カラスの緊急依頼
しばらく真宵さんに撫でまわされていた紅子さんは、恥ずかしそうな、照れ臭そうな、くすぐったそうな、そんな表情で目を瞑っていた。
まるで猫のような……いや、むしろお姉さんに可愛がられている妹さんみたいな状況かな。紅子さんは気が強くて誰がどう見ても一人っ子、もしくは長女って感じだが、年上のお姉さんからの慣れない可愛がりに戸惑いつつも嫌ではない……みたいな。
目の保養になるので俺としては一向に構わない。
「本当ですか?」
と、わざわざ心の声にまで鈴里さんからの横槍が入ってきた。
正直なところ、紅子さんが頼るのは俺だけがいいとか、ちょっとした嫉妬ぐらいはある。でもそれを表に出さないのが誠実な心ってもんだろう。
「それはそうですね。本当に、真面目ですね……見た目に反して」
「一言余計ですよ」
不良っぽい見た目を変えるにはやっぱり髪を黒く染めるしかないのか? いや、でもそんなことをしたら「誰?」って紅子さんに言われかねないし、そんなこと言われた日には落ち込みすぎて地獄まで真っ逆さまに落っこちてしまいそうだ。
真宵さんが撫で回していた手を離すと、目をぎゅっと瞑っていた紅子さんが薄らと目蓋を押し上げ、彼女を見上げる。なんとなく物足りなさそうな表情。微妙な嫉妬が心の中に燻っているが、そこに分け入るのはなんとなく違う気がして目を逸らした。
「さて、こうしているのもいいのですが、往来の最中ですわ。移動いたしましょう」
「あ、ああ、うん。そうだよねぇ」
道の端に避けているとはいえ、ここは外だ。室内ではない。よって彼女達のやりとりもしっかりと色んな妖怪やら神様やらに微笑ましく眺められていたというわけである。
よくよく周りを見渡せば、そうあからさまに野次馬をされているわけではないが、屋台で買ったのであろう食べ物を持って立ち止まり、こちらを眺めるということをしている姿がちらほらと見受けられる。緩く見世物になっているというかなんというか……これはすぐに移動するべきだろう。
「それでは豊穣神社のほうへ……」
真宵さんが言いかけたときだった。
――カア、カア。
声が、聞こえた。
いや、カラスなんてどこにでもいるだろうと。そう思いかけて、刹那さんのことを思い出した。そういえば彼は新聞配達を自分でやっているが、遠方にはカラスに運んでもらっているんだったか? そりゃ大勢いる同盟メンバーに配るならそうなるだろう。
そして、この夜市に妖怪や神様以外の存在が極端に少ないことにも気がついた。屋台の掛け声で聞こえていないだけだと思っていたが、虫の声も聞こえない。完全に怪異だけの世界と化しているのだ。
つまり、ここに普通のカラスはいない。
空を見上げた。けれど、声はすれども姿が見えない。いったいどこにカラスがいるのかと見渡していれば、真宵さんが俺の袖を引いて「あちらですわ」と指を向ける。
そこにあったのは、にょっきりと立っているガス灯。
しかし、よく見ればその灯火の中に不自然に揺らぐ炎があることに気がついた。いや、あれはガス灯の中身が揺れているのではなく。
――カア、カア。
ガス灯のその表面、そのガラスが宵闇の中光を反射してピカピカの鏡のように光る。その中心に揺らぐ炎の枝を咥えたカラスの姿が映った。
――カア。
そして次の瞬間、ガス灯の表面からカラスが飛び出てくる。
それが鏡界移動だと気がついたのは少し前。多分、鏡界のどこかや外と繋がっていたのだろう。
カラスは炎が揺らめく木の枝を咥えながらも、器用に濁った鳴き声をあげてこちらに向かってきた。それから真宵さんの周囲をくるくると回ってカアと鳴く。
「こちらへ」
――カア、カア。
カラスは差し出された真宵さんの腕に降り立ち、礼をするように頭を下げる。
この分だと、喋れないだけで知性はしっかりとあるようだな。
「このカラスは……?」
「ペンタチコロオヤシですわ」
「ペン……なんですか?」
真宵さんはカラスの咥えた枝と紫色の炎を見て眉を顰める。
「アイヌ……北海道の妖怪ですわね。松明をかざして飛ぶカラスの妖怪です。一説にはこの妖怪についていくと怪異に出会うとか……ワタリガラスが変化したものなのでほとんど普通のカラスとなんら変わりはありませんが、確か烏楽の子が同胞として交流を持っていたかと」
北海道……。カラスの妖怪なんて俺は鴉天狗しか知らなかったぞ。
まさかそんな妖怪までいるとは。
こいつが怪異じゃなくて妖怪と呼ばれているのは、元が普通のカラスだからだろうな。信仰や認識がなくなっても元のカラスとして生きていけるから、消滅してしまう怪異の類とは違う妖怪。
しかし本当にたくさん種類があるんだな。
「この松明の色は、緊急かな」
「え」
なにやら訳知り顔で紅子さんが呟いた。
どうやらこのカラスの怪異が現れるのは珍しいわけではないらしい。
「あなたは知らないですね。ペンタチコロオヤシは緊急性を表した事件の依頼書を運びます。松明の色はその緊急性が低いか、高いかを表し、紫色は緊急性が高いことを表しているんです。炎の中を見つめてみてください」
鈴里さんに言われるがままに、真宵さんの腕の上にいるカラスの口元を覗き込む。紫色に燃えるその松明は不思議と熱くはなかった。
炎を見つめれば、その姿が揺らめきうずらぼんやりとなにかが炎の中に浮かび上がる。
「にゃあん」
「にゃあん」
「にゃあん」
「にゃあん」
猫の鳴き声、そして悲鳴。
子供がツタのようなもので持ち上げられ、血の雨になって降り注ぐ。母親が頭からかじりつかれていく。
横倒しになった鉢植えから木々を伝って伸びに伸びたその葉がまるで蛇のように、人間の体を四方八方から啄み、欠かさせていく……そんな光景を見て俺は思わず「うわあ!」と情けない声をあげながら後ずさっていた。
一瞬思考が飛びそうになるも、なんとか待ち構えて息を飲み込む。
「真宵さん、これは」
「今し方起きたばかりの事件ですわ。これを放置していては、甚大な被害が出るでしょう」
夜市の中ではずっと夜だから気づかなかったが、今の時間は外では夕方くらい。つまり、夕暮れ時のこの光景は、本当に今まさに起こったことということになるのだろう。そう、今まさに起きたばかり。こんな凄惨な事件が。
「人食い植物ですか……もしかしてアレの仕業ですかね」
「かも、しれないわね」
なにか知っているのだろうか。
鈴里さんと真宵さんはほんの少しの間話していたが、俺と紅子さんへと向き直る。
「この案件を今すぐに処理するべき緊急性の高いものだと断定いたしますわ。令一くん、紅子ちゃん。わたくし、縛縁真宵が同盟創設者としてこの事件の速やかな解決をお二人に命じます。バディを組み、現場に急行してこの怪異を見事退治してみせなさい」
手近にいるのは俺達二人だけ。
依頼を持ったカラスがここに来たのは恐らく偶然か、それか真宵さんを頼りに来たのかは分からないが……ともかく依頼書を作って、掲示板に張り出してなんて作業をやっている暇もない緊急性の高いものだということは分かる。
そして、これを良い機会とばかりに真宵さんが俺達に依頼をしてきたというのも分かってしまった。分かってしまったから、俺はただ承諾するだけ。
「分かりました、行ってきます」
「それと、こいつの退治が終わったあとのことですが……炎の映像を見ているときに鉢植えが映っていたでしょう。アレを回収してきてくださいな」
「ちょっと思い当たる節があるので、念のためですよ。それを見れば私達が思い浮かべているものが原因かどうか、全て分かりますから」
真宵さん、鈴里さん二人からの言葉に頷く。
ひとまず先に葛の葉の怪異を退治するところからだな。帰りに忘れず鉢植えを持ち帰ればいい。
「それじゃあ行こっか、お兄さん。さっきは成り行きだったけれど、これがバディとしての初陣だよ」
「バディね。なんか今更って感じがするが」
今までもずっとそうしてきたわけだし。
「そうだね、でも『名前』は大切かな」
「それもそうか」
俺の肩の上にはリンが、紅子さんの肩の上には八千が。
それぞれ前を見据えて次なる仕事へと向き合う。
「それでは、あなた達に宵闇の加護があらんことを」
「その心の内が平穏でありますよう」
真宵さんと鈴里さんが歌うように言葉を紡ぐ。
その言葉ひとつひとつが俺の中に染み入るようで、直感的に「加護」をくれたのだと気づく。前から加護は受けていたのだろうが、ここに来て直接的に預けられたのだと心の内が喜色に染まった。
――カア。
カラスがふわりと飛び上がり、ひと鳴き。
すると松明にゆらゆらと揺れていた紫色色の炎が、まるで狐火のように無数に分かれて空でくるくると規則正しく円を描いて浮かび上がった。
「『円により縁を繋ぎ、界を越えよ』人間、そして赤いちゃんちゃんこ。行け」
言葉に力が宿り、人に影響する。それを言霊と呼ぶと言うが、これはなるほど力が沸いてくるようだ。
真宵さんの言葉を受け、俺達は二人揃ってその炎の輪の中に一歩踏み出す。
さあさあ、凄惨な事件をこれ以上の犠牲を出さないよう、すぐに終わらせに行こうか。