今一度の大喧嘩
前方には地面を踏み締めるシャコ、そして地面の穴の中に下半身をそのままに頭をこちらに向けるシャコ。岩肌には縦横無尽に泳ぎ回るサメ。
なんだこの混沌とした空間は。
「真宵さん、もういっそ鏡界移動で一気にあやかし夜市まで行きませんか!?」
「わたくしは今、洞窟の天井を保護するので精一杯ですわぁ」
絶対に嘘だ!
「そんなこと言ってる場合じゃあ……!」
「うふふふ、大声を出しているとまだまだ集まって来ますわよ。いいのかしら? ここは〝シャコのあなぐら〟ですのよ?」
そんなことを言われてしまえば黙るしかなかった。
ここはあなぐら。あの妖怪達が住処として拡張されてきた洞窟なんだ。俺達はそこにノコノコとやってきた獲物にすぎない。
俺の成長を促すためだろうとはいえ、酷いことをする蛇神もいたものですね!
神内と悪友じみた関係だということは一年前に既に分かっていたが、蛇神と邪神、同じ音なのは伊達じゃないんだな!
「真宵さん!」
「はあい、なにかしら?」
「あとで斬りかかっていいですか!」
「錯乱しているようですわね。叩けば治るかしら」
あらあらと困った風なことを言っているが、声がなんとなく笑っているのは背中を向けていても分かるぞ。
こっちはいちいちシャコやサメの動きを見たり、受け流したりしながら声を張り上げてるんだ。からかうのもいい加減にしてくれ!
ぶくぶくと、岩肌を滑るように泳いでいるサメがそんな真宵さんと紅子さんの方へと向かう。
「行かせるか!」
地面を蹴って加速。二人の目の前に飛び込んで振り向き様に刀を振った。
――!
目元を斬りつけられたサメが驚いたようにして体を反転させる。
「いっ、ぐぅ……!」
「令一さん!」
その勢いで刀を振り抜いたばかりの俺の顔面にザラザラとした尻尾が叩きつけられた。たまらなく真後ろによろけた俺を、紅子さんが倒れてしまわないようにと受け止めようとして、そして一緒に倒れ込んだ。
「あ、ごめ」
「いいよ、アタシのことより令一さんの怪我のほうがすごいって」
大丈夫、そう言おうとしてぬるりとしたものが舌に落ちてくる。
驚いて目を開けば、目の前が真っ赤に染まっていた。
サメ特有の肌はザラザラとしていて触れたものを傷つける。いわゆる鮫肌と呼ばれるそれで顔を殴られる形になったせいで、出血しているようだった。
細かい切り傷が無数についたうえ、額から流れてくる血がなおも目に入りそうになる。顔は細い血管が多くて血の出方も派手になるから、余計に酷い。地面にはポタリ、ポタリと血が滴っていた。
「ねえ、真宵さん。もういいじゃないか。もう移動しようよ」
「もし」
紅子さんの言葉に真宵さんは笑顔を向ける。
再び飛び込んできたサメが、すっと差し向けられた真宵さんの扇子の先に現れた裂け目に消え、別の場所に現れる。鏡界移動によって移動させられたサメは訳が分からないというように首を振って岩肌に潜り込んだ。
そしてまた、俺達の周囲を旋回し始める。
シャコはこちらをジッと見ているものの、積極的に動き回って捕獲しにくるほどのアクティブさはないようだった。
どうやら真宵さんは、この話が終わるまではあいつらを近づけさせないようにするらしい。サメがこちらに来ようとしては鏡界移動を用いて受け流されている。
「……もし、わたくしがこの場にいなければどうするつもりだったのかしら?」
「それは……!」
紅子さんが押し黙る。
「いや、連れてきたのはあんただろうが。なにを責任すげ替えようとしてやがる。普通なら」
「普通ならこんな危ない場所へ飛び込んだりしない……と?」
先回りされた言葉に「そうだ」と頷く。
今回は彼女に連れてこられたからここを通っただけで、普段なら危険に自分から飛び込むようなことなんてしない。それをもし自分がいなかったらどうなっていたでしょうなんて言い方で責任を問うてくるのは間違っている。
「けれど、令一くん。あなたはきっと、危険に飛び込んで行きますわ。それは以前の祟り神の件と同様。そんなとき、あなた達二人だった場合、あなたはどうするというのかしら」
否定は、できなかった。
事実俺達はアルフォードさんに遣わされて危ない目に遭った。紅子さんは狙われ、祟り神殺しなんていう案件に関わってしまった。きっと資料館の中でジッとしているだけで俺達は無事に帰れただろう。積極的に祟り神のことについて調べ始めたのは、他ならない俺達である。
そして、最終的に大怪我をしながらもなんとか成し遂げた。あれだって、きっと二人だけじゃどうにもならなかった。
「……守るって誓ったんだ。約束もしている。あの約束はまだ続いているんだ。頼る相手がいなくたって、俺が強くなればいい!」
「そう、そうですか。そう思っているのですね」
真宵さんはどこか悲しそうに俺を見つめた。
俺は間違ってはいない。いないはずだ。なのにどうしてそんな顔をされないといけないんだ……? だって、そうするしかないのに。
「ねえ、紅子ちゃん。あなたはこれを聴いてどう思うのかしら。聞かせてくださいな」
口を挟もうとして……けれど俺は紅子さんの表情を見て、口を噤んだ。そしてなにも言葉が出てこなくなってしまう。
なぜなら、紅子さんは悔しそうな、怒っているような、悲しんでいるような、そんな〝神中村のとき〟のように泣き出してしまいそうな顔をしていたからだ。
「ねえ、令一さん。アタシは守られるのは嫌だって言ったよね。ちゃんと、分かってくれなかったのかな?」
「でも、あいつらは魂を食べる化け物で」
「アタシが不利だって?」
「そうだよ、だから」
「役割分担だって、前に言っていたよね」
納得していない顔で紅子さんが言う。
そう、前にシャコを相手にしたときだって、そうして紅子さんには引き下がってもらった。
「でもね、違うよ。キミが一人でなんでもやろうとするのは、酷い傲慢だよ。そんなことも、分からないかな? キミはアタシのことをか弱い女の子だと思って、一人相撲をしている。キミ自身が、アタシを役立たずだって言っているのとなにも変わらない!」
「それ、は……」
そんなこと、考えもしなかった。
俺が一人で守らなきゃと思っていること自体が、まさか彼女にそんな風に思われているだなんて。
「違う、俺はそんなつもりで言っているわけじゃ」
「そんなつもりでなくても! ……アタシにはそう思われているようで、嫌なんだよ。キミが本当にそう思っていなくてもね、多分無意識の領域に……女の子はただ守られてろって心があるんだよ。アタシは、それが嫌だ」
「違う、そんなこと思っていない! どうして分かってくれないんだ!」
とうとう、俺は叫び出していた。
彼女のためにやっていることが裏目に出ていただなんて、きっと信じたくなくて。きっと、俺は間違っていないと思いたくて。
「アタシはキミの足手纏いにはなりたくないんだよ。そんなの対等とは言わない! 守りたいって思ってるのはキミだけじゃない。どうしてかな、どうしてアタシのことを分かってくれないんだよ!」
顔を伏せた紅子さんは声を震わせながら、そう言った。
その下の表情なんて、想像は容易について……俺は愕然とした。
いつのまに、こんなに傲慢になっていたんだろう。
いつのまに、俺は彼女を傷つけていたんだろう。
いつのまに、俺は調子に乗っていたんだろう。
もはや、彼女を泣かせてしまったことに後悔しかない。
「俺は……」
「紅子ちゃん、力がほしいかしら? 力といっても乱暴なものではなく、あなたが身を守り、彼に心配されないための力……ですわ。わたくしはあなたのことを結構気に入っているのです。彼にとってのリンのように、わたくしからあなたに力を授けることもできますわ」
真宵さんは、まるで蛇のように胡散臭く笑ってみせた。




