恋愛 雪岡一花の場合
「おかわりしよっと」
一花は席を立った。
食卓に並ぶ今日のおかずは、ほっけの焼いたのと冷奴と芋の煮物だ。
「太るわよ」と母。
「えー? 月夜はどう思う?」
「大丈夫じゃないかな。私たち、やせてるし」
二人は己の胸元を見た。壁、という感想しか出てこなかった。
「私のせいじゃありませんからね」
母はない胸を張った。父は黙って夕方のニュースを見ていた。
「お母さんのせいだなんて言うつもりじゃなかったの。私たちまだ十四歳だもん。これが普通だよ」
そう言って月夜は笑った。
一花は月夜の変化に気づいていた。色で例えるなら、灰色から水色へ。音で例えるなら、掠れた口笛からフルートへ。表情が柔らかくなった。作り笑いを見せることもなくなった。
フウのせいだ。あいつが月夜を変えたんだ。月夜を変えられるのは、あいつだけだ。
夕食後、月夜と一花はすぐお風呂に入った。先に体を洗うのはいつも一花だった。その間、月夜は湯船に浸かっている。
「月夜、後で数学のプリント見せて」
「駄目だよ、写すのは」
「なら教えて」
「いいよ」
「教えるの上手いんだから、月夜が授業もやってくれたらいいのに。男子だってその方が喜ぶのに」
「どうして男子が出て来るの? それにライ君の方が適任だよ」
一花はシャンプーを流しながら笑った。
月夜は自身の美貌に無自覚だ。それがさらに男子の心をくすぐるんだろう。
今度は月夜が体を洗い始めた。泡が裸体を隠していく。一見、傷一つない体だ。でも、確かに傷ついている。一花だけは知っている。
二人きりだし、今、謝ってしまおう。
「月夜」
「何?」
一花は一瞬、呼吸を止めた。
「どうしたら胸、大きくなるんだろうね」
「私が聞きたいよ」
言えなかった。
意気地なしだ、私。
自己嫌悪を微塵も表情には出さずに風呂を出て、ソーダ味のアイスを食べながらクイズ番組を見た。番組が終わると二階へ上がった。
自室に入ると、月夜が本を読んでいた。ここは一花の部屋であり、月夜の部屋でもあるのだ。
本棚は本が隙間なく、縦横関係なく詰め込まれていた。どれか一冊でも取り出すと、棚から全部出てしまうことが容易に推測できた。
数学のプリント課題を持っていき、教えてもらう。
「一次関数は点の集まりなんだよ。その点が無数にあるから直線に見えるの。一花ちゃん、聞いてる?」
「うん、聞いてるよ。点と直線が大事なんだよね」
一花はほとんど聞いていなかった。どう話を切り出せばいいか分からなかった。
「一花ちゃん、何か言いたいことあるの? さっきから目がすごく泳いでるよ」
「あの、あの」
いつもの月夜のように一花は口ごもった。
月夜がベッドに腰掛けた。
「言いにくいことなら、こっちで話そ」
一花は机上にプリントを残し、月夜の隣に座った。胸の中で感情が乱反射して、喉に力が入らなかった。
「一花ちゃん。頑張って」
そう言って手を重ねてきた。冷たくも温かくもない手だった。胸の中は静かになった。
「私、ミステリジャンルで、猫を見分けるために子犬のワルツを弾いたの」
「言ってたね」
「ごめん。私、もうピアノは弾かないって決めてたのに。弾いちゃったの。それどころか、演奏を楽しんだりして」
「一花ちゃんは昔私に言ったこと、まだ気にしてるんだね。でも、もう充分だよ。もういいんだよ」
「よくないっ」
涙声で叫ぶ。
「よくないよ。月夜はもっと私を責めていいんだよ。私が悪いの。私が」
月夜が天井を仰いだ。照明に照らされた瞳は輝いていた。
「一花ちゃんだけを悪者にさせられないよ。コンクールで結果が出なくて落ち込んでた一花ちゃんにデリカシーのないこと言ったの、私だもん」
「違う。月夜は私を励まそうとしてくれてた。なのに私は傷つけることしかできなかった。分からないならせめて黙ってて、って言った。今でも自分の言ったこと全部覚えてるの。私は――」
言葉を続けられなかった。ピンク色のパジャマに大粒の涙が落ちていった。
「一花ちゃんはまだ許して欲しくないんだね。あのときの自分を許したくないんだね。でも駄目だよそろそろ許してあげないと。私は前に進むって決めたんだ。隣には一花ちゃんにいてもらいたいな」
「私にそんな資格ないよ」
「違うよ、一花ちゃん。私は、資格を持ってる人に隣にいて欲しいんじゃないの。一花ちゃんに隣にいて欲しいの。ピアノのことはよく分かんないけど、一花ちゃんのことは分かってるよ。一花ちゃんは楽しそうにしてるのが一番。笑顔のお姉ちゃんが大好きだよ」
一花は月夜に抱きついた。慟哭は月夜が着ている水色のパジャマに吸い込まれていった。
クレッシェンド、デクレッシェンド。泣き声の楽譜があったなら、どんなに美しいだろうと一花は思いをはせた。フォルテッシモからピアニッシモへ。この余韻をいつまでも覚えていよう。
「今日は一緒に寝てもいい?」
「いいよ。一花ちゃんって実は私より甘えん坊だよね」
茶化されながらも、一花は月夜にくっついて横になった。まつ毛の一本、一本が見えるぐらいに顔を近づけた。
「おやすみ」月夜は笑った。
「おやすみ」一花は笑い返した。
翌日、一花の目は赤く腫れていた。
朝の教室で風二郎に驚かれた。
「お前、どしたの? その目」
「別に」
「月夜は何があったか、知ってるんだよな」
「内緒だよ」
「それより一向に手がかりがつかめない。やばいぞ」
雷二郎は指で机を叩いていた。机の下では、つま先も小刻みに動いていた。
「せめてジャンルが分かれば」
一日は無為に過ぎて行った。
放課後、下駄箱で、月夜が弱弱しい声を出した。
「一花ちゃん。どうしよう」
月夜の手には、ハートのシールで封をされた手紙が握られていた。




