くないが目つきが鋭くていかにもスレてますって見た目だ。

 そんな彼が持っている鞄には似つかわしくない青色のウサギのキーホルダーがぶら下がっている。デザインが似ているし、もしかしたら青水さんからのプレゼントなのかもしれない。


 これは重大な説得材料だ。もしも彼が襲われたとしても俺たちが割り込んで説得することができるかもしれない。説得まではいかずともケルベロスさんを呼ぶまでの時間稼ぎには十分だ。こちらには怪異の紅子さんだっているし、俺には赤竜刀がある。これ以上殺人なんてさせてやるもんか。


 彼は遺影の前で手を合わせるとその前にお菓子を置いて去っていく。

 玄関が閉まった音と共に俺達は押し入れから脱出した。


「ちょっとお兄さんアタシを触りたいならもっと広いところで……」

「うりゃっ」

「うわあああ!」


 エロネタを振られるのが苦手なら振ってこなければいいのにな。

 腰をほんの少しだけくすぐってやればすぐに逃げていった。対処法は知れたがなんだかいたたまれない気分になる。


「汚されてしまったよう……」


 おい、顔が笑ってるのが見えるぞ。案外楽しんでないか? こいつ。

 やめてくれよ、そういう反応されるとクソラトホテプを思い出しちゃうじゃないか。

 そうやってからかいながら遊んでいる紅子さんは放置し、ピンク色のウサギのキーホルダーを回収する。

 すると背後で息を飲む音が聞こえ、彼女が立ったのであろう音がした。振り返ってみると、先程とは打って変わって真剣な表情でどこかを見つめていた。


「お兄さん、外行くよ」

「なんかあったか?」

「見つかった」


 見つかった…… 俺達がか? 

 いや、違うな。この言い方だと押野君が、か? 


「あの少年じゃあなす術もなく…… いや、喜んで殺されるだろうね。そうなれば彼女の罪が更に重くのしかかるだろう。彼女を救うことはできない。でも、心が復讐に染まったまま裁定されるのはかわいそうじゃないか。そう思わないかい? お兄さん」


 真顔から笑顔へと変わった紅子さんはこてん、と首を傾げるように俺を見上げた。

 その瞳は笑みとは程遠い悲哀に似ていたが、彼女の言うことはもっともだ。復讐に捕らわれたままかつての友人に手をかけるのは悲しいことだと思う。

 ケルベロスであるアートさんはどうあっても仕事を全うし、青水さんを捕らえて連れて行くだろう。ならせめて心だけでも救えたのならば。


「分かった。行こう」


 キーホルダーを握りしめ、俺はスマホを取り出すと地獄の番犬に電話をかける。


「紅子さん、少しだけ時間を稼いでもらえるか?」

「いいよいいよぉ、ただし人間でできる範囲しかアタシはやらないからね。押野にバレたくないからね」

「それでいい。宜しく頼む」

「まったく、怪異使いが荒いことで」


 紅子さんはガラスの破片を取り出し、走り出す。

 ガラスの破片は、彼女の手から放たれた炎のようなものを纏うとゆっくりと馴染むようにその中へ消えていった。

 あれが本気モードなのかもしれない。怪異である彼女がどうしてそこまで協力的なのかは分からないが、今は頼もしい仲間だ。


「俺様だぜー! どーしたクソガキ? 獲物でも見つけてくれたのか? ホウレンソウは俺様達の世界でも重要だぜー!」


 とにかく、先にこの人のお呼び出しだ。

 場所をおおまかに伝えて電話を切る。まだ向こう側で喚いている声が聞こえたが、あまり詳しく話している時間はない。アートさんが辿り着く前に青水さんの説得をしなければならないからだ。


「な、なんなんだよなんなんだよこれはぁ!?」


 俺が外に出ると、押野君を背後に庇って青水さんと対峙する紅子さんがいた。

 押野君はどうやら目撃した今でも青水さんが立って動いていることに混乱しているようだ。頭を抱えて 「嘘だこんなの、こんなの、で、でも…… !?」 と呟き続けている。


「至、わたし会いたかったよ……」


 ふらふらと近づいていく青水さんは、あのとき渡した香水の小瓶が丁度入るくらいの袋を首から下げている。鞄は持っておらず、図書館で会ったときよりも制服が破れているように思う。

 彼女が近づくたび紅子さんが押野君を庇いながら一歩一歩下がって行く。


「あいつらに協力してたんじゃないの? だからわたしに教えたんでしょう? ねえ、至。ねえ、ねえ、ねえ、ねえねえねえねえねえ!」

「おやおや情熱的だね。青水さん、君はそれを知ってどうするつもりなのかな?」


 ふらふらと歩いていた彼女は紅子さんの質問でようやく押野君以外の人間がそこにいることに気が付いたようだった。


「ふふ、ふふふふ、分かるでしょう? なんで邪魔するの?」

「このままじゃ説得なんてできそうもないよ、お兄さん」


 分かっている。

 彼女は今自分の目的以外のものが見えていない。


「ふふふ」


 青水さんが指をすっと上げる。

 その瞬間に紅子さんが押野君を思い切り突き飛ばしその場に伏せた。


「残念」


 青水さんが指さした箇所はコンクリートであろうとも抉れ、まるで強い衝撃が加えられたかのように砕け散った。

 その直線状にいた紅子さんも巻き込まれ、そこには昨日見た裏路地の惨劇が繰り返されたかのような……


「まるでアタシがグチャグチャのミンチになる姿を目撃してしまったみたいな顔をして、どうしたのかな?」


 肩を叩かれ、振り返るとそこには無傷のままにやにやと笑っている紅子さんがいた。


「はっ!? えっ、紅子さん無事!? どこにも怪我はないか!?」

「おにーさん慌てすぎ……」


 苦笑して彼女は再び押野君の所へ行く。押野君も現実が上手く受け止められないようで紅子さんのことを何度も見直しながら 「あ、赤座?」 と呟いている。

 彼は一般人だからな。こんな展開にはついていけないだろう。

 紅子さんは先程までより近い位置にいる青水さんと対峙して顔をしかめ、 「鼻がおかしくなりそうだよ」 と悪態をついている。


 鼻…… ? と疑問に思った俺が横目で時計を確認しつつ、その場の空気をいっぱいに吸い込むとなんとも生臭い臭いが鼻腔に入り込んできたではないか。

 臭いの元を辿ると興奮しているのか、悪辣な顔になっている青水さんに辿り着く。


 腐った臭い…… 彼女に売った香水。その先に導き出される答えは……


「死体が…… 動いてる…… ?」


 あの香水は臭いを消す作用がある。対象を無臭にしてしまうのだ。

 それならばケルベロスであるアートさんがすぐに捕まえられなかったのも、あの高架下のゴミ捨て場や現場の無臭さも説明がついてしまう。

 やはり裏にクソ邪神の影ありか。


「至…… 君が憎いの。憎くて憎くてたまらなくて…… 最後までずっとずっとずっと憎かった。だからわたしをいじめ殺したやつと、君も一緒なんだよ」

「で、でもお前…… 自殺で…… !?」

「ああそうだね自殺だね…… あいつらも落とそうとは思ってなかったんじゃないかなぁ? それを利用して死んでやったのにどうして〝 自殺 〟ってことになっているのかわたしにはさっぱり分からないよぉ! やっぱり殺したのは君達…… だから死んで? ねえ? そのためにわたし、戻ってきて…… うう?」


 殺されそうになって自ら自殺か…… 悲惨だな。そんなにも憎んでいたのか。


「……」


 紅子さんは彼女の話を聞いてじっとガラス片を見つめていた。

 そして不服そうに、そして複雑そうな顔をしながら 「おにーさん」 とか細い声で呼んだ。


「どうした?」

「時間がないんじゃないの? 早く説得してあげなよ」

「分かった」


 俺は押野君の方へ歩み寄り、尻餅をついたまま呆然としている彼を起こした。

 その間にも、なぜか先程の攻撃を行おうとはせずに包丁を取り出した青水さんが紅子さんに受け流されている。

 ガラス片のあの短いリーチで包丁を器用に巻き込み、彼女を転ばせる。どうやらできるだけ傷をつけないように対応しているみたいだ。


「押野君、そのキーホルダー借りてもいいかな?」

「はあ? あんた誰だよ…… いや、それであいつは満足してくれると思うのか?」

「…… もちろん」

「なら、頼む。俺は…… あいつに恨まれてるのは当然だと思ってたけど…… あんな顔は、見たくねーよ」


 般若のように恐ろしい顔をしている青水さんは、まっすぐと押野君をつけ狙っている。今は上手く紅子さんが近づけないようにしてくれているが時間の問題だ。それに、もうすぐ電話してから五分以上経つ。


「青水さん聞いてくれ! このキーホルダーに見覚えがないか!? 押野君がいじめた奴らと共謀してたなら、君とお揃いのキーホルダーを持ち続けているわけがないだろ!? よく考えてくれ!」


 青とピンクのキーホルダーを掲げたまま彼女達に近づいていく。

 青水さんは包丁をピタリと止めたまま視線を俺の手元に向けた。殺意は収まっていないだろう。そんなまさか、そんなことがあるわけない。半信半疑のまま迷いを見せている。鞄の中から彼女の日記をゆっくりと取り出す。その間も彼女は動かない。


「さっき、君の日記を見させてもらったんだ。勝手に見たりしてごめんな。でも……」


 俺は日記の目的のページを開くと声に出して読み上げた。



 〝 至は悪くない。知らなかったんだから。

 わたしが殺される結果になったとしても、至は悪くないよ。憎みたくない。憎みたくなんてないよ 〟



「君は、彼のこと憎みたくないんじゃなかったのか? 悪くないって、思っていたんじゃないか? よく思い出してみてくれよ」

「わたし、が…… ?」


 青水さんの暗く濁った目に少しだけ光が戻ったような気がした。


「それにさっき君の家に入って分かったんだけど、押野君は毎日君の遺影にお供えを持ってきているみたいだ。そんな彼が君を裏切るはずがない。そうだろ?」


 青水さんの手から包丁が滑り落ち、地面に当たって軽い音を立てた。

 もう彼女の瞳から暗い感情が見えることはなかった。膝から崩れ落ち、彼女は嗚咽を漏らしながら押野君の名前を何度も、何度も繰り返しながら謝る。


「そっか…… そうだったんだ…… わ、わたし憎んでたんじゃなくって…… ただ〝 ありがとう 〟って、ただそれだけを伝えたくて…… それなのに! なんで、なんで忘れてたんだろう…… ? ごめん、ごめんね至…… わたし、わたしっ!」


 紅子さんはその様子を見ながら静かにガラス片をいずこかへしまいこんだ。一件落着だと思ったのだろう。これで青水さんの心は救われた。


「お、オレは…… なあ、香織、気付いてやれなくて、ごめん」


 彼…… 押野君もよろよろと、おぼつかない足取りで彼女に歩み寄る。

 なんだ、いい子じゃないか。不良みたいな恰好をしていても日記の通り優しい子なんだな。


「ごめん、ごめんな。ずっとずっと、言えなかったんだ。オレ、やっぱりお前といたときが一番楽しかった。だから、また会えて、こうやって、話ができるのが…… 夢みたいだ」


 泣いたまま二人が抱き合い、笑う。

 それを見ながら、横目で確認した紅子さんはとても複雑そうな顔をしていた。

 そういえば彼女の死については俺もよく知らないんだったな。もしかしたら、似たような境遇だったのかも、なんて。そうだったらなんだか悲しいな。紅子さんは怪異だから地獄に連れ戻されるなんてことはないだろうが。


「おーおー、これだけ待ってやったんだ。もういいだろ?」


 そのとき、俺の背後から声がした。

 もう電話から十五分以上は経っている。大分待たせたようだ。


「空気読んでくれ」

「俺様は十分読んだぞ! 空気読んでてやったからお供え寄越せ」


 そう言いながらお土産用に用意していたクッキーが鞄からひょいと持って行かれる。

 アートさんはそのまま袋を破ると犬耳のように跳ねた紫の髪をふよふよと反応させながら一気に食べてしまった。


「これの匂いがしなかったらもっと前に終わらせてたんだ。少しは感謝しろよ」


 嬉しそうにお菓子を食べ進みながら今も泣き止まない二人を見守っている。

 お菓子がある間は見逃してくれるのか。地獄の番犬なんていうから戦闘して止めないといけないかと思っていたが、案外有情だったようだ。


「アートさん、彼女に殺された生徒はどうなったんだ?」

「犠牲者のことか? そりゃいじめのことを含めても地獄行きとまではなんねーよ。冥界で順番待ちしてそのまま転生コースだ。順番待ちしている間に生前の記憶もなくなるだろうよ」

「そうか…… なら、青水さんは…… どうなる?」


 俺がそう言うと、アートさんは 「あー」 だとか 「うー」 と言い淀みつつ言葉を選んで答えてくれた。


「元々地獄行きだったところに脱獄したあげく怨霊になって寿命の残っていた人間を殺してる。つまりだ、あー…… どう足掻いても暫く転生はできねーな。人間とは投獄される年数の桁が違う」

「……」

「……」


 そうか、そうだよな。

 〝 ありがとう 〟を伝える為だけに脱獄して、人を殺してしまったあげく何千年も何万年も地獄で苦しめられることになるのか。

 …… いや、待てよ? なんで彼女は憎しみに囚われてしまったんだ? 元々強い想いを抱いて、〝 感謝を伝える 〟ことを目的に逃げ出してきたのになぜ彼女はその真逆のことをしたんだ? 

 目的がすり替えられた? それとも〝 なんらかの原因で忘れさせられていた 〟 ? 

 なんだ? なにが原因だ? 嫌な予感がする。


「あ、ああ…… やめてっ! やめて!」


 青水さんの叫び声で思考を中断し、そちらへ目を向ける。

 するといつの間にか彼女の使っていた包丁が浮かび上がり、彼女に狙いをつけて飛び回っているではないか。


「香織!」

「至、危ない、危ないって!」


 押野君が彼女を押し倒したことで包丁は青水さんの首から下げた袋だけを切り裂き、そのまま力を失って再び地面に落下した。

 次いで落下した袋の中からカチャンとガラスの割れる音が響き、残っていた香水が溢れ出した。


「い、いやぁ! 香水が! 香水が! これがないとわたしっ、わたし!」


 香水は気化したように溢れた先から消えていく。

 それによって、香水の効果で幾分か消えた臭いは、パニックを起こしたように髪を振り乱す青水さんによってかき消された。

 ぶわり、と彼女から凄まじい腐臭が漂いはじめ、傍にいた押野君は咳をしながら青水さんに突き飛ばされてしまう。


「こないでぇ! 見ないでよぉ!」

「ッチ、あいつの仕業かよ。ホントにタチ悪ぃな」


 アートさんはそう言って彼女に歩み寄ると、そのままどこかへと連れて行こうとする。


「ま、待ってくれ! 香織を連れて行かないでくれ! やっと、やっと会えたのに。やっと言えるって…… クソッ」


 既に彼女はアートさんに担ぎ上げられ、離れた場所に連れて行かれている。泣きじゃくるその声で居場所は分かるが、彼女を救うことはできない。

 けれど、押野君は諦めきれないのか震える足でそのまま走り出す。どんどん距離が開いていき、止める間もなかった。


「どーする? お兄さん」


 静観していた紅子さんが俺を見上げた。


「追うぞ」

「りょーかい」


 腐臭と泣き声のせいで、居場所はすぐに分かった。


「人外の物に手を出した末路なんて大抵はこんなモンだぜ…… どうして追ってきた」


 追わないわけにはいかないだろ! …… なんて叫ぶことはできなかった。

 そこには、身を震わせながらボロボロと崩れ果てていく身体をかき集める青水さんがいた。


「な、なんだよ、これ!?」

「あの香水の原理はな、普通に臭いを消すだけじゃねぇ。臭いが出ねぇように〝 腐らないように 〟する効果があるんだよ。この一週間。こいつはそれを使い続けた。一週間もありゃぁ人間の身体が腐るのに十分だ」


 つまり、今まで抑えていた腐蝕が香水が切れた今、一気に彼女を蝕んでいるというのか? 


「ああ、ああ…… いやぁ……」

「香織! 香織!」


 そんな彼女をそっと彼が抱きしめるたび、彼女の身体はボロボロと崩れ塵のように散って行ってしまう。それをいくら集めても元の形になることはない。

 それが分かっているのに、二人は泣きながら塵を集める。俺は、なにもできずにその光景を見ているしかできなかった。


「今度こそ、今度こそ助けてやるから…… 行かないでくれ!」

「いた…… る…… たす………… け————」


 彼がその場に倒れこみ、塵が舞う。もうそこには塵しか残っていなかった。

 彼女は最後まで、瞳に絶望を映したままだった。俺達は、俺達は彼女の心だけでも救いたかった。なのに、なのになんでこうなってしまうんだ。


「なあ紅子さん…… どうしたら、助けられたんだろうな……」

「…… 青水さんは、押野がいただけまだマシだと、そうは思わないかい?」


 そういうものなのか? 俺には分からねぇよ。


「あああああああああ!!」


 叫んで、そして次に顔をあげたとき、彼は〝 壊れて 〟しまっていた。


「な、なあお前達誰だ? オレ、オレ、幼馴染待たせてるんだよ」

「…… その幼馴染とはどういう関係だ?」

「二年ぶりに再会するんだ。ちょっと照れ臭いけど、こんな不良になったオレでもあいつは分かってくれるのかな」


 アートさんはいくつか彼に質問をすると、目を伏せて首を振った。

 彼は忘れてしまったのか、この二年間の記憶を。絶望に至ったその結末に、忘却を選んでしまった。


「あーあ、こういうもんは覗かないのが定番なんだがな…… でもこうなっちまったのは仕方ねーし、これは精神病院案件だ。知り合いに連絡して始末は俺様がつけておく。お前らは帰りな」


 しっし、と追い出されて帰途に就く。

 遅れてやってきた紅子さんは制服のリボンを外していた。その手が塵に汚れていることで俺はなんとなく察し、彼のところへ置いてきたのだろうと結論付ける。小瓶は割れてしまったから入れるものがなにもなかったのだろう。


「お兄さん、お兄さんは悪い奴だ」

「…… ああ、そうだな」


 あの香水を最初に売りつけたのはきっと俺の主人ニャルラトホテプだろう。けれど、俺自身も彼女に香水を渡しているのだ。それだけで、共犯だ。

 恨まれても仕方ない。それだけの、結末だった。


「でも憎むべきはお兄さんじゃない」

「ん?」

「いつか、飼い主に噛みつけるときがくればいいね?」

「…… そうだな」


 彼女と別れてもう一度考える。

 なぜ、彼女の目的が変わってしまったのか。でもいくら考えても結論はでなくて…… そのうち家についてしまった。


「くふふふ、溢れた塵を捕まえ損ねたみたいな顔をしてどうしたのかな? ねえ、れーいちくん」


 その瞬間、抑えていたものが一気に溢れ出た。


「おやおや泣いてるの? くふふふふ…… かわいそうに。彼女をあんなゴミにしてしまったのは君なのに?」

「クソッ、クソッ、クソォォォォォォ!」


 首輪が絞められ、手首に魔法らしきものが当たり刀を取り落とす。


「ああああああ!」


 筋肉が萎んでいくような激痛で立っていられず、俺は無様に床へと転がった。


「料理してくれないと困るからあとでそれは治してあげるけど、暫くはまた二人っきりで遊ぼうか」


 薄れゆく意識の中で見たものは、恐ろしいほどの笑みを浮かべながら 「れーいちくんが悪いんだから」 と、俺の精神を徹底的に踏み躙っていく奴の姿だった。


「タルトを盗んだのはハートのジャックちゃんかな? くふ、くふふふ、くふふふふふ……」






「お前はどうしたい? なんのためにそうしたい?」

「感謝を、ただ感謝を伝えたくて。至に、至君にありがとうって」

「くふふ、それは面白いね。おっと怒らないでよお嬢さん。お前の願いを叶えてあげようって言っているのだから」

「本当? 本当に?」

「これが君のタイムリミット。それまでになんとか果たすんだよ。代金は…… 『感謝の記憶』 いいね?」

「え! そんな、それをあげたらわたしは!」

「さようなら、お嬢さん。精々私を暇にさせないでおくれ」


 覆水は盆に返れない。

 目的を奪われた少女は 『感謝』 を忘れ、そこに残った 『憎悪』 に絡め捕られた。

 それもこれも全ては…… 這い寄る混沌の掌の上……


「永遠にさようなら」


 相変わらず彼は、つまらなそうに笑った。


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