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蠱毒の犬神

 そこに映ったのは、無だった。

 いや、無ではない。一面の黒。ただ一つの光もない暗闇の中、生物の息遣いだけが存在する。


「クロ……」


 それはあの子の、誘理(ゆうり)の声だ。

 ほんの小さく口にしたのだろう音も、その場ではいやに響いて聞こえた。


 過去視をしている俺だって、この暗闇の中ではなにも見えない。

 誘理のその声でようやく、そこがどこかにある暗い部屋なのだと気がついたくらいなのだ。

 一瞬月夜視(つくよみ)に失敗したのかと思ってだいぶ動き回ってしまい、誘理の声が遠い。どうやら離れてしまったようなので、声と息遣いを頼りにそちらへ寄った。


 大分目が慣れて来ると、僅かだが室内を見ることが可能になる。

 誘理は部屋の隅に、壁を背にするようにうずくまり、その前に大きな犬がいることが分かった。その毛並みは暗闇よりもなお暗く、闇に溶けるように艶めく黒色をしている。


 誘理を背に庇い伏せてはいるが、その目は燃えるように爛々と輝き、正面を見据えている。垂れた耳もときおり動き、僅かな音すら逃さないようにと最大限警戒している様子なのが見て取れた。


 そして、そんな二人に近づく影がひとつ、ふたつと増えて行く。

 暗闇に慣れた目で状況を把握しようと目を凝らせば、それは小さく、蛇やムカデのようなものであることが分かった。


「グルル」


 低く低く犬が唸り、少女に近づく前にと先手をとって動く。

 鋭い爪でムカデの体を引き裂き、蛇の首元を的確に噛み千切り、体重をかけてカサカサと動く蜘蛛を踏み潰す。

 誘理が怯えたような悲鳴をあがれば、すぐさま壁際まで戻り、彼女を守護するように、長い尾をその体に巻き付かせた。大型犬のその黒い犬は泣く誘理を慰めるように鼻先でほっぺたをつつき、ペロリと舐める。


 舌を出したまま首を傾げるその姿と、鬼のような表情で周囲の生き物を殲滅するその姿はまるで別の犬を見ているようだ。


「ごめんね、クロ。ごめんね」

「クウン」


 室内に犬の声が反響する。

 どこか、犬の声が重なり何重にもなって聞こえるようだ。そんな犬の異変にも気づかず、いや気づいていながらもどうすることもできず誘理は身を竦めて怯えるしかない。

 無数の生き物が閉じ込められた部屋の中、ただただ犬に守られて彼女は生存していた。何時間、何十時間、そして何日と。


 やがて……唐突にその時間は終わりを告げた。

 ある日突然、真っ暗闇の部屋に光が差し込んだのである。


 光に浮かび上がった部屋の中は、黒に塗りつぶされた赤、赤、紅、緋。

 赤から黒に変わる最中の湿っぽい色に、部屋中に転がる無数の生き物の死体。


 光が当たった途端、それらの死体から毒々しい色の真っ黒な煙が上がり、そして黒犬に向かって勢いよく流れ込んだ。

 誘理を庇うようにして凛として立ち、四肢に力を込めて踏ん張っていた犬は苦しげに喘ぎ、その口からぶくぶくと紫色の泡を吐き出しながらその場にどさりと倒れる。

 思わず支えようとした腕は相変わらず虚しくすり抜けて、俺はなにもすることができなかった。


「クロ! クロ! しっかりしてください! クロ! 嫌です……ねえ、クロ!」

「誘理」

「お父様、クロが!」


 どう考えてもこの事態の元凶はあの父親だ。

 誘理とクロをこの地下室と思われる場所に閉じ込めていたのもあの男の仕業のようなのに、なんで誘理はそんなやつに縋ってしまうのか。

 ……その男に縋ることしか、知らないのか。できないのか。もしくはこんなことをされてもまだ信じていたいのか。


 俺にはそのときのあの子の心境は分からない。


「誘理、こっちに来なさい」

「でも!」

「それは私がなんとかしておく。早くこっちに来なさい」

「本当に?」

「ああ、本当さ」


 絶対について行っちゃだめだ! 

 そんな風に叫んでも、誘理には届かない。

 嫌な予感しかしない。今まで誘理を守って来た犬は倒れて動かないのだ。誘理を守る者は、このときばかりは誰もいない。


「わかりました」


 俺達が出会った現在とは違い、舌足らずではなくしっかりと受け答えする誘理に嫌な予感が募る。


 ――果たしてその予感は、すぐに当たってしまった。


「いや! やめて! お父様! お父様! おと……!」


 思わず目を逸らす。

 数日間の間、どこかの豪華な部屋に閉じ込められていた誘理は父親がやってくる度に身動きを封じられ、虐待の限りを尽くされた。部屋にはカメラが仕掛けられ、暴力と幼い子への最低な行いの数々に、俺は目を逸らし、耳を塞ぐ。


 豪華な服を着せられ、破り捨てられ、痣のない肌は見当たらなく、そしてその真っ白な腹に魔法陣のようななんらかの刺青を麻酔もなく刻まれる。


 こんなものを、こんな行いを、たった六歳の幼子が受けたという事実に吐き気がした。


 こんなことを、あの子が説明できるわけがない。

 むしろこの頃の記憶を保っているかどうかも怪しい有様だ。

 完全に瞳から光を失くし、父親のいないときは自分から動くこともなく日がな一日茫然としていて、その場にただ人形のように佇むだけ。

 涙の跡が痛々しく、なにもせず佇むか、スイッチが切れたようにただただ眠り続けるだけ。


 こんな記憶。

 こんな仕打ち。

 こんな末路。


 こんなもの、覚えていないほうがいいのだ。

 あの明るく春国さんと一緒になって泣いたり、関わるなと真剣に言う幼子が、こんな記憶を持っているだなんて……とても信じたくはなかった。


 願わくば、あの子がこのことを忘れてしまっていますように。

 目を瞑ってその光景をただ見るしかできない俺には、そう祈ることしかできなかった。


 やがてそんな日々が七日ほど経ち、彼女の父親はとんでもないものを持ち出した。ペンチ、だ。


「舌を出せ、誘理」

「……はい」


 大人しく小さな舌を出す誘理に、そいつはぶつぶつとなんらかの言葉を呟く。

 すると誘理の目が驚きに見開かれた。目がキョロキョロと辺りを見渡し指先を動かそうとしているのだろうが、できずにいる。

 当然、その小さな舌を口の中にしまうこともできなくなった。


「これで仕上げだ」


 ペンチで小さな舌を挟み、そしてそこからはとてもではないが……俺は見ていられなかった。目を逸らした。耳を塞いだ。さすがにそんな光景を見守っていられるほど、俺は強くはない。


 ただひとつ理解したのは、誘理の口調が舌足らずで(つたな)かったのは〝それ〟のせいだということ。文字通りの〝舌足らず〟であったということ。


 咄嗟に思い浮かんだのは舌切り雀という言葉。


 声を上げることもできず、身動きすら封じられ、その意思を跡形もなく折られ、彼女は倒れた。


 そして、そんな彼女をまるで荷物でも抱えるようにして父親が抱えて移動する。

 吐き気を抑え、ガンガンと痛む頭を抑えながら俺も移動する。

 最後まで見届けないといけないからだ。なにが起こったのか、俺が見ておかなければならないからだ。これをあの子に説明させるなんて酷なことは、とてもではないができない。


 荒い息遣いを抑え、狂いそうになる己を律し、正気を保つ。


 それから、恐らく最後の場面。

 そこはあの地下室だった。


「くりょ……」


 痛みを無視して目を覚ました誘理が呟く。

 そこには、頭だけを出された状態で地面に埋められるクロと、その目の前に設置されたモニターとスピーカー。

 モニターの中で延々と繰り返されるのは、誘理が虐待される姿と悲鳴、絶叫、助けを呼ぶ声。クロを呼ぶ声の数々。


 それを見せつけられながら、黒犬は唸り、もがき、ひゅんひゅんと悲しい声をあげていた。

 美しかった毛並みは土に汚れ、口からぶくぶくと溢れ出る毒々しい泡と煙がその身を穢し、その口から溢れ落ちそうなほどの凶悪な牙でカチカチと音を鳴らしながら口を開閉する。


 怒り、憎しみ、恨み、悔しさ、それら全てをないまぜにしたクロの様子に、満足そうに男は笑う。

 殴りかかりそうになって、しかし拳を握って耐える。ここは記憶の中だというのに、俺自身の拳に血が滲んでいた。


 唸り、悲しみの声をあげ、そしてかつて気高かった黒犬は、鬼のような顔をした恐ろしい化け物じみた姿に変わりきってしまっていた。


 男が懐から出したリモコンで操作すると、モニターとスピーカーから流れていた映像と音声が止まる。


 それから、クロはようやくこちらを見た。


 憤怒の宿った怨嗟の炎。

 それらが瞳から、そして口から漏れ出て、よりにもよって男ではなく誘理を見た。


 それから男は誘理をその場に下ろし、「動くな」と命令する。

 その言葉に硬直したように動けなくなった誘理は、やはり抵抗できずにそこに佇むだけ。魔法か呪いかなんなのか、強制力のある言葉を彼女は破れない。


 それから、男がクロの元へ移動する。

 しかしおかしなことに、憎き男が近づいているというのに、クロの視線は誘理に固定されたままで、しかもその瞳は憎しみに染まり切っていた。犬が誘理に向ける瞳は憎いものを見る瞳で、本来、それを彼女が向けられるのは明らかにおかしい。


 男が背後に回ると、部屋の奥にあった手斧を持つ。

 そして――犬の首を跳ねる。


「グルルルァ!」


 解放された犬の首は一直線に誘理の元へ飛んでいき、そして憎しみの篭った鋭い牙で喉元に(あな)穿(うが)つ。


 誘理は声をあげられず、クロの名前を呼ぶこととできず、悲鳴もあげられずにそれを受け……そしてその一撃で幼い体は弾き飛ばされ入り口近くの壁に叩きつけられる。


 もう二度と、彼女の体が動くことはなかった。


「ナゼダ、ナゼ、アノ男ヲ殺シタノニ、俺ハ解放サレナイ! ユーリノトコロヘ行ケナインダ! ナゼ!」


 男とも女とも取れる何重にも重なった犬の声に、男は静かにほくそ笑む。

 そしてそっと誘理の亡骸を抱えて地下室を出る。


「マダアノ男ハ死ンデイナイノカ? 探サネバ。探シテ殺サネバ。ユーリヲ返セ、返セ、俺ノ大切ナ娘ヲ返セ!」


 地下室に残された首だけの怪異は、その目と口から黒紫色の炎を漏らしながら、ただそう叫んでいた。


 その言葉で分かったのは、クロは誘理を殺してしまったことに気がついていないということ。そして誘理もまた、クロがなぜ自分を殺したのかが分かっていないだろうこと。


 ……父親が、なんらかの方法で誘理を自分の身代わりにしたのだということ。


 こうして、俺は理解した。


 地下室に閉じ込められた全ての生き物を「クロ」が殺し、同時に目の前に餌をぶら下げられ続けて殺されるという犬神としてのプロセスを踏み。


 ――悲しい、蠱毒の犬神が誕生したのだ。

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