未来に咲くチグリジア
「戦闘中にわたしが言っていたことでもう察しているでしょうけれど、私、二十二年後の未来から来たんです」
幽家冬日と名乗ったその女性が言った。
ピンクブロンドに前髪の一部が犬の垂れ耳のようにグラデーションで金色になっている。今時の女性というこの人、ちょっと押しが強いような気がしたが、先程までとは違い落ち着いた今は冷静に話せるようになっている。
それにしても二十二年後か……意外と近かったな。未来って言うくらいだからもっと先の、それこそ数百年後の未来とかから来た人なのかと思っていた。
「キミはどうして犬神達を狙っていたのかな? 春国さんから聞いたよ。電車の中で、誘理を運んでいた人間を殺したって」
「ユーリ……?」
一瞬理解できないように首を傾げた幽家さんは、紅子さんが視線を向けた誘理を見て納得したように頷いた。
「あの箱に入っていた子供ね。あれを追いかけて犬神が呪いを運ぶって話だったから、てっきりただの箱だと思っていました。そう、思っていました。間違っていたのね」
箱の状態だと確か中身は誘理の遺骨でできた櫛だったか。それしか知らなかったのなら、まあ誘理のことを知らなくてもおかしくはない。ということは、あくまで目的は犬神だったということで。
「犬神による呪殺を防ごうとしたということでしょうか?」
「ええ、ええ、そういうことになります」
隣の春国さんの言葉に幽家さんが頷く。
彼女を説得した状態からその隣に腰を落ち着けてしまった春国さんは、今更席を動くということもできず彼女を横目で緊張したように見ている。斬り合いにならず、話し合いをちゃんと続けてくれるかどうか心配なのかもしれない。
今の冷静な彼女なら問題ないだろうが、幽家さんのほうもなんだか気まずそうだ。こっちは別の意味で緊張しているように思える。まあ、春国さんも幽家さんも、お互いに美男美女ではある。さっき頭をぶつけたり至近距離で説得したりがあったので、そりゃあ気まずいだろう。
「あなたは過去を変えに来たのかしら? それとも……」
「私は……私は、過去改変を防ぎに来たのです」
真宵さんの言葉に彼女が即答する。迷う素振りすら見せず、凛として言い放っていた。
「過去改変を防ぐために、時間遡行をしてきたということかしら」
「ええ。私は……」
一拍、彼女は躊躇うように、そして言葉を選ぶように唇を震わせて視線を落とす。
「……私が防ぎに来たのは、とある飛行機事故を防いだ未来です。本来飛行機事故で死ぬはずの人が死にませんでした。私は、それを防ぎに来たの」
言葉を濁すようにそう言って、彼女はぽつぽつと話を続ける。
「ある人が、飛行機事故を防ぐために過去改変をするための研究を始めました。元々その家系は霊能力に長けていて、そういう人が強く、強く望めば認識が強まり、怪異が生まれやすくなるの。それを利用して、その人は生まれ落ちた〝ティンダロスの猟犬〟を術でぬいぐるみに閉じ込めました」
淡々と事実を語るように、声の色を落として幽家さんは言葉を紡ぐ。事実をただ垂れ流すように、眉を顰めながら。
ここに神様がいるから嘘をつけないと思ってあるのかもしれない。しかし、過去改変とそれを防ぐための時間遡行なんて、真面目な話だから理解はできるんだが……それにしたって、随分と硬い表情で話をするんだな。
「その人は喜びました。これで飛行機事故が起きた原因である、ハイジャック犯を全員殺せばいいと。けれど……けれど、事態はそう上手くは行かなかった」
彼女は正座をした膝の上でぎゅっと拳を握り込む。
そのとなりに歩み寄った大きなぬいぐるみが、心配そうにして彼女へと寄り添った。
「人間には、時間遡行するのにも適正が必要だったの。その人は、自分自身が時間遡行しても五分しかいられないことを知りました。だからその人は、過去の自分に全てを託したのです」
苦しげに語り続ける彼女に、隣に座る春国さんも眉を下げる。
「未来の自分に飛行機事故で大切な人が死ぬことを告げられたその人は動き出しました。半信半疑だった実家の術士としてのツテを辿り、とうとう呪殺を専門にする術士に辿り着いたのです」
なるほど、ここまで来ればさすがに分かるぞ。
その呪殺専門の術士とやらが犬神……クロや誘理の命を弄んだ元凶であり、過去……つまり現在。幽家さんから見た過去を変える手伝いを、呪術コレクターがしている形になるわけだ。
そして、クロが今回狙うことになっていたターゲットが彼女の言うハイジャック犯とやらで、そいつを呪殺するように依頼した人間が、時間遡行してきた自分自身に過去を変えるよう頼まれた本人である、と。
「なかなか複雑だな」
「っふふ、そうかもしれませんね」
苦笑いするように幽家さんが吐息を漏らした。
事情を全て聞いた。彼女が嘘をついていないのならば、犬神関連をなんとかすれば彼女の目的である「過去改変を防ぐこと」も自然と達成可能だというわけだ。嘘をついているにしても、そうならば真宵さん達から忠告が飛んでくるだろうし、かね本物の証言と取っていいだろうな。
そんな判断をしたときだった。
「……あえて、訊きますね」
膝に拳を置いて俯いている彼女に、春国さんが目を向けてその手を握り込む。
積極的だなあなんて呑気な言葉は出てくることなく、喉の奥に消えていく。
「なぜ、あなたが過去改変を防ごうとしているのでしょうか? 冬日さん、あなたはそれをずっと濁して話しています。あなたがその人となんら関わりがないのなら、過去改変を防ごうなどとはきっと思わないでしょう。猟犬を連れているのも、普通の人には無理なことです」
ああ、そういえばそうだった。
素直に事情を話してくれたから違和感もなかったが、彼女は確かに、どうして自分がそれを防ぎたいのかは語っていない。
嘘もついていなければ、本当のことも、きっと言っていないのだろう。
「きっと僕は……すごく酷な質問をしているんでしょう。でも知りたい。冬日さん、あなたは……なにを抱えているんですか?」
春国さんの垂れ目気味な瞳が真剣に彼女へと向けられる。
質問自体も「なにを隠しているのか?」ではなく、「なにを抱えているのか?」と似て非なるものだし、春国さんはなんとなくその内容を推測できているのかもしれない。
「私は……」
その過去改変をしようとしたのが彼女自身だったとか?
あとはどんな理由が挙げられるだろう。
「……」
沈黙。
静かに口を開閉して躊躇う素振りをみせる幽家さんに、春国さんは正面に回ってその膝の上で震える手を包み込んだ。
「教えてください」
「……飛行機事故が回避されることによって、それによって、死ぬ未来を防がれたのは私の母です」
観念したように彼女が呟く。
「でも、やっぱり過去なんて変えるもんじゃありません。母は、毎日夢の中で、飛行機事故で死ぬのを繰り返しているんです。私にそれが発症することはありませんでしたけれど、けれど、母はそれで狂ってしまいました。発狂してしまって、それを望んだ父でさえ、もう手はつけられません。母の意識を元に戻すことは叶いません。それが本当に幸せだと、思いますか?」
俺が思い出すのはやはり……人のまま死なせてくれと希った、青凪さんのことなのだ。彼女も、無理矢理助けたとしたら良くて発狂、悪くて脳死する未来が待っていたらしい。それでも救おうと、あのときの俺は思っていた。迷っていた。
だが、今はとてもそうは思えない。
さとり妖怪の鈴里さんに諭されたときのことも同時に思い出す。
曰く「死ぬことで救われる人もいる」のだと。生かすことが全てではないのだと。全てが上手く行くものではないのだと。
その「生かされた立場」に立たされているのだろう目の前の女性を見ると、余計にあの教えが正しいものであったことが分かる。そして、俺がどれだけ傲慢だったかも。
俺の予想が正しければ、きっと彼女は……。
だって、彼女はどう見ても十代の女の子ではなく、二十歳かそれ以上くらいに見えるのだから。
「母が、飛行機事故で死んだとき……私もそのお腹の中にいたらしいです」
つまり、二十二年後からやってきたという彼女は。
「私は、私と母が生きる未来を……私が生まれ落ちた幸せな結果を消しに来たんです」
顔をあげた彼女は泣きそうに顔を歪めながらも、本当に泣くことはない。その代わりに背筋を伸ばし、はっきりとその言葉を口にした彼女は、覚悟をしっかりとその瞳の中に映し出し……そしてなにより、凛としていて非常に美しかった。