ミステリ 雪岡一花の場合
ショパン作曲、変ニ長調作品64―1、ワルツ第六番『子犬のワルツ』。
一花は十指を互い違いに組み、力を加えて伸ばした。ピアノを弾くのは二年ぶりだ。指がなまっていることは間違いなかった。
楽譜を見ながら、机を鍵盤に見立てて空弾きした。
「アンナ婦人、もう安心ですよ。私の助手が華麗にピアノを演奏して、謎は解決です」
「まあ、すばらしいわ」
「ホームズさんよお、あんた、何もしてないじゃないか」
「バ、バカ言え。今回は君たちの育成のために私はあえて手を出さないのだよ。あえて、ね」
「嘘くせ」
一花は会話には入らず、楽譜を凝視している。
集中しろ。もうピアノは弾かないという誓いを破ってまで演奏するんだ。無様な演奏は許さない。他の誰でもない、この私が。
ソファに座っている黒猫が一花を見ていた。縦に細い瞳はナイフで切られた傷口のようだった。
「おい、猫。もうそんなクールな表情はできなくなるぜ。『吾輩は猫である。名前はまだない』なんて言わせない。名前はすぐに判明する。観念しやがれ」
そう言って、風二郎は猫ふんじゃったを弾いた。猫は身じろぎしなかったが、桂とアンナは拍手した。
風二郎は一礼し、猫に向き直ると、
「踏まれた感想は?」
と握りこぶしをマイクに見立てて、猫の顔の前に持っていった。
「猫ふんじゃったを弾いた貴様には呪いがかかった。『踏まれた猫の逆襲』という曲を死ぬまで一生弾き続けるという呪いがな」
風二郎が裏声で答えた。一花は椅子の高さを調節しながら、ツッコミを入れた。
「あんた、『踏まれた猫の逆襲』なんて弾けないでしょ。あれ、けっこう難しいし」
ピアノの前に座り、背筋を伸ばす。
子犬のワルツ。技術的に難しい曲じゃない。だからこそ、ごまかしが効かない。
「失敗したらやり直せばいいんだから、そんなに気負うなよ」
「ダメ。失敗はできない」
月夜を傷つけたことは変わらない。ピアノを弾いてはいけないという罪の意識は消えていない。だから一回で済ませる。そして、もう一度謝ろう。月夜に謝ろう。
一花の指が二年ぶりに鍵盤に触れた。
息を吸う。
そして最初の音が鳴った。
子犬のワルツはリズミカルに弾けばいいという曲ではない。犬が自分の尻尾を追いかける速さを表現するためには、自分が犬にならなければならない。四本の足で走らねばならない。
一花の後ろで歓声が上がった。
弾きながら、横目で様子をうかがう。
黒猫は立ち上がっていた。胸元の腕を揺らしバランスをとっている。曲に合わせてステップを踏み始めた。ナチュラルターン、スピンターン、リーバースターン。三種類のターンを使いこなして踊った。
一花は猫の方を見るのをやめ、演奏に集中した。
思うようには動かない指に、二年という歳月の重さを感じた。それでも一度弾き始めたら、中断できない。中断したくない。SFジャンルで出会った司令ボギーの言葉を思い出す。
――一度手にした楽しみや喜びは不死鳥のように蘇る。捨てることなんてできない。
同時に月夜を傷つけた痛みも跳ね返ってくる。月夜につけた傷は私の傷。月夜の許しは私の傷をさらにえぐった。
最後の和音を放ち、静寂を待つ。
猫が前足を床に着けると同時に、演奏は終了した。
「ブラボー」
アンナ婦人が叫んだ。
「よくやった。これでこの猫がライミーの方だと分かった。なら疾走している方はレフミーだ。我ながら名推理だ」
「ほとんど何もしてねえよ、あんたは」
「まあそう言うな。これで後はレフミーを見つけるだけですな」
「そのことなんですけど、手がかりも特にありませんし、きっと無駄に時間を使わせるだけでしょうから、捜索は打ち切ってもらってかまいませんわ」
「そうですか。なら君たちは二人を呼び戻してきなさい」
「どこ探してるかも分かんないのに? 下手したら入れ違いになるぜ」
「ならばここで待機だ。あの二人には暗くなるまでには帰るように言ってあるから大丈夫だろう」
三人の会話をよそに、一花は鍵盤を見つめていた。
もう一度、弾きたい。もう一度だけなら。ここに座っていると、そう思ってしまう。
「フウ、行くわよ」
一花は立ち上がり、コートを風二郎に投げつけた。
「行くってどこに? ここで待つってことになったじゃんか。話聞いてなかったのか?」
「ああ、そうなの。そうなんだ」
一花は自分がどこに立っているのか分からなくなった。視界が揺れた。黒猫ライミーの瞳の中に月夜のシルエットが映っている。
「やっぱり一花ちゃんは自分勝手。私よりピアノを選ぶんだ。私のこと、あんなに傷つけたのに。自分が楽しければそれでいいんだ」
視界が黒鍵で埋め尽くされた。
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おなかが重い。
何か乗ってる?
「ミャア」
ライミーと目が合った。
一花はソファに横になっていた。
「気づいたか? お前、あのあと倒れたんだぜ」
風二郎は床にあぐらをかいて座っていた。
「そっか。私、久しぶりにピアノを弾いて疲れたのかな。ピアノなんてやっぱり弾くもんじゃないわ」
「でもお前の演奏のおかげでこいつがライミーだって分かった」
一花は片腕で目をおおった。
「ちょっと寝る。ライと月夜が帰ってきたら起こして」
一花の眠りを妨げるものは、耳に残った「子犬のワルツ」だけだった。




