呪い手繰るおいぬ様
「ちょっと旧友を祟っていたの」
「なんて?」
いい加減ツッコミ疲れてきた。
しかし、俺はそう言わざるをえなかった。
ちょっと神経を疑わざるを得ない話なんですが。
あなた旧友って言ってましたよね? 旧友を祟るっていったいどういうことですか……?
「令一くん……宇宙の真理を垣間見た猫みたいな顔をしていますわよ」
「誰のせいだと!?」
真宵さん達神様の行うことは本当に理解できない。多分説明されても理解できない気がするぞ。
「それで、真宵さん。今のはどういうことかな? どうして祟ったり……」
「ええ、別におかしなことではありませんわ。こうするのがあの子を呼ぶのに手っ取り早い……というだけですの」
あの子を呼ぶ……? 祟りで……?
真宵さんが言っているのが先程言っていた呪いの専門家とやらのことを指すのは理解できるんだが、その方法に関しては微塵も理解できない。祟ってどう呼び出すというのか。しかも彼女の場合、その本性を見た者に対して「血縁が絶えるまで祟る」という超強力で文字通り蛇のようにしつこい祟りであるはずだ。それをそうポンポンと普通の怪異に対して使用するはずがない。
呪いの専門家というのはそれだけすごいヒトなのか……? 彼女の祟りを受けても平然とするくらい……?
疑問だらけだ。
「えと……もしかして、ですが……『朱の君』をお呼びになったのですか?」
恐る恐る春国君が質問した。それに対する真宵さんは、ただただ微笑むのみである。その笑顔に春国さんが「ひいっ」と声を上げて、誘理が「うるしゃいでしゅ」と返す。
そんな仲良しな二人な様子にほっこりしかけたとき、真宵さんの瞳が普段よりももっと瞳孔が広がり、蛇の〝それ〟へと変化した。
そして、さっとその場から一歩後ろに下がる。
次いで、空間が歪むのが見えた。
先程まで真宵さんがいた場所の頭上がぐにゃりと捻じ曲げられるように空間が揺らぎ、その場に銀色が閃いた。
「ガラン」という甲高い音を立ててその場に落ちてきたそれ。
「タ、タライ!?」
ギャグかよ。
「なにこれ」
困惑した紅子さんの目の前で、空間の割れ目からタライに向かって水が降り注ぐ。いや、タライの中を見る限りほかほかと湯気が立っている。お湯だ。それとわりと良さげな適温の。
ってなんでだよ!?
「ああ、良かった。拒否されたらどうしようかと思いましたわ。このお湯は……神中村で観光していたのかしら」
なにやら訳知り顔でタライの中身を分析する真宵さん。
「いやいやいやいや」
わけが分からない。昔ながらのギャグみたいにタライが降ってくるのがなんの合図になっているんだよ。しかもそれ、拒否の合図じゃないのかよ。ぐるぐると考えて俺が現実逃避をしていると、タライの中になみなみとと注がれたお湯が歪む。そう、まるで鏡のように反射して……。
「あら、お早い到着ね」
真宵さんが嬉しそうに笑った。
ピンと張った水面にひとつ、ふたつと波紋が広がる。それから渦を巻くように中心から真っ赤に染まっていく……まるで鮮血のようなその色味に、俺はゾッとしたものを感じて再び紅子さんの肩を抱き寄せた。
本物の血液のように濁り、どろりとした液体が噴き上がる。
その場にお狐様がいるというのに、一気に場が穢れていくような錯覚さえ覚えるような血みどろの嵐がタライの上で踊り、その水飛沫が朱く輝き、物騒さの中にある種の美しさまで見出されるような感覚に陥った。
見惚れる。
朱い雫が蝶へと変化する。
紅子さんの美しい紅とは違う、血のような朱。
そして次に、朱色が鈍く光に反射したと思うと、どろりとした漆黒に変化する。
朱から黒へ。
赤から黒へ。
それはまるで、夕日が夜の闇に覆われていくように。
それはまるで、こびりついた血が朱から黒へと変わるように。
空気を孕んで朱色の蝶が漆黒の蝶へと変化する。
はらはらと舞うそれらが円を描き、その中心へと寄り集まっていく。
――いつのまにか、そこには人影が立っていた。
その胸の中心に漆黒の蝶が集まり、留まる。
そして溶けるようにその中へと消えていく。
周囲をひらひらと舞う無数の蝶に指を這わせて、その人影がゆっくりと微笑んだ。
「ふうむ、呼んだか。藍色の」
人影の外見は酷く女性的であった。その口から漏れ出でる声も鈴を転がしたような美しい女性の声。しかし、その胸板にはなにもなく、替わりに勾玉に似た酷く美しい結晶が収まっている。彼岸花のような模様が刻まれた結晶は妖しく光に輝き、そして同時にひどく禍々しい。
俺はその姿をひと目見た瞬間、寒気に襲われた。
まるで無数の視線を感じるような。
まるでそこに何人もいるような。
まるで怨念がいくつも凝り固まって混ざり合って、そこにあるような。
まるで目の前に地獄の凄惨な光景が広がっているような。
まるで無数の悲鳴がそこに閉じ込められているかのような。
無意識に体が震えだし、吐き気を覚えた。
しかし俺が正気をギリギリ保てたのは隣にある存在のおかげである。
紅子さんはその人影を見た瞬間、頭を抱えてその場にうずくまった。
そして彼女は胸をかき抱き、息苦しさに耐えるように荒い呼吸を繰り返す。
そんな彼女が見ていられなくなって、俺は紅子さんをそっと膝裏と背中を支えながら抱き抱えて、いわゆるお姫様抱っこと呼ばれる方法でその場から離れた。
「れーいちさん……ごめん」
「大丈夫だ。大丈夫だからな。紅子さん、俺がいるから」
「……よくも、自信ありげにそんなこと言えるよねぇ」
見れば、春国さんは誘理をその腕の中に閉じ込めて魂を抜かれたように茫然としている。
狐の兄弟はそんな彼を揺すりながら「目を開けながら気絶しているね」「我が主ながら情けない」なんて会話のやりとりをしている。
控えめに言っても、その人影が現れただけで阿鼻叫喚だった。
「……頭が高いぞ小僧ども。吾を誰と心得る。不幸を繰る呪いがそのもの。呪いの化身。狗楽の原初であるぞ。怯え、竦め、そして畏れよ」
圧迫感。
視線を向けられただけで心臓が押し潰されるような錯覚さえ覚える威圧感。
それから紅子さんを庇うように、抱き抱えたまま俺は跪く。それから己の体で紅子さんを隠すようにして歯を食いしばった。
なんだこれ。なんなんだこれ。なんなんだ〝これ〟は!
これではまるで邪神。
あいつと、神内の本性と初めて会ったときと似た圧迫感。恐怖。絶望感。マイナスの情が心の内を侵食して喰らい尽くされるような錯覚。
こんなものが、〝こんなものがこの世にあっていいはずがない〟とすら考えてしまうほどの存在。まさに呪いそのものと言ってもいいほどの、雰囲気を纏っていた。
「朱色の。やめなさい。怯えているでしょう? 特にその子は、あなたの好きな人の子ですわよ」
そんな場の雰囲気に割って入るように、真宵さんが柏手を打つ。
それだけで冷や汗を流しながら硬直していた体が幾分か楽になるのを感じた。
そ、そうだ……真宵さんの旧友を呼ぶと言って出てきたのがこのヒトということは……真宵さんの旧友が、この呪いそのものみたいなヒトなのか……?
「……」
静かにそのヒトが真宵さんのほうを向く。
よく見ればそのヒトには白目というものが存在していなかった。黒一色の瞳。その眼下には漆黒しかし存在していなかった。
そんな瞳でジッと真宵さんを見つめ――一触即発かと思ったときだった。
「く、くっ、くくくくく……冗談だ。久方ぶりに〝祟りの〟に呼ばれてのう……〝てんしょん〟が上がっていたのだ。どうだ、呪いそのものとは怖かろう?」
ふっと犬歯を覗かせてそのヒトが笑った。
「そうやって脅すのをやめなさいな。わたくしまで怖くなってしまいますわ」
「ちっとも思っておらん癖になにを言うか。のう、〝祟りの〟。久方ぶりだ。会いたかったぞ」
「わたくしもそろそろ会いたいと思っていたのよ。あまりにも〝呪い〟が飛んで来ないものだから、忘れてしまったのかと思って心寂しく思っていたところよ。今回、呼び出しに応じてくださらなかったらどうしようと思っていましたわ」
そのヒトは先程の恐ろしげな雰囲気は少しだけ形を潜め、真宵さんと和やかに会話をし始めた。
ここで、ようやく俺達も肩の力が抜ける。
「あの、おにーさん。もう大丈夫だよ」
「あ、そうだよな」
紅子さんを姫抱きの状態から地面に下ろす。
それから、改めてそのヒトの姿を見た。
そのヒトは地面につきそうなほど長い白髪を、肩の上で彼岸花の飾りで二つに結び背中に垂らしていた。地面に近づけば近づくほど髪は血に染まったような朱色になっており、その先端はまるで牙を剥き出しにした犬のように蠢いている。
白髪に覆われた額からは二本の角が伸びており、髪から覗く耳も尖っているため、一見してその姿は鬼のようにも見えた。
上半身は着物を着ておらず、背中で繋げているのであろう、着物の袖だけを纏っている。着物は漆黒だが、その袖には明らかに返り血であろう染みがところどころについており、下まで続く着物にも赤い花の柄が入っていた。
首元にはギザギザに周囲を覆うような模様が入っており、正直雰囲気どころか見た目まで禍々しい装いである。
「この子は神に愛された犬神」
そんな彼か彼女が分からないヒトの隣に立ち、真宵さんが笑う。
「この子は人の為に消費される犬神を哀れに思った、とある神の慈愛を受けた存在ですわ。一定の条件を満たした犬神が辿り着ける頂点。その転生した姿……」
「吾はその原初。始まりの犬神よ」
「その名称を――狗楽」
狗楽。
名を反芻するように心の中で呟く。
「名前をつけられることで契約し、術者の呪いを運び……そして呪いで契約を達成した際に契約者の魂をその水晶の核で喰らう。呪いという概念……そのものよ」
ひらひらと舞う漆黒の蝶が。
狗楽の胸元の水晶に留まった蝶が、その中へと消えていく。
つまり、あの夥しい量の漆黒の蝶が全て――今まで喰らった人間の魂の数だけ、あるということに。
そこまで気付いてしまって、気分が悪くなった。
立て続けに衝撃を受けることがあったせいで、もう少しで気が狂いそうになるほどの話。
ああ、確かにこれは〝呪いの専門家〟と言えるんだろう。まさか、呪いそのものに出会すことになるとは。怯えが滲む心の中で呟く。
「吾に名をつけるわけにはいかないのでのう。吾のことは〝おいぬ様〟と呼ぶが良いぞ」
ニヤリと、蛇の隣でおいぬ様が妖しげに笑っていた。




