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第3話

 次の日の夕方、俺は帰宅して自分の部屋に向かうと、そこにはまた姉がいた。ベッドに横になり、俺の枕を抱いてそれに顔を埋めている。一体何がしたいんだ。

「いい加減にしろよ……」

 枕から顔を離すと、素知らぬ様子でこちらを見つめてくる。

「じゃあ、この枕とあたしの枕、交換しない? 圭の匂いがあれば大丈夫だと思うし」

 身体を起こして、彼女は枕を抱き締める。何が大丈夫だと言うのか。相変わらず、変態的なことを普通に口にしている。俺は麻痺してきているのか、この程度では動じなくなっていた。

「枕を渡して出ていってくれるなら、好きにしてくれ」

「……やっぱり、実際に圭を見ちゃうとダメだあ」

「……はあ?」

 まともに相手していられない。

 さておき、昨日彼女が言っていたことが気になる。

「姉ちゃん、昨日の『紛らせてなんかない』ってどういう意味? 姉ちゃんって寂しさを紛らすために、俺にセクハラをしてるんだよね?」

 俺にしてみれば純粋な疑問でしかないが、どういうわけか彼女は固まってしまった。

「姉ちゃん……?」

「違うの」

「何が?」

「あたしは寂しさを紛らせてもないし、圭にセクハラをしてるとも思ってない」

 呆れた。小学生でも、もう少しマシな言い訳をすると思うが。

「いや、ここに現に被害者がいるんだけど」

「……被害者なんて言わないでよ」

 その声は震えていた。何か不穏な空気を感じる。

「え、ちょっと……ごめん!」

 彼女の目から静かに涙が溢れ落ちた。まさか泣くとは思わなかった。慌てて隣に座り、背中を擦る。昨日の夜からどうしてしまったんだろう。

「あたし、何かが爆発しそうなの……」

「……爆発?」

「何かが爆発しそうになって、彼氏と別れて、会社を辞めて、ここに帰ってきたの」

 ずっと聞きたかったことは、思わぬ形で彼女の方から話してくれた。爆発がなんのことなのかはよく分からないが。

「それでもこうやって、圭と一緒にいると楽な気持ちになれるから、ついもっとってなって……あたし、いろいろとしちゃったんだと思う。ごめんね」

 セクハラをする理由は、彼女自身が爆発しないためらしい。弱みを見せられてしまうと、こちらも強くは出にくい。どうするべきか。

「姉ちゃん……今、俺に出来ることはないかな。姉ちゃんの苦しみをどうにか出来るかは分からないけど、出来ることならしてあげたいって思うから」

 極力優しく言ったつもりだが、暗い表情は変わりそうにない。

「……チューして」

「は?」

 あまりに予想外の言葉に、素っ頓狂な声が漏れてしまった。

「だから……チューしてよ。あたしのためなんでしょ? 親が子供にキスするし、別に姉弟でも大丈夫だよね?」

「いやっ、ちょっと待て!」

 思考が追いつかない。親子が大丈夫だから姉弟でも大丈夫、という考えはどう解釈してもおかしい。彼女は実はアメリカンだったのだろうか。それでも納得は出来ないが。

 そんなどうでもいいことが頭の中を駆け巡っていると、彼女は俺の顔を両手で挟み、唇を寄せてくる。反射的に身体が拒否反応を示したものの、時既に遅し。気付いた時にはキスをされていた。さらに、彼女の体重がのしかかってくる。背中が、後頭部が、ベッドに密着する。押し倒されてしまった。

 頭がぼんやりとする――と、急に息苦しさが襲ってきた。少々乱暴に彼女を引き剥がす。

「はあ! はあ……息が止まるかと思った」

「……キス、しちゃったね」

 彼女はなぜか横で頬を赤らめている。

「あたし、圭とキスしてる時、頭がフワーってなった」

「それ、ただの酸欠だと思うぞ。それにしても、姉ちゃんとキスするなんて……うわー……」

 俺は帰れない場所に、足を踏み入れてしまったかもしれない。大人の姉弟がキスをするなんて普通ではない。しかし、それは彼女が無理矢理しただけだ。まだ大丈夫なのかなあ、と自問自答する。

 彼女はというと、すっくと起き上がって俺の枕を抱え、部屋から出ていった。

 頭がフワー、と言っていたが、俺もキスの最中はそうなっていたと思う。そして今、胸の中に心地いいような不快なような、ほのかな暖かさが広がっていく。

「はい、これ。あたしの枕。こうかーん」

 放心状態になっていると、彼女は自分の枕を抱えて戻ってきた。

「要らないから。別に枕がなくても寝れるし……それに交換したら、俺も姉ちゃんの匂いを嗅ぎたいみたいじゃん」

「あたしの匂い、嗅いでもいいんだよ? なんなら今、直に嗅ぐ? ……あ、お風呂入ってからの方がいいかな」

「嗅がねえよ! 枕は好きにしていいから、出ていってくれ……」

「もう……怒りんぼさんなんだから」

 彼女は部屋を出ていった。


 夜、俺は夕食を済ませた後、巧巳に電話をする。

「……もしもし」

『もしもし、どうしたんだ?』

「明日……飲みに行かない?」

『まさか……』

「ああ、そのまさかだよ! たぶん、まだギリギリ大丈夫だ。頼む、付き合ってくれ」

 巧巳は明日はバイトがあって、飲みには行けないようだ。だが、それまでの間に話すことなら出来るということだった。とにかく一人で考えていると、大変なことになりそうな気がする。まあ、今でも充分大変なんだけど。


 次の日の17時、俺は家から十分程歩いたところにある、公園のベンチに座って待っていた。少しして巧巳が来た。

 彼が横に座った瞬間、自分でも信じられない程に、口から次々と姉にされたことが出てくる。

「それ……ギリギリ大丈夫じゃなくて、余裕でアウトだろ」

 話をひととおり聞いた、彼の第一声は容赦のないものだった。俺はどこかで、まだ大丈夫と言ってほしかったのかもしれない。しかし、彼の口からその言葉が発せられることはなかった。

「そうだよな……俺、もうどうしたらいいのか分からねえよ」

「圭の姉ちゃんを最後に見たのって、中二の時くらいだったかな。小動物っぽくて可愛らしい感じだったような……今だから言えるけど、実は俺、圭の姉ちゃんに憧れてたんだぜ? 圭はその人にキスをされた……幸せ者だな」

「……今はそんなことはどうでもいい」

 彼がこの場を和ませようとしていることは分かるが、付き合う余裕がない。

「俺を呼び出してまで話をしたいってことは、圭がそれを大変なことだと思ったからだろ? 所詮、相手は女だ。力なら負けないだろ。セクハラされようが力で押さえ込めばいい。圭はそれが出来ないんだよな?」

 正論を並べ立てられてぐうの音も出ない。抵抗するだけならどうにでもなる。俺が悩んでいることはこの前とは違って、形容しがたい気持ちが生まれてしまったこと。加えて、そのやり場がないことだ。

「俺、よく分かんないけど、姉貴のことが好きになっちゃったのかもしれない……今は世間一般の倫理観で、それを抑え込んでるだけかもしれない」

「やっぱりそうか。もし……もしもだ。自分のことと姉ちゃんのことだけしか考えなくていいとしたら、圭はどうしたい? 俺はそれが聞きたい」

 彼は俺が姉に対して複雑な気持ちを抱いていることには、ひとつも否定するような言葉を浴びせることはなかった。優しさに涙が込み上げそうになる。歯を食いしばり、質問の回答を探す。

「俺は……今度は自分から姉貴を抱き締めたい。今は姉貴と男と女の関係になりたいかどうかは、正直分からない」

 口が勝手に動くかのように言葉が出てきた。

「そうか。まあ、今は少なくとも冷静ではないかもしれんからな。エッチするわけじゃないんだし、それくらいなら今日、うちに帰ってからでもしてみたらどうだ? してみたら、また自分の気持ちに気付くかもしれんしな」

 彼はそう言いながら、ベンチから立ち上がった。そして、両手をジーンズのポケットに突っ込む。

「俺は圭と付き合いが長いから、どんな奴かはそれなりに分かってるつもりだ。圭が何を選ぼうと、それは考えて考えて考え抜いた末に選んだことなんだろ? だったら俺は何も口出ししねえよ。思ったようにしてみたらいい」

 それ以上は何も言わず、彼は軽く伸びをして公園から出ていく。

 しばらく俺は、まだ肌寒い春の風に当たってから家に帰った。


 俺は家に着くと自分の部屋に向かう。丁度その時、姉が部屋から出てきた。

「圭、おかえり!」

 悩んでいる俺とは対照的に、彼女はいつもと変わらない様子だ。それどころか、いつもより顔色が良いようにも見える。

「ん? なんだか元気ないねえ。あたしが優しく慰めてあげよっか?」

「いや……」

 彼女の横を擦り抜け、自分の部屋に入ってベッドに寝転がる。今、あの明るい笑顔を向けられると、心を掻き乱される気しかしない。

「……ん?」

 枕がある。姉の物だが。こういう小さな気を遣うくらいなら、俺の気持ちをもっと考えてほしい。

 姉の気持ちが分からない。昨日あんなことがあったのに、さっきの彼女はなんでもない様子だった。もしかして、本当に俺をからかっているだけなのかもしれない。そうだとしたら、俺一人だけがこんな気持ちになっているなんて、馬鹿みたいだ。


 夕食を済ませると、俺はまた自分の部屋に戻り、ベッドに寝転がる。今日はもう何もやる気が起こらない。

 そのまま寝てしまっていた。時計を見ると22時を過ぎていたので、二時間くらいは寝ていたようだ。風呂に入るために部屋を出る。

 リビングでは姉がソファーに座り、缶酎ハイを片手にテレビを観ている。一度こちらを向くが、無言でまたテレビの方に視線を戻した。今日の彼女は大人しすぎて不気味だ。


 俺は風呂から出ると自分の部屋に向かった。今日は姉がベッドを占領しているということもなく、静かだ。ベッドの上であぐらをかく。これだけ何もないと、無意識に彼女のことを考えてしまう。普通の恋なら微笑ましいことだが、相手は姉だ。笑えない。

 うっ屈とした気持ちが晴れることはなく、ダラダラと時間は流れていった。時計に目をやると、23時を過ぎている。

 彼女のことが頭にこびりついて離れない。これを解消するためのひとつの手段として、彼女の部屋に行こうかという考えは浮かんだ。だが、どうにかそれは抑え込んだ。部屋に行けば、自分の気持ちが溢れ出すのではないかと怖い。

「クソっ……!」

 結局悩んだ挙げ句、痺れを切らして彼女の部屋に向かう。

 部屋の前に着くと、一度深呼吸をしてから扉を叩く。

「はい」

「俺だけど……」

「どうしたの? あ、枕取り返しに来た?」

 そこまで考えていなかった。

「ん? ……うん、そうそう! 入ってもいい?」

 もう、会うための理由はなんでもいい。

「どうぞー」

 部屋に入る。彼女はパソコンのモニターを見ているが、俺が扉を閉めると振り向いてこちらを見る。

「ごめんごめん。忘れてた。持っていっていいよ」

「ああ……うん。それ、何見てたの?」

「これ? どうやったら女子力アップするかなーって」

「女子力上げるなら、彼氏と別れる前に上げなよ……」

「もうー、うるさいなあ」

 俺は彼女のことが気になってここに来た、ということが言えなかった。

「……どうしたの? 枕は?」

「姉ちゃん、俺……」

 彼女は立ち尽くすことしか出来ない俺を見て、首を傾げる。

「圭、今日はなんだか様子が変だよ。さっきも元気がなさそうだったし……あたしで良ければ、話聞くよ?」

 眉尻を下げ、目の奥を覗き込むような視線が、今は直視出来そうにない。とりあえず、彼女の横に座る。すると、突然抱き締められ、頭を撫でられた。

「よしよし。何があったのかは分からないけど、元気出してね」

 温かい――頭では彼女を引き剥がそうとするが、心地好さが上回り、身体が動かない。

「姉ちゃん……」

「どうしたの?」

「姉ちゃんは俺にそういうことをして、何も思わないの?」

「何もって、どういうこと?」

 彼女の声にふざけた様子はない。本当に言葉の意図が分かっていないようだ。

「例えば、俺のことを好きだと思ったり……」

「あたしは圭のことは好きだよ、昔から。好きじゃなかったらこんなことしないよ」

 話が噛み合わないのが焦れったい。

「そういう意味じゃなくて……一人の男としてだよ」

「……え?」

「家族だとか弟だとかは関係なく、一人の男として俺のことはどう思ってるの?」

 彼女は急に腕を解き、少し離れて正座した。そして、俯きがちに俺を見る。

「あたしね、彼氏と関係が悪くなってから――」

 質問に答えるつもりがあるのかどうかは分からないが、彼女は話しだした。

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