ミステリ 雪岡月夜の場合
ランチを食べ終え、月夜と雷二郎は捜索を再開した。丘には木々が無数に生えている。
「一応、おばあさんはこの丘に黒猫がいたと証言している。しらみつぶしに探そう」
二人はお互いを見失わない程度に離れて、猫を探した。歩くたびに、落ち葉が音を立てた。
丘の頂上にはオークの木があった。太い木々の根元に黒い物体が横たわっている。
雷二郎が写真と暗い物体を見比べる。
「多分、こいつだ」
月夜はしゃがんだ。猫からは息を止めたくなるような異臭がした。あまりにも静的で、呼吸を確かめることも、脈を診ることも必要なかった。
「あなたはどっち?」
まだ名も知らぬ猫に問いかけた。
オークの枝が空を引っ掻くように揺れた。
雷二郎のコートに猫をくるむ。
月夜は自分が持つと頑なに主張した。
「どうしてこだわる?」
「この猫、私と似てるから。きっとレフミーの方だよ。踊れない方の猫。だから」
「なぜ分かる? そんなのお前の勘でしかない」
「そうだね。でも分かるの。推理しなくても、分かる気がするの」
月夜は重ねていた。踊りを踊れない猫。ピアノを弾けない私。
「お前は少し混乱してる。考えすぎるな。この旅で起きていることなんて全て幻かもしれないんだ」
「うん。でも、私が持つの」
「分かった。重くなったら言え。替わるから」
丘を下り、来た道を戻る。木や地面や空に劇的な変化が起こったわけでもないのに、来た時とは随分違った景色に見えた。
月夜は死体の重みを苦に思わなかった。むしろもっと重たくあって欲しかった。
おばあさんと出会ったあたりの場所にさしかかった。おばあさんの姿は見当たらなかった。雷二郎はため息をつくと、小屋のドアノブにバスケットをひっかけた。
「お礼、言いそびれたな」
「孫のアンドリューとして? それともライ君として?」
「何々として。そんなフレーズ、俺は信用してないよ。それこそ幻だ。訊き返すが、月夜は今、何としてその猫を抱えて歩いてるんだ?」
月夜は黙らざるを得なかった。
私は何としてここにいるの?
尋ねても、胸の中は空っぽだった。骨や臓器が詰め込まれているなんて嘘のように思えた。骨や内臓なんてフィクションだ。医者に都合のいいフィクション。もしくは人類に都合のいいフィクション。私たちはもっと別のもので動いている。
アンナ婦人の家に戻った時、空は灰色の雲で覆われていた。
リビングの机の上で、コートをめくり猫の姿をさらす。
「気の毒に」と桂は言った。
風二郎と一花は口を半開きにしたまま、何も言わなかった。
月夜はアンナ婦人を観察していた。アンナ婦人の表情からは何も読み取れなかった。眉も瞳も唇も微動だにしなかった。
「教会に連れて行って祈りの言葉をかけていただいてから、お墓を立てて埋めようと思います」
そう言って、アンナ婦人は出かける準備を始めた。その間に雷二郎と月夜は家に残っていた方がライミーだったと知らされた。
「一応、依頼は終わったけど、ジャンルジャンプはまだ起こらないな」
雷二郎は考え込んだが、本をたくさん読んでいる月夜は、あの人の発言が伏線だと分かっていた。
「ミステリは謎を解いただけじゃ終わらない。ワトソンさんの言ってた通りだとすると、おかしくはない、のかな」
ライミーは戻って来た死体のレフミーに特に興味を示す様子もなく、ソファに寝転んでいた。
「薄情な猫だな」
風二郎はライミーの額をデコピンではじいた。ライミーはそれでもだらけままだった。
教会に行くアンナ婦人に桂と四人も同行した。教会は家から歩いて十五分ほどのところにあった。
神父さんは猫に弔いの言葉をささげた。神がどうたらという弔いの言葉は、月夜の耳には空疎なものに聞こえた。
月夜はここでもアンナ婦人を見ていた。突然、アンナ婦人の瞳から涙がこぼれた。真珠のような涙だった。うつむいた顔から教会の床へ涙の雫が落ちていった。ステンドガラスの聖母もその様子を見守っていた。
教会からの帰り道、月夜は尋ねた。
「あ、あの、どうして泣いていたんですか?」
今の今まで見分けもつかなかった猫のことなのに。
アンナ婦人は穏やかな声で答えた。
「私にもよく分からないの。レフミーもライミーも母が飼い始めたもので、私はどちらかというと猫たちに関心がなかったわ。なのに涙が流れるなんて不思議よね」
「悲しいとは別の感情なんですか? 悲しくないのに涙は出るんですか?」
「どうなのかしら。きっと、感情はどうであれ私の身体は泣きたがっていたんだわ」
「身体と感情は別々で、無関係ってことなんですか?」
「もしくは最初から感情も身体もないのかも。私たちは感情とも身体とも違う、何か別の一つしか持っていないんじゃないかしら」
「その一つって何ですか? 私はそれが知りたいんです。その一つでアンナさんは泣いたんですよね? その一つっていったい何ですか?」
月夜はレフミーの死に意味を見出したかった。アンナ婦人の涙によって、レフミーの死は意味を成そうとしていた。だからアンナ婦人の涙の原因が曖昧なものであってはならないと思った。
「さあ、何なのかしら」
月夜は唇を噛み、それ以上追及するのをやめた。
レフミーのお墓を庭に作りたいと婦人が望んだので、風二郎と雷二郎が協力することになった。スコップで穴を掘っていく。
ひと堀りごとに墓穴が深くなっていくのを、月夜は見ていた。一花がそばに来た。
「私、月夜に言わなきゃいけないことがあるの」
「もしかしてピアノ弾いたこと?」
「うん」
「一花ちゃんは昔のことを気にしすぎだよ」
「でも」
「この話はやめよ。今はレフミーを埋葬することの方が大事だよ」
「うん。でも落ち着いたら、ちゃんと話すから」
アンナ婦人がレフミーを穴の中へそっと置いた。一人、一すくいずつ土をかけていく。レフミーが徐々に見えなくなっていく。
月夜は気がつくと涙していた。頭は冴えていた。自分でも不思議だった。今日初めて会った猫。いや、既に死んでいたのだから、出会ったともいえないかもしれない。レフミーとの思い出なんて一つもない。なのに、涙が頬をつたっている。レフミーにシンパシーを感じたから? 私はレフミーなのだろうか? 違う。自分の死に涙することなど不可能なのだから、違う。ならばなぜ泣くのか? そうか。私の身体が泣きたがっているんだ。
灰色の雲は雨を降らした。雲も雨を降らせたがっていたんだ。
雨の冷たさとともに、月夜の体も、意識も、冷たくなっていった。




