第4話
姉は彼氏と別れる少し前、昔のことを思い出したのだという。その時、真っ先に頭に浮かんだのが俺だった。そして会いたくなった。ここに遊びに来るだけでも良かったが、ずっと一緒にいれるわけではない。それが嫌で、仕事を辞めてまで帰ってきたという。
「……そんなことで仕事を辞めたのか?」
「そんなことじゃないもん! あたし、圭に会いたかったの……」
彼女は目を伏せて肩をすくめた。
確定した。薄々勘づいてはいたが、彼女はブラコンだったのだ。今さら驚くことはないからいいとして、それより聞きたいのは俺に対する気持ちだ。
「俺のことが一人の男として好きだからか?」
「それは分からないよ……」
分からない――こう言われてしまうとなす術がない。
「それじゃあ仕方ないな。俺も姉ちゃんのことは好きだけど、一人の女としてはよく分からない」
「それ……ホント? 圭も同じ気持ちなの?」
「ああ……セクハラされたからそうなったのかどうかは分からないけど、少なくとも姉ちゃんがここに帰ってくるまでに、俺が姉ちゃんに思ってた気持ちと今の気持ちは全然違う。それだけは言える」
全てを晒け出してしまった。気付けば、さっきまでの胸のモヤモヤは消えていた。
――姉ちゃんは俺と同じ気持ちなんだ……
彼女が言った、『同じ』という言葉が何度も頭の中で再生される。悩んでいるのは俺だけじゃないかもしれない。それを知れただけでも自分には充分救いだ。しかし、このことと彼女に愛情を抱いているかどうかは別の話だ。現時点で彼女のことを、一人の女性として好きだと断言出来るまでには至らない。
「ねえ……じゃあさ、チューしてみない?」
「え?」
「昨日はあたしからしたんだから、今度は圭からしてよ。またキスしたら気持ちの整理が出来るかも」
どう結びつければそういう発想になるんだ。彼女から言いだしたのにもかかわらず、照れているのだろうか。俯きがちに、期待を滲ませたようなキラキラした目を、時折こちらに向ける。
突飛な提案だと思う。しかし、今はむやみに拒否するより自分の気持ちを確かめてみたい。
「じゃあ……するよ?」
「うん……」
彼女は目を閉じた。俺は昨日キスをされた時とは違って、明らかに高揚していた。心臓の音が頭にまで響いてくる程だ。
肩に両腕を回してキスをする。彼女にされた時には頭が真っ白だったが、今は重なる唇の感触で満たされた。ほのかに温もりがあり、俺の唇を受け止めながら包み込むような柔らかさだ。
「ん……」
ゆっくり唇を離すと彼女の吐息が漏れた。時間にして十秒くらいだったとは思う。だが、その二倍か三倍の時間はキスをしていたように感じた。
「どうだった?」
「恥ずかしかった……」
「何よそれだけ!? そんなのあたしも恥ずかしかったし」
身体をモジモジとさせている。
「あたし……凄いドキドキしちゃった。なんでだろ」
「……俺も。二人が同意の上でしたからじゃない? 昨日は俺が一方的にされてただけだし」
「ふふ、そうかもね」
付き合いたての高校生くらい初々しい会話をしてしまったが、俺たちは姉弟だ。こんな雰囲気になっていること自体が大問題だ。
「あたしのこと、女として思える?」
「うーん……それはやっぱり分からない」
「そっかあ……あたしも圭に対してはそうだけど」
なぜか残念そうに、か細い声が途切れた。姉弟としての関係が崩れてしまうのが大変なことだとは、少しも考えていないのだろうか。
「圭があたしのおっぱいを触ったら、分かるかなあ」
「は? それはちょっと……キスは百歩譲って姉弟でもするかもしれないけど、おっぱいを触るのは性的な意味しかない」
キスするだけでもいっぱいいっぱいだったのに、胸を触るなんて無理に決まっている。
「そっかー。そうだよね。もし圭があたしのおっぱいを触って、そこから止まらなくなったらちょっと怖いし……」
「どういう意味だよ……」
彼女はイタズラな笑みを浮かべて立ち上がり、ベッドに飛び込む。
「あたし、もう寝るー。枕持っていくならどうぞ。あたしのは返してね」
「じゃあ……そうさせてもらうよ。姉ちゃんの枕取ってくる」
「姉ちゃんじゃなくて、明日香って呼び捨てにしてもいいんだよ? あたしは圭ちゃんって呼ぼっか? ふふっ」
「呼ばないし呼ばなくていい」
俺は部屋を出る。彼女は今、どういう気持ちなのだろうか。未だに心臓の鼓動が速くて苦しい。
枕を交換すると、自分の部屋に戻って寝ることにした。やはりなかなか眠れなかった。
「圭ー、起きなよ。朝ですよー」
次の日、俺は姉の声で目を覚ました。昨日はなかなか寝つけなかったのもあって、目覚まし時計の音が耳に入ってこなかったようだ。
「う……あと五分……」
「ご飯食べるよ!」
無視して目を閉じると、背中にゴソゴソと何かが動いているのを感じる。
「ほらー、これでも起きない?」
彼女は布団に潜り込み、後ろから抱きついてきた。背中に彼女の胸の感触と、尻の辺りに彼女の腿が当たる感触がする。
「わっ!」
飛び起きて彼女を見る。
「何やってるんだよ!」
「何って……圭が起きないから起こしてあげたのに、怒らないでよー。もうちょっとくっついていたかったな」
いつもの彼女だ。だからこそ迷惑だ。過剰なスキンシップのせいで、ややこしいことになっているという考えはないのだろう。
とりあえず、ここで相手にしていても調子に乗るだけだ。彼女を置いて部屋を出た。
三日後の23時半頃、俺は風呂から上がると自分の部屋に向かった。部屋に入った時、また枕が姉の物だったので自分のと交換しにいく。面倒臭い。
それから一時間程してベッドに入った。しばらくしてまどろみの中、部屋の扉を叩く音が聞こえた。こんな時間に誰だ。電気をつけて扉を開けると、そこには姉が立っていた。
「何……」
「入っていい?」
彼女は返事を待つことなく、強引に部屋に入ってきて扉を閉める。
「だからなんなんだよ」
「……寂しくなっちゃって。一緒に寝てもいい?」
添い寝は勘弁してほしい。早く追い出すために、枕を取って彼女の前に出す。
「これがあればいいんだろ?」
「ヤーの……圭と一緒に寝たいの。お姉ちゃん孝行は?」
目を潤ませて上目遣いをするな。可哀想に見えてくる。
大きな溜め息が出た。お姉ちゃん孝行と言えば、なんでも言うことを聞くとでも思っているのだろうか。
「お願い! 五分でいいから……圭の横にいさせて?」
手を合わされてしまった。眠い。とにかくさっさと寝たい。投げやりではあるが、押し問答している時間さえ惜しい。要求に応えることにする。
一緒にベッドに潜り込み、彼女に背を向けた。向かい合えだのまた文句を言われると思ったが、妙に大人しい。
喋ることはないものの、何をしているのかモゾモゾ動いているのを感じる。
「ひっ……」
不意のことに声が漏れてしまった。彼女は背中に抱きついてきた。やはり、何もしないわけがない。
「姉ちゃん……もう五分経ったよね? 自分の部屋に戻って」
腕を振り解き、布団を捲って彼女を見る。
「わっ!」
パンツ以外何もつけていない。慌てて彼女に背を向け、ベッドの上に座る。
「訳が分からん……なんで裸なんだよ」
「……おっぱい触る?」
なぜそこまでして胸を触らせたいのか、理解不能だ。
「触るわけねえだろ! さっさと服を着ろ」
「じゃあ……あたしが圭におっぱいを触ってほしいって言ったら、触る?」
聞きたくもないが、彼女の声はどことなく艶っぽかった。返事をしないでいると部屋は静まり返る。彼女の息遣いだけが鮮明に聞こえてくる。
しかし、すぐに沈黙は破られた。両腕が背後から肩に回され、背中に身体を寄せてくる。
「……やめろ」
「こっち向いてよ……」
抱き締める力が強められた。そう思っていると彼女は、今度は右腕だけを離してまたモゾモゾと動く。何をしようとしているのかが全く読めない。
「あたし……今、パンツも脱いだよ。ほら見て」
明るい声に背筋が凍る。彼女の右手が目の前に出てきた。指にはリボンがついた、薄い水色のパンツが引っかかっている。
「……姉ちゃん、自分で何をしてるか分かってる?」
「分からないよ……分からないから確かめたいんじゃん。圭もあたしと同じ気持ちなんでしょ? ぎゅってしても分からなかった。チューしても分からなかった。じゃあ、次は身体に触れてもらおうかなって。それでも分からなかったらどうしよう……エッチするしかないのかな」
「やめろ!」
「きゃっ……!」
腕を振り解いて彼女の方を向いた。俺の目には、一糸まとわずベッドに横たわる姿が飛び込んできた。だが、構わず急いで布団を被せる。
「俺をこれ以上惑わせないでくれ……どうにかなってしまいそうだ」
「あたしはもう、どうにかなってるんだと思う。自分で自分の気持ちが分からないなんて……苦しいよ。なんとかしたいよ……」
彼女は泣きじゃくる。俺にはただ、その姿を見つめることしか出来ない。
それにしてもなかなか泣き止まない。行く当てのない手が一瞬、空中で停止してから彼女の頭を撫でた。
どれくらい泣き続けただろうか。ようやく彼女は静かになった。静かというよりは無だ。顔から感情という感情を失っている。
彼女が起き上がろうとしたので背を向ける。すると、衣擦れの音が聞こえてきた。パジャマを着ると、彼女は一言も発することなく部屋を出た。
それから一週間、姉は俺に構うことが少なくなった。セクハラをしなくなったし、枕を奪いにくることもない。食事で一緒の時はそれなりに話をしたが、当たり障りのないことだけだった。
距離を取ることになっても、俺はいつもどこかで彼女のことを考えていた。
――もし俺が本当に、姉ちゃんのことを愛してるのだとしたら。もし姉ちゃんが本当に、俺のことを愛してるのだとしたら。俺は姉ちゃんにどうしてあげればいいんだろう。姉ちゃんは俺にどうしてくれるんだろう。
そんなことばかりが頭の中を占領だけして、答えが出ないまま日々は過ぎていった。
「姉ちゃんは?」
次の日の朝、俺が朝食を摂り始めても姉が現れることはなかった。
「さっき見たけど、調子が悪いんだって。顔が赤くてぼーっとしてたわ。熱があるみたい」
母が言うには姉は風邪を引いたようだ。
朝食を胃に詰め込んで、姉の部屋に来た。扉を叩く。
「……はい」
声は蚊の鳴く程に小さかった。部屋に入る。
姉は額に冷却シートを貼り、熱のせいなのか頬だけがやけに赤い。いかにも体調が悪そうだ。
「大丈夫?」
「うーん……体がダルくって。圭、あたしのこと心配してくれてるの? ふふ」
体調が悪くても、冗談を言うだけの力は残っているようだ。
「少なくとも家族としてはな。俺、今日はバイトが夕方までだから、何か欲しいものがあったら買ってこようか?」
「ホントに? ……でもいいや。帰ってきたら、あたしの看病してほしいな、なんて」
彼女はぎこちなく口角を上げる。
「……考えておく。じゃあ、行ってくる」
部屋を出る。庇護欲というのだろうか。弱っている彼女を見て愛おしく思ってしまった。それは今までなら家族としてだっただろうが、今の気持ちは間違いなくそれ以上だ。
夕方、俺はアイスクリームをいくつか買った。元カノにすらこんな物を買ったことがない、と苦笑しながら家に着く。
冷蔵庫に買ってきたアイスクリームを入れ、自分の部屋に鞄を置く。そしてすぐに、姉の部屋の前まで来た。
「姉ちゃん、起きてる?」
耳を澄ませてみるが、中からは何も聞こえない。寝ているのだろう。なるべく音を立てないように扉を開ける。
案の定、姉は寝息を立てていた。ベッドの側でしゃがんで顔を眺めるが、しばらくそうしていても起きる気配はない。自分の部屋に戻ろうと立ち上がる。
「……明日香」
自分で自分が、無意識に彼女の名前を呼んでしまったことに驚いた。
彼女をもう一度見ると身体が動き出していた。ベッドに両手をつくと、唇に吸い寄せられる。寝ている彼女にキスをした。
「んんっ……圭? 何してるの?」