最悪の修学旅行「精一杯の無謀な抵抗を」
目の前に迫るのはぞろりとサメのように鋭い歯が並んだ円形の口。
あんなもので齧られたらひとたまりもない。
……死ぬ?
脳裏に過るのは、先生の頭が見えない化け物に千切られた光景。
このまま、俺の頭も齧られて胴体から離れるのか……? それとも、このままこの化け物に丸呑みにされてしまうのか?
圧倒的な捕食者への恐怖で身が竦む。
自分はなんて矮小な存在だったのかと、心に刻みつけられる。
真に狙われ、捕捉された獲物というのはその圧倒的な〝死〟を目の前にして、動けなくなってしまうらしい。
「下土井ー!」
友人の声でハッとする。なに諦めたんだよ、俺!
硬直し、思考停止していた脳を働かせて視線を動かす。
この圧倒的な死を突きつけてくる化け物は、どうやら俺を散々怖がらせてから喰らおうとしているようで、ゆっくり、ゆっくりとその口を近づけてきている。
太く、長い尻尾の触手に組み付かれたまま力を入れて対抗してみるものの、力が強すぎて動けない。
何度も、何度も抵抗し続けて……いよいよ目の前にぞろりと並んだ歯が迫る。それから、口から這い出てきた触手のような舌が俺の頬を撫で上げ、ぞわりとした恐怖心が心の奥底から湧き上がってきた。
「く……っそ!」
直感したのは、こいつは怖がる俺で遊んでいやがるという事実。
なんの嫌がらせだ? 散々俺が刀で斬りつけたから、その復讐かなにかか?
しかし、その余裕と侮りのお陰でまだ俺が生きているのだ。
こいつが変な気を起こす前に、なんとかしないと……!
声を張り上げて硬直した己の心を律する。
そんな俺の心に呼応するようにカタリ、と……刀が震えた。
「死んでたまるかぁ!」
そして、ついに押さえつけられていた刀を振り上げることに成功する。
「――ッ」
ウナギのようなその体を下から上へ。
刀がズブリと突き刺さり、ぶよぶよの感触が手に伝わってくる。
それでも化け物は死に切らない。
頬を撫でていた触手が、我慢ならなくなったのか、俺の首を絞めるように巻きつき、固定してくる。そのままガブリと頭から食うために、抵抗させないようにとしているのだ。肌に直接触れてくるざらざらとした感触に鳥肌が立っている。このままじゃ、まずい。
俺の胴体を捉えている尻尾の触手が動き出し、体が空中に持ち上がる。
いよいよ抵抗がしづらくなった。
「……くそっ、くそっ、くそっ!」
悲鳴をあげつつも、俺を固定している化け物にスコップやクワで攻撃しながら「離れろ!」と助けてくれようとしている友人達を横目に、俺と化け物は見つめ合う。いや、この化け物に目なんてないけれども。
首を固定され、視線が目の前の並んだ歯に固定される。
今自分の腕が、刀が、どこを刺しているのかも分からない。
肩に落ちてきた透明な粘液が流れ、シャツの内側に入り込む。
でも諦めるなんてことだけはしたくなくて、尚も声を張り上げて気合いを入れた。
絶対に死んでやるものか! たとえ、この絶体絶命の状況下でも、俺は諦めない……!
カタリ。
もう一度、刀が鳴った。
「ふっ」
息を詰めて、腹に力を込める。
それからぶよぶよの体に突き刺さった刀を全力で斬り裂くように、上へ上へと持ち上げる。
「おらあああああ!」
俺の頭はいよいよもって化け物の口の中に入り込む。歯が下顎に当たり、臭い腐臭が鼻を刺激し、見開いた目に舌のような触手が舐め上げるように迫った。
それでも、俺は手を動かすのをやめない。最後まで、抵抗しきるように、相打ち覚悟で歯を食いしばりそして……口が閉じる直前、化け物は動きを停止した。
――俺の首筋からたらりと血が流れていく。
動きを止めた化け物が、後ろ向きに仰け反りながら……静かに地下室の地面にぶっ倒れた。
それと同時に尻尾の触手が緩んで、立ったままだった体勢から、俺もその場に座り込む。
舌の触手に撫でられそうになった目を手のひらで覆い、未遂で済んで良かったと心底息を吐き出す。
息が乱れて、恐怖と達成感とで全身が震えていた。
なんせ、もう少しで食われるところだったのだ。本気の本気で死ぬかと思った。
「おわっ……」
「下土井ー!」
呆然とする俺に、友人達が飛び込んでくる。
男友達のそんな歓迎、いつもなら「暑苦しいわ」で受け入れないのだが……今回ばっかりは、その体温を感じて生きている実感を得られたからされるがままになっておく。
「死ぬかと……」
「俺らだってヒヤヒヤしたってーの!」
「だよなあ……」
「ね、ねえこいつもう死んでるよね?」
「念のためもう一回刀で刺しとこうぜ」
「おっけー、おっけー」
俺から刀を受け取った友人の一人が化け物の頭と思われる場所を脳天から突き刺す。
化け物の死体は消えることなくその場に留まっていたが、もう二度と動くことはなかった。
「やったんだな……」
「ああ! 大手柄だぜ!」
「ヒーローになれたよね、俺達」
「でも割に合わねーよこの仕事」
「それはたしかに」
それは俺が一番言いたいことだ。死にかけたんだから。
「さあー、あとはこの火災報知器どうするかだな!」
「意外と人って来ないもんなんだなあ」
「いや、パトカーの音が……」
「げっ」
慌ただしいな。
「逃げよーぜ」
「おっけー」
報知器が鳴ってから、実際にはそれほど時間が経っているわけではない。
しかし、見つかるのも時間の問題だったのでさっさと退散することにした。
刀も持ち出し、自身の服で血のようなどろりとした液体を拭き取って部屋に戻す。絶対に刀の手入れはこれだけじゃ不十分だが、これ以上出歩いていたらヤバそうだったので、すぐに部屋へと戻った。
服は着替え、あとでこっそり風呂場ででも洗うことにする。
「終わったな」
「ああ、これで明日の夜は安心して帰れる」
「バイト代ふっかけよーぜ」
「いいねいいね、こんだけ危ない目に遭ったんだからいっぱいもらわねーと」
「それは俺の台詞なんだけれども」
「そりゃそーだ!」
心の底から安心する。
そして、疲れと緊張、そして恐怖でガチガチになった体が、布団に横になった瞬間休息を求めた。
これで、終わりのはず。終わりの……はずである。
そうして、俺達の化け物退治は幕を閉じるのだった。




