怪異の本能
そこは暗闇だった。
暗く、暗く、闇よりもなお暗い。そんな、ドロドロとした場所で、困惑しきった紅子さんの姿が傍にある。
意地を張っても、やはり怖いものは怖いんだろう。俺だって、今こうして紅子さんがそばにいると分かっているから怖くないだけで、きっと一人だけでこの場所に叩き落とされていたら、怖くて一歩も動けなくなっていたかもしれない。
「試験って、一体なにをすればいいのかな」
赤い、ボロボロになったセーラー服。首の傷は血が止まっているものの、深く深く切れたままで、長い黒髪をまとめたポニーテールは直されることなく曲がっている。そんな悲惨な状態の彼女は、周囲を伺いながら歩き出し始める。
「わっ、なにこれ……」
彼女が一歩一歩歩くたびに、その足跡が真っ赤な血に染まっていく。
彼女が歩いた場所は血の足跡となって背後に残り、それを彼女はひどく不気味そうな表情で振り返る。
ついて歩くと俺の足跡は別におかしなところなんてなにもないから、なおさら不気味だ。
「おなか、すいたな」
そうしてしばらく歩き回っていると、ふとした瞬間に紅子さんが呟いた。
「おかしいよね、幽霊なのに。なんでかな」
紅子さんはその理由が分からずに首を傾げている。けれど、俺には分かった。
幽霊や怪異はお腹が空かないし、睡眠も必要がない。なにかを食べるのも、眠るのも、やらなくてもいいけれどやりたいヒトはやればいいという趣味嗜好の範囲なのだと、聞いたことがある。たとえば、魔女のペティさんなんかは寝ずに研究を続けているが、お菓子は食べるといったような。
その辺、紅子さんは人間としての自分を忘れないように、ずっと人間らしく生活することを心がけているみたいだが……食欲と睡眠欲の欲求は著しく低いらしい。
そんな彼女のお腹が空くとしたら、それは本能から来るもの。
怪異として、『畏れ』を求める欲求に他ならない。
「光……?」
どれくらい歩いたかも分からない時間歩き続けて、辿り着いたのは胸の上くらいに位置する複数の窓のようなもの。その奥に見えるのはどこかのトイレのようだった。
「洗面台の……鏡、かな?」
紅子さんが言うように、きっとその窓は鏡なんだろう。
鏡の世界から、表にある世界が見えているだけなのだ。
「……なに」
鏡の外に、女の子の姿が映る。
その子は鏡の外で、ただ一人個室に入っていく。
紅子さんがその光景を見た途端、両手で胸を押さえてうずくまった。
「紅子さん!?」
「なに、これ……どうして……」
頭を抱えるように紅子さんが苦しむ声をあげる。
そして、なにかを拒むように首を振るが、彼女の苦しそうな声は治らない。
俺は触れられないなりにその背中をさするように腕を動かす。気休めどころか、記憶の中の彼女には届かないが、そうしないと落ち着いていられなかったからだ。
「はっ……赤……赤、い……ちゃんちゃんこは……」
漏れ出るその言葉に、俺は手を止める。
「赤い、ちゃんちゃんこは、いらない……かなぁ?」
生気の感じられない虚ろな声。
合間に混じる「言葉がっ、勝手に」という紅子さんの訴え。
彼女の中でなにが起きているのか、俺には分からなかった。
「きゃっ、なに今の声……?」
女の子の悲鳴で、鏡の外を見る。
個室から慌てて出てきた女の子は「怖っ、いらないよそんなの」と言いながらトイレから出て行った。
「はっ、はっ、はっ、うう……」
荒い呼吸、なにかに耐えるかのようにぎゅっと自身の体を抱きしめ、紅子さんが立ち上がる。
「アタシは、アタシの名前は『赤いちゃんちゃんこ』……」
鈴里さんに言われたことを思い出したのか、紅子さんは額に汗を滲ませながら震えた声で呟いた。
「アタシは、化け物になっちゃったの……?」
そんなことないと、伝えてあげたかった。
けれど、それはできない。伝えるとするならば、きっとこの記憶を見終わったあと、本人にするのが一番なのだろう。
先程の出来事がきっかけとなったのか、見ているだけで辛い場面の繰り返しが始まった。
「赤いちゃんちゃんこはいらないかなぁ?」
「いやぁ! いらないいらない!」
「赤いちゃんちゃんこ着せましょうかぁ?」
「本当に出たー! いやぁぁ! いらない!」
「着せましょうか、着せましょうか、赤いちゃんちゃんこ」
「いりません!」
心霊スポットとして人気になってしまったのか、次々と鏡の外にやってくる人間達。問答をするたびに、その瞳に諦めが滲んでいく紅子さん。 そんな姿を見ていられなくて、でも目を逸らすわけにもいかなくて、俺は泣きそうになりながらただ見ているだけ。
「お腹が空いた感覚が、随分と楽になったかな」
淡々と呟く彼女に、ちょっとした危機感を覚える。
怪異らしく瞳孔を開ききり食い入るように鏡を覗く彼女は、俺の知っている紅子さんとは似ても似つかない恐ろしい表情をしている。
――これでは本当に怪異そのものだ。
彼女は怪異なのに。そんな思考が頭の中を過ぎる。
普段の紅子さんがあまりにも人間臭かったから、今の異様な姿が信じられなかった。
鏡の外に気の弱そうな女の子と、気の強そうな女の子。二人が映る。
「………………二人とも」
紅子さんの冷たい声が漏れる。
それは、紅子さんを突き落とした女子生徒と、いじめの主犯をしていた女子生徒の二人組だった。
「ねえ、やめようよ……」
「ふんっ、問題ないわ。紅子が出ようとなんだろうと、あたしたちはあいつに勝ってるんだから!」
「ふ、不謹慎だよぉ」
「なによ、またいじめられたいの?」
「そ、それは、嫌だけど……」
とうとう紅子さんの瞳から光が消え失せる。
まずい。直感した。
けれど、俺にはなにもできない。紅子さんの今の結果を知っている俺でも、この状況はまずいとしか言いようがなかった。どうやって、こんな状況を乗り越えたというのか、さっぱり分からなかった。
あんなことを言われているんだ。
復讐心が芽生えていてもおかしくない。たとえ自殺することで彼女らに消えない傷を残してやったのだとしても、こうして反省の欠片もしていない姿を見せ付けられれば、抑え込んでいたはずの黒い気持ちが溢れ出しても無理はないのだから。
「ほら、入って入って!」
「うう……」
弱気なほうがトイレに入る。
「……せましょうか、着せましょうか、赤いちゃんちゃんこ」
紅子さんはその光景を食い入るように見つめながら、言葉を紡ぐ。
「で、出たー!!!」
そしてすぐに弱気なほうがトイレから出てくる。
「ちょっと! 答えてきなさいよ!」
「無理無理無理ですー! 怖いもん! ホントに紅子の声だよこれぇ!」
「なによ、この弱虫!」
問答に答えないまま出てきた女子生徒は、気の強いほうがトイレの個室に入るとそのまま付き合っていられないとばかりにトイレを飛び出して行った。
「ふんっ、なにがお化けよ」
トイレの個室に入った主犯はそのまま待つように腕を組む。
踏ん反り返っていっそトイレの床に倒れちまえばいいのになんて感想が思い浮かぶが、きっと紅子さんはその比じゃないほどの怒りと復讐心に駆られているはずだ。
ちらりと隣の彼女の様子を見る。その瞳は、まるでガラス玉のようで、なにも映していなかった。
「着せましょうか、着せましょうか、赤い、まだらの、ちゃんちゃんこ」
「来たわね……おら紅子! 出てきなさいよ! 着せられるもんなら着せてみなさい!」
まずい。
思った瞬間だった。
「っは、うっ、うううう……!」
紅子さんが自分の喉からガラス片を引き抜き、鏡の枠に手をかける。
しかし、そこから先は動かない。歯を食いしばり、目を見開き、ようやく生気の宿った瞳は耐え忍ぶように細められ、苦しみの声をあげていた。
「くそっ、アタシは……自分で決めるんだ。人は殺さない、復讐なんてしないっ、絶対に、絶対に、絶対に!」
そして手に持ったガラス片を、鏡の枠に手をかけた自身の手へと突き立てる。
嫌だ嫌だと首を振るその額には、脂汗が滲んでいた。
「なによ、来ないじゃない。ほらほら! 着せられるもんなら着せてみなさいよ!」
「やめてっ、くれるかなぁ!? 本当に、あの子は……!」
なおもあげられる声に紅子さんが悲鳴のような叫びをあげる。
ガラス片を手に持ったその手のひらにも、握りしめすぎて血が滲んできていた。体を乗り出すように、鏡を通り抜けるその手前で止まった彼女は、耐え続けている。
「くっ…………うぅっ……」
その心に反して動こうとする体を必死にその場に縫い止めて、紅子さんは目を大きく見開く。
「やっちゃえばいいのに。ねえ、アタシ」
その場に、紅子さんの声が響き渡る。
しかし、その声は彼女自身の口から漏れ出たものではなかった。なぜなら、紅子さんは唇をひき結んで本能から来る衝動に耐え続けていたからだ。
どこからか聞こえたその言葉に、冷や水を浴びせかけられたかのように、紅子さんは視線を背後に移した。
そこにいるのは俺……ではなく、紅子さんの背中から飛び出した……あの、赤い蝶のような形をした痣。
その痣が形を変え、ふわりと彼女の背中に覆い被さる。
それは、鏡合わせになった影のようなもの。
――もう一人の紅子さんだった。