ホラー 雪岡月夜の場合
月夜は南教棟三階をさまよっていた。
「フウ君ー。出てきてよー。フウ君ー」
精一杯声を張る。しかしそのせいで声は反響し、自分の声に怯えることになった。
廊下を注意深く歩いていると、月夜は両肩を後ろからつかまれた。先程見た桂の顔が頭に浮かんだ。肩から上が硬直して、悲鳴を上げることもできなかった。
「残念。俺でした」
振り返ると、風二郎が舌を出していた。
「もう。よかった。フウ君、いじわるだよ」
「アハハ。悪い悪い。月夜は怖がりだな」
「わ、私より一花ちゃんの方が本当は怖がりなんだよ」
月夜は威張るように腕組みした。
「大丈夫かな、一花ちゃん」
「大丈夫だろ。きっとライと二人だと思う。あいつは冷静だから一花を一人にはしないだろ。それよりどうする? とりあえず二人と合流しないとな。あ、その前にトイレ行ってくるわ」
月夜は風二郎のベルトを掴んだ。
「一人にしないで」
「トイレには花子さんがいるんだぞー。それでも行く?」
「フウ君が行くなら行くよ」
トイレは廊下の端にあった。二人は肩と肩が触れない程度の距離を開けて歩いた。月夜は隣に風二郎がいることに馴染めなかった。
フウ君はいつも前にいた。見えるのは背中だけ。ライ君の計算高さとは対照的に、フウ君は向こう見ず。本当に風みたいで、捕まえることなんてできない。
風二郎の隣を歩きながら、月夜は確信を強めた。やはり第二図書室は間違っている。フウ君のいるべき場所じゃない。フウ君だけでなく、ライ君も一花ちゃんも、もといた場所へ帰るべきだ。
「ねえ、フウ君。フウ君はどうして――」
「到着ー」
風二郎がトイレの電気をつけた。暗闇に順応していた目にはきつい光だった。二人とも目じりにしわができるほど強く目を閉じる。
「月夜はそこで待ってて。桂のゾンビが来たら教えろよ」
「えっ。そんな。どうしよう。あんなの来たら私」
「まあゾンビって言っても、桂だし、大丈夫だろ」
「そんなこと言って、一番初めに逃げ出したのフウ君だったじゃん。何でそんなに平気なの? 怖くないの?」
「慣れた」
月夜は唇を噛んだ。
フウ君の「慣れた」は聞き飽きていた。宿題を忘れても、先生に怒られても、喧嘩して傷だらけになっても、「慣れた」の一言で片づけていた。でも「慣れた」が日常をつまらなくしたんじゃないないの? 第二図書室にも慣れたんだよ。なら新しい場所へ行けばいい。フウ君は何を怖がっているの?
月夜は唇の力を緩めて、息を吐き出した。言いたい言葉は呑み込んだ。
トイレの鏡を見て、普段、一花から言われていることを思い出した。
「月夜は女の子なんだから、トイレ行ったときは身だしなみ整えた方がいいよ。今日なんか、朝から寝癖がそのままじゃん」
「一花ちゃんだって女の子なのに、鏡見たりしないじゃん」
「私はいーの。だってこんなに髪短いし、男子から注目されることなんてないから」
今でも月夜は理不尽に思っていた。反論はいくらでもあった。一つ、一花ちゃんの方がかわいい。二つ、自分は男子から注目なんてされてない。三つ、そもそも寝癖一つで人を評価するような人はお断りだ。
鏡を見るのは嫌いだった。そこには自分がいるから。
「つまらない子」
鏡は語る。
月夜のそばにはいつも一花という鏡があった。月夜は二卵性双生児で良かったとつくづく思っていた。一卵性で見た目まで似ていたら、自分に価値はないとさらに思い知らされていただろう。
それほど鏡を嫌っていたのに、月夜は鏡を見てしまった。何かが動いた気がしたからだ。しかし、鏡に異常は見当たらない。
鏡に映る自分を見て自嘲的な笑みを浮かべる。やっぱり私だ。
「つまらない子」
月夜も鏡の中の月夜も同じように口を動かした。
「月夜ー、終わったぞ」
風二郎が流しの前に立った。
「うん。桂先生も来てないよ」
「そっかー」
風二郎は蛇口を必要以上にひねったので、水が滝のように出てきた。
「フウ君、水使い過ぎ」
「あ、悪い。あのさ、月夜」
「何?」
「月夜はつまらない子なんかじゃないよ。それだけ」
風二郎の言葉は胸の奥までは入って来なかった。
「フウ君には分かんないよ。フウ君は客観的に物事見るの、苦手でしょ」
「おうよ。だから俺の主観。俺の中では、お前、かなりおもしろい方。完全な客観なんてないんだから、それでいいだろう?」
「よくないよ。問題は、他者にどう見られているか、ではなく、自己肯定感の欠如だから」
「たくさん本読んでる奴は厄介だな。漫画のヒロインみたいに頬を赤らめながら、ありがとうって言っときゃいいんだよ。あ、でもクラスの男子にはやるなよ。あいつらすぐ勘違いするから」
「そうかなあ。じゃあ」
月夜は鏡の中の風二郎を見つめた。
「ありがとう。少し元気出た」
「おう。よかった、よかった。さーて、ライ達と――」
トイレを出ようとすると、腕を引っ張られた。
「な、なんだっ?」
「なにっ?」
鏡に映っている二人の腕が、鏡から生え出て、二人の手首をつかんでいた。
鏡の中の風二郎と月夜は唇を歪ませて笑うと、次第に顔の肉が剥がれていき、しまいには目玉が弾け飛んだ。鏡の中から現実世界へと飛んできた目玉は、月夜と風二郎の頬に貼り付いた。
「うげえ。気色悪い」
風二郎は抵抗しつつ、片手で目玉を払う。一方、月夜は悲鳴を上げていた。
「声、高っ。ほら、目玉取ってやるから、もう少しふんばってろ」
「どうして? 何で平気なの? こんな」
「あ? 慣れたって言っただろ」
そう言うと風二郎はつかまれている方の腕を大きく振って、ゾンビ風二郎を鏡の中から引っ張り出した。次にゾンビ月夜の腕をつかみ、同じようにして引っ張り出し、勢いをつけてゾンビ風二郎にぶつけた。
「逃げるぞ。踏みつけていけ。百倍返しだ、こんにゃろ」
「フウ君、待ってよー」
ゾンビはぬかるみを踏んだような感触だった。
二人は夜の廊下を駆けて行く。風二郎の笑い声が南教棟全体に響き渡った。