狐の九善九業
「狐の九善九業っていうのは、善狐、野狐問わずに行うと力が増していく修行のようなものって言えばいいかなあ」
金輝さんが語るのは修行法のようなものだ。
ひとつひとつ言葉を選ぶように、「うーん」とときおり言葉を出し辛そうにしている。説明が難しい話なんだろう。わざわざそんな話をさせてしまって本当に申し訳ない。
「僕も詳しくは知らないんだけどね、昔は歳を重ねれば自然と九尾になれるものだって言われてたんだよ。それが変わったのは、多分お師匠様の時代か……もっと前か……とにかく、他の国から渡ってきた尻尾のない狐が他国の女神様からの言葉を伝えに来たんだって。その結果で、お師匠様がこの日本で初めての天狐へ至った狐になったことは確かみたいだねぇ」
「他国の女神?」
「今でいう中国だよねぇ」
ああ、狐の妖怪の元祖といえば中国か。なるほど。日本では玉藻前がやたら有名だが、確か王朝を傾けた美女、妲己が九尾の狐なんだったよな。その辺はわりと有名だし、この世界に無理矢理入れられてから必死に調べたりしているときに、ある程度知った。有名なのだけは分かるんだが、紅子さんが当たり前に知っているような細かい妖怪やら怪異やらは結構知らないことがあるが……今日は俺の知識も一応役に立つな。
「そこの女神…… 泰山娘娘っていう女神があちらでは、仙狐を取り纏めているんだって。だから中国だと、地狐から気狐や仙狐になるために女神の元で修行するのが普通なんだとか?」
「泰山……」
調べてみるものの、どうやらあまり詳しくは載っていないようだ。調べ方が悪いのか、狐に関することが出てこず、どれが正しい情報なのかちょっと分からない。
「あ、僕らは泰山娘娘って呼んでるけど、普通は碧霞元君の名前のほうで知られていると思うよー」
紅子さんと二人で端末を覗き込みつつ、後ろから漢字を教えてくれる真宵さんの指示に従って検索。すると出てきたのは、中国でもかなり人気な女神様の名前。七天女の一人で、どんなに信仰が薄い者相手でも願いを聴いてくれるという、最も優しい女神様の情報だ。神格としてのご利益も「出世」や「商売繁盛」「結婚」「子宝祈願」や「夫婦円満」に、「豊作祈願」まで幅が広い。
確かに、豊作祈願のご利益もあるので日本の稲荷と近い性質はあるように思う。
「狐達はみんな、御倉様のお役に立ちたかったんだ。善狐としてあちらに伝わる修行をすればもっと霊格を上げてお支えできると考えたんだね。そこで、中国から伝来した空狐のお狐様に教わった修行法が『狐の九善九業』なんだ」
そこから説明されたのは、修行法「狐の九善九業」について。
修行法というより、やはり金輝さん達にとってはやるべきこと、なすべきことって意識が強いようで、順にその内容を教えてくれた。
狐の九善とは九つの善行を表す。
不殺。
感謝。
誠実。
純潔。
謙虚。
忍耐。
慈善。
節制。
勤勉。
これを九善と呼ぶ。
無闇な殺しをせず、感謝を持ち、嘘をつかず、清らかで、傲ることなく辛抱強く、他者へ手を貸し、己を律し、よく学ぶ。
それこそを善なる狐として行うべき九つの善い行いである、と。
そしてその真逆となる行いを九つの業と悪行を表す。
殺生。
嫉妬。
邪見。
邪婬。
高慢。
逆上。
貪欲。
過食。
堕落。
他者を無闇に殺害し、羨望による妬みを持ち、誤った見解で決めつけ、みだらで己に自惚れており、ひとときの激情に支配され、際限なく飽くなき欲を持ち、必要ないほどに食を求め続け、自らを高めることをやめてしまう。
これこそを九つの悪とし、戒めることと表す。
金輝さんが語ったのはこれらのことだった。
「狐の九善九業は善狐も、野狐も執り行うことになるんだよねー。ただ、同じ名前なのに意味合いは全くの逆になるんだよ。不思議だろう?」
金輝さん曰く、善なる狐にとっての「九善九業」は、この九つの善を徹底しながら、三百年余りの間悪行に染まらず人間の助けとなり、善行を積むことで達成される。これが達成されれば尻尾の数が九つに及ばずとも、仙狐へと霊格が上がるらしい。
そして、尻尾が九本になってからは、それぞれの悪に染まった魂を持つもの九人に自らが取り憑いて、悪因に染まった心を善因へと導いて行かなければならない。即ち、嫉妬に狂っていた者は感謝を持って自制ができる人間となるよう導いていく。そうして善人に転じたまま一生を終えたその魂を、神使の一匹として見事天上へと送り届けることができれば、ようやっと九尾から折り返して霊格の上がった八尾になるのだという。
悪行に堕ちた人間を善行を体現する人間にすることこそが善狐の九善九業の、「九業」にあたるんだな。
〝九つの善を成し、九人の業を持つ者を善へと導く〟
それこそが天狐へと至る道なんだとか。
そして、その真逆が野狐における妖力を上げていくための「九善九業」となるらしい。
「野狐の九善九業」とは、九つの悪行を成し、九人の善人の心をそれぞれ対応した九つの業に導き、魂を穢すことをいう。
そうして穢されたまま、最高……いや、最悪の状態のまま、九つの罪の一つを最大限にまで引き出した人間を自らが取り殺し、魂を喰らう。
そうすることで霊格を上げることはできないが、自らの妖力を何倍にも引き出し膨れ上がらせ、そして強大な絵に描いたような大妖怪〝九尾の狐〟となっていく……と。
「なるほど真逆だな」
「でも、どっちも同じ九善九業なんだよね。意味は違うけど」
「そうやって意味は違うながらも、力を高めて行くんだねぇ」
「うん、でも今は同盟もあるし、僕ら神様に仕える狐は昔から妖狐陣営が強くならないように見張ったり、悪因に穢された人を逆に新米の修行に利用して善人にさせたり、妨害はたくさんしているからやばばーな大妖怪は中々生まれないよ」
その口ぶりだと、お互いに妨害し合っているから新たに天狐に至る狐もまた少ないってことだろうな。この感じだと、それのせいで金輝さん自身も困っていそうだ。
「人の心は千差万別ですわ。その心は元は白にも黒にも属しません。中立そのもの……その心を盤上で白と黒にひっくり返す陣取りゲームのようなものですわね」
それではまるで。
「ええ、オセロみたいなものですわね」
にっこりと笑う真宵さんの姿に、俺がせっかく口に出さなかったことを当てられて狼狽る。
生きている人間をオセロという盤上遊戯に見立てるのは、少し抵抗があったからなんだが、彼女ら神様はこういうとき、嫌に明け透けに物事を語ってくるよな。
言葉を飾らず、オブラートに包むこともなく、ずばりと真実を語る。
神様らしいといえば、らしい……のだろうか。
「あの、金輝さん」
「なあに?」
紅子さんがなんとなくそわそわとしているような気がする。
もしかして……と思いかけて、そういえば彼女は幽霊だったなということを思い出した。いや、もしかしたらそういう衝動もあるのだろうか。四六時中一緒にいるわけではないから、そういう場面に出会したことはないんだよなあ。
「金輝さんは五尾なんだよね?」
「そうだよー、ほらほら」
……と、俺がやたらと下世話な想像をしている間に金輝さんの背中の方から押し上げるように金色の尾がふわりと持ち上がった。数はやはり五本。
たっぷりとした艶々の金の毛は、ふっさふっさと動くたびにそのふわふわな毛が流れるようにさらさらと動く。筆先のような形に整ったその尻尾は五本もあるのにどれもが手入れが行き届いていて、部屋の灯りに照らされ、美しく輝いていた。
まさに「金輝」という名前に相応しい装いの立派な尻尾である。
紅子さんは、その尻尾を目で追いながら俯いた。どうしたんだ?
「あの、その……金輝さんが悪くなかったらでいいんだけれど、えっと」
やけに言い淀む彼女に首を傾げる。
紅子さんがこんなに恥ずかしそうにするなんて、なんだろう?
「尻尾……さ、触ってみても……いいかな?」
顔を上げた紅子さんの紅の瞳は、彼のふっさふっさと優雅に揺れ動く尻尾に釘付けであった。
「紅子さん。もしかして、ああいう動物のぬいぐるみとか、好きだったりする?」
「ちょ、ちょっとした好奇心だよ。他意はないかな……」
「ふんふん、なるほどねぇ。いいよ、僕の自慢の尻尾を堪能させてあげるからこっちにおいで」
「あ、ありがとう……ございます……」
「あらあら、紅子ちゃんも女の子ねぇ」
金輝さんに遠慮がちに近寄り、そっと金色の海に埋もれるように包み込まれた彼女は、控えめだが非常に幸せそうにはにかんでいた。
乙女な姿を見せるのが恥ずかしいのか、首筋やら耳まで真っ赤になっていたけれど、そんな彼女のことがより可愛く、より愛おしくなってしまったので俺にとっては悪くない時間である。
難しい話を終えた後のそんな癒しタイムは、彼女が生温かい目で見られる限界に達するまでの数分間続いていくのだった。




